アニメに罪はない。京アニ事件を招いてしまった「実社会」の問題

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35名もの才能あふれる方々の命が失われた、京都アニメーション放火事件。その原因が、アニメの「作り手側」にもあるとする意見が大きな議論を呼んでいます。そんな中で、「アニメに罪はない」とするのは、米国在住の作家・冷泉彰彦さん。冷泉さんは自身のメルマガ『冷泉彰彦のプリンストン通信』の中で、そう結論づけるに至った理由を記しています。

アニメに罪はない、責任は実社会にある

2019年7月18日に発生した京都アニメーション第1スタジオへの放火殺人事件では、犠牲者の数が35名となる一方で、本格的な捜査は進展していません。

そんな中で、アニメ業界の内部と周辺から、今回の事件を文化論として問題提起をしようという動きが出てきています。

代表的なものは、京アニに在籍していたこともある山本寛監督の一連の発信です。

個人のブログに発表した「僕と京都アニメと、『夢と狂気の12年』と『ぼくたちの失敗』」は、3年前に山本監督が行なった「アニメ・イズ・デッド」という講演の際に公表した「オタクはやがてアニメを壊す」という「懸念」をベースとしており、監督としては覚悟と信念に基づく発言だということがわかります。

一方で、純丘曜彰すみおか・てるあき大阪芸術大学教授がブログに発表した「終わりなき日常の終わり:京アニ放火事件の土壌」の方は、

いくらファンが付き、いくら経営が安定するとしても、偽の夢を売って弱者や敗者を精神的に搾取し続け、自分たち自身もまたその夢の中毒に染まるなどというのは、麻薬の売人以下だ。

という表現が、犠牲者に対する言葉としては行き過ぎだとして、削除に追い込まれました。ですが、メッセージとしては、山本監督の主張と重なる内容と思います。

山本監督は「『被害者側』か『加害者側』か」というエントリで、

今度こそ俺は許さない。もちろん犯人を許さない。そして犯人を生み出す土壌となった、このオタクの狂暴化した「空気」を許さない。

僕は残りの人生、アニメに関わる関わらないは抜きにしても、この「空気」だけは全力で払拭する。そのためには命をも賭ける。

と強い言い方で「オタクを批判しています。一方の純丘教授は

夢の作り手と買い手。そこに一線があるうちはいい。だが、彼らがいつまでもおとなしく夢の買い手のままの立場でいてくれる、などと思うのは、作り手の傲慢な思い上がりだろう。連中は、もとより学園祭体験を求めている。だからファンなのだ。そして、連中はいつか一線を越えて、作り手の領域に踏み込んでくる。

と京アニの側に問題があるとしながらも、「オタク=連中が一線を越えてきたということには強く非難しているわけです。また、そのような「オタク」の嗜好に迎合した創作を続けたことへの批判ということでも、両者の主張は重なっています。

山本監督の言う「どんな危険を孕んでいるか想像もつかない狂気を自ら招き入れ無批判に商売の道具にした時点で、僕たちの命運は決まっていたのだ」という指摘は、純丘教授の「麻薬の売人以下だ」という形容とほぼ同一と言っていいでしょう。

私は、この両者の主張を繰り返し読んでみました。どちらも誠実な、そして切実な姿勢から書かれたのは間違いないと思います。

ですが、その主張に関しては、私は違うと思います。アニメが過剰にオタクに迎合することで、「ファン=オタクが暴走したというロジックには賛同できないからです。

確かに、平成後期以降の日本のアニメは、純粋化や成熟への拒否というカルチャーを抱えています。それも非常に強く抱えています。ですから、芸術としては、現実逃避として受容される度合いも高くなっていると思います。

ですが、芸術というのは常に現実とは別の世界を構築し経験させるという性格を持っています。音楽で言えば、ワグナー、コルトレーン、ストーンズ、美空ひばり、いずれも現実ではない世界へ誘うから人の心をつかむのです。文学も同じです。「ハリー・ポッター」も「ノルウェイの森」も現実とは違う世界を読者に経験させます。美術も同じですし、比較的現実に近い写真芸術も対象を二次元の四角形に移すことで「異化」効果を発揮するのです。

アニメは、この中でワグナーなどのオペラが持つ総合性と写真芸術に似た異化効果を兼ね備えたフォーマットで、そもそも仮想現実を追体験しやすいように作られていますが、芸術一般の持っている性格という意味では本質的には変わりません。

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