100均の王者ダイソー~安さの舞台裏を公開
広島県東広島市にあるダイソーの本社。その朝はラジオ体操で始まる。従業員は全国で3万5千人に及ぶ。
午後1時。荷物を抱えた人たちが続々とやってきた。ダイソーの本社には、1日に20社余りのメーカーが全国からやって来る。商品の99%がメーカーと共同開発するプライベートブランド。毎月700もの新商品を生み出しているという。
メーカーと相対するのは30人のバイヤー。ダイソーの根幹を担うスペシャリストだ。
アパレル担当で、入社13年目の脇田悟。始まったのは靴下の商談だ。メーカーが次の秋冬に向けた新商品を提案する。すると脇田が希望買取価格を切り出した。メーカーにとってはなかなか厳しい金額のようで、渋い表情だ。脇田は「前年の倍の量を発注する」と口説く。
商談は10銭単位の攻防になる。それでもメーカーにとっては「ダイソーは商品数も店舗数もあって販売力もある会社なので、商品を1つでも多く決めることは会社の利益につながります」(メーカーの担当者)と、メリットは大きい。
「ダイソー詣で」をするのは日本のメーカーばかりではない。ある男性は「バングラデシュのスリッパ工場の商品を紹介しに来た」と言う。
スリッパはダイソーの稼ぎ頭のひとつ。これまでは150円以上の価格帯が中心だった。今回、バングラデシュの工場と手を組み、新しく100円スリッパを開発するという。
担当バイヤーは入社8年目の櫻木由香里。その櫻木が、依頼していたスリッパと、今回、工場で作った試作品では品質が違うと指摘している。櫻木がハサミでスリッパを切り出した。見ると、履き心地を決めるクッション材が、10ミリの約束だったのに試作品は3ミリしかなかった。
手厳しい商談だが、櫻木には強い信念がある。「お客様に満足していただけるような価値をプラスしたいという気持ちでやっています」と言う。
商談には社長の矢野が加わることもある。矢野は社長となった今も現役のバイヤーだ。社員はもちろん、メーカーにも遠慮なく意見を言う。100円の商品で客を飽きさせない難しさを誰よりも知っているからだ。
「お客様の心を引き付けるのは大変です。戦いの中で、良いものを作っていく気持ちがちょっとでも薄らぐと、あっという間に半年先には落ちていく。怖いのは女心とお客様心です」(矢野)
国内8カ所にある物流倉庫。ダイソーの商品総数は7万点。それを供給するメーカーは、国内外合わせて1400にも及ぶ。まさにグローバルで商品力を積み上げている。
売り上げはこの20年、常に右肩上がり。そして去年、初めて4000億円を突破した。
夜逃げ、借金、倒産~ダイソー社長ヒストリー
広島県福富町に、矢野が高校までを過ごした築150年の生家がある。今は空き家となっているが、矢野は時折ここを訪れるという。
父は町医者だったが、貧しい人からは金をとらず、生活は厳しかった。そんな父は口を酸っぱくしてこう言い続けたという。
「勉強せえ、仕事を手伝え、勤勉にせえと、火のように怒られた。親父のおかげで身を粉にして働くというのを教えてもらった。あれがよかった」(矢野)
8人兄弟の末っ子として生まれた矢野。2人の兄は成績優秀で医者となった。劣等感をバネに身を粉にして働き続けてきたという矢野だが、その半生は苦難の歴史だった。
1963年、矢野は一浪して中央大学の夜間に入学。「バナナの叩き売り」などのアルバイトで生計を立て、学生結婚する。
卒業後、地元・広島に戻り、妻の実家の養殖業にたずさわる。父の教え通り懸命に働くが、借金だけが膨らんで倒産の危機に陥った。どうしようもなくなった矢野は、医者となっていた兄・幡二に泣きついた。頼んだ借金は700万円。いまなら1億円に相当する。幡二はなにも聞かずに金を用立ててくれた。
兄からの借金で一時はしのぐも、3年後にあえなく倒産。「兄に顔向けできない」と、矢野がとった行動は夜逃げ。妻と幼い息子を連れて、広島を離れ、東京に向かった。その後は土木作業やチリ紙交換など9回も転職。しかし、どれも長続きしなかった。
そんなある日、幡二から1通の手紙が届いた。「東京に行くのでホテルまで来い」というのだ。「借金のことをなじられるのだろう」としばらくためらったが、矢野は兄を訪ねた。すると幡二は笑顔で矢野の手を取り、優しく迎え入れてくれた。
「怒られるかと思ったら、ニコッとした顔が見えた。『元気だったか? よかった、お金のことは心配しないでいい。お前らはお前らで生きていけよ。借金は返さなくていいから、自由に生きていけ』と言ってくれた。本当に泣きました」(矢野)
幡二さんはこのときの心境をこう語る。
「昨日会ったような感じだった。兄弟だからブランクは無い。考えていることはだいたいわかる。厳しい世間を渡ったんだろう」
兄に恥ずかしくない人間になろう。そう誓った矢野に転機が訪れた。