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江戸川心歩・傑作娯楽小説全集

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創刊準備号 1・05・09・23


☆隔週メールマガジン 第1・第3土曜日(月2回)配信


§1 明智小五郎VS怪人二十面相 
   
登場人物紹介→ホームページ

http://jns.ixla.jp/users/j200109301857522/index.html
                             江戸川心歩 作

明智小五郎 名探偵 独身のイケメン・さわやかで優しい
カオリ 明智の助手
小林君(小5)明智の助手 大臣君(小5)かっちゃん(小5)
織田警部補 恋人真知子
下田警部補 妻信代
大滝氏 ホテル王・大金持ち 若い妻早苗
草田 大滝邸の執事
マジシャン  ピエロ
怪人二十面相 変装して現れる大盗賊 殺人はしない主義

連載第一回

   第1話「マリアの涙」盗難事件

    1

 夕映えが洋館のステンドグラスを通して、サロンが紫色に染まり、オペラ・トゥーラ
ンドットのアリアが流麗に広間に溢れている。らせん階段から、黒のビロードのドレス
をまとった、艶やかな黒トカゲ夫人が、ワイングラスを片手に優しく微笑みかけながら、
階下の明智小五郎を見下ろしている。二人の視線が絡み合って、明智小五郎が手を差し
伸べると、夫人はゆっくりと降りて近づいてくる・・・

「先生、明智先生、お客様です、起きて下さい!先生!」
 カオリの声で、明智小五郎は気持ちのよい眠りから、現実に引き戻された。――いい
夢だったのに・・・
「ん?」
「先生、しっかりしてください。お客様ですよ!」
「そうか・・お通しして」
「はい、はい、先生、しょうがないなあ、襟元・・髪も・・」
 カオリはソファーから起き上がった明智青年のくしゃくしゃになった、えり元と髪の
毛を素早く整えてから、急いで客を明智の部屋に通した。
 明智はまだ夢見ごこちで少しぼーっとしている。――美しかったなあ・・黒トカゲ夫
人は・・
 
既製の背広と糊のピシッと掛った白いYシャツに短髪の、いかにも生真面目・几帳面
なやせた初老の紳士は、折り目正しく、明智に深々と頭を下げ、勧められるままに、ソ
ファーに腰を下ろすと、青い顔で、明智の言葉を緊張気味に待ち構えている。カオリが
直にコーヒーを運んできた。
「さ、熱いうちにどうぞ」
「は、はい、先生」
 明智に優しく砂糖を勧められて、二杯ほど入れると、その紳士は、少し、砂糖をこぼ
して、あわてている。カオリが直に気が付いて、ニコニコして、清潔なグリーンのダス
ターで拭きとって、別室に下がった。
「あ、申し訳ございません、とんだ粗相を」
「お気になさらずに、今日はどんなご用件ですか?」
「はい、私は、こういうものでございます。本日は、私の仕えております旦那様からの
使いでございまして」
 紳士は、ポケットから自分の名刺を取り出して明智に渡し、小さな黒い革の鞄のチャ
ックを開けると、恐ろしい怪物にでも遭遇したように不安そうに、震える手で、一通の
手紙を取り出して、明智に渡した。
 名刺には
《大滝邸執事
草田 克夫
電話番号内線++++》とある。

「大滝さんというのは、あの大滝氏ですか」
「はい、さようでございます。先日、二日前の事でございますが、私共の旦那様の処に、
このような恐ろしい予告状が来まして」
 大滝氏というのは、以前は有名なホテルチェーンの会長だったのだが、ここ最近、6
0歳を過ぎてからは、会長職を勇退し、奥多摩の広い屋敷で、孫娘のような若い美しい
妻と一緒に、悠悠自適の生活を楽しんでいるという、有名な資産家である。
「この手紙、拝見してもよろしいですか」
「はい、旦那様が、是非、明智先生に読んでいただきたいと申しましておりまして」
「それでは、失礼して」
 
明智は、開封された手紙を取り出して、読み始めた。

《大滝総一郎殿
25日午後12時
貴邸に「マリアの涙」を頂きに参上する
怪人二十面相》

「・・フーン、明日の真夜中か・・この、『マリアの涙』というのは、どういった?」
「はい、それは、先週東京のオークションに掛けられましたばかりの、かの大富豪オナ
シス家の遺産の中の、宝飾品の一つでございまして、生前、オナシス様が、最愛の恋人
のオペラ歌手の・・マリアなんとか・・」
「ああ、マリア・カラスの為にですね」
「はい、はい、確か、そのようなお名前でございました。王妃様が身につけられるよう
な、それはそれは、まばゆいほどの、立派なネックレスでございます」
「それは、15カラットの赤いダイヤの、マリア・カラスが、オペラ『椿姫』の舞台で
身につけていた筈だったな・・カオリ君、ちょっと、マリア・カラスの、写真か何か・・
ここに持って来てくれないか、オペラ歌手の」
「はあい、先生、ちょっとお待ちください」

 執事は目をしばたたきながら、申し訳無さそうに、
「私、オペラの方は、何分、不調法でして、申し訳ございません」
「私も、最近はあまり、オペラには出かけていないのですが、少し前にマリア・カラス
の伝記映画のビデオを観たんですよ。カオリ君、あったかな?」
 
カオリが、マリア・カラスの写真集つきのCDジャケットを持って、部屋に入って来

「先生、これでいいんですか?」
「あ、これだよ。確かオペラ『椿姫』の・・さて・・あ、ありました。草田さん、ご依
頼の件は、この写真のネックレスでしょうか」
「あ、はい、はい、これでございます」
 白黒の舞台写真だが、確かに、マリア・カラスの胸に、素晴らしいダイヤと思われる
ネックレスが輝いている。
「ホオ・・で、このネックレスを明日の夜に、怪人二十面相が奪いに来るとは、いった
い」
「明日の夜は、私どもの奥様の24歳の誕生パーティーでございまして、その時に、お
客様の前にて、旦那様が奥様にこのネックレスをプレゼントする事になっているのでご
ざいます。明智先生、是非、私共にお力添えをお願い致します。先生」

「フーン、なるほど・・で、そのパーティに招待客は何人ほど、来るのですか?」
「何分にも、内輪の会でございますから、予定と致しましては、30人ほどでございま
す、はい。明日の夜、明智先生にも是非、この、招待状をといわれまして、ここに持参
して参りました」
 執事は、招待状を明智に渡すと、
「・・あのう、明智先生、この件お願いできますでしょうか?旦那様が、必ず先生のお
返事をいただいてくるようにとの事でございまして・・明日の晩では、ご無礼だという
事は、重々、承知しておりますが、何分、時価、一億相当の貴重な品でございますので・・」
「まあ、一億のネックレス!先生、行かなきゃ駄目よ。盗まれたら、ねえ、執事さん」
「私の事は、どうぞ、草田、とお呼びください、何なりと、私にお申し付けください」
 
明智はあっさりと、
「判りました。明日の夕方、9時までには、出かけられるかと思いますが」
「はいはい、左様でございますか。それでは、お待ち申し上げます。あの、確か、先生
の助手の小林様も、ご一緒にとの・・・」
「ねえ、草田さん、私も行っていいのかしら、これでも、私、先生の2番目の助手なの
よ。何か、お手伝いできる事があったら、ね」
「はいはい、カオリ様も、ご一緒においでくださいませ」
「ハハハハ・・カオリ君、大丈夫だよ。こういう、ヨーロッパ式のパーティーは、男性
は婦人同伴が原則だから・・・」
「わ、そうなの、嬉しい!何着て行こうかな、あ、でも・・明日の晩は急なことね。一
式揃えるとなると、先生、どうしよう・・・」
「カオリ様、前の奥様のドレスやら、靴やら、装飾品など、いろいろたくさんございま
すが、古いものでも宜しかったら・・」
「それって、貸していただけるの?」
「はいはい、いくらでも。ただし、アクセサリーは、レプリカのものでも、宜しいでし
ょうか、本物は、全て、今の奥様が、金庫の中にしまわれておられますので」

「何でもいいわ、大助かりよ。ねえ、草田さん、パーティーの時に、レプリカを使えば」
「はい、予告状の直後に、宝石店に注文したのですが、『マリアの涙』は特別に難しい、
ヨーロッパの伝統細工でございまして、日本のお店には、技術者が居ないんでございま
す。イタリアの職人なら造る事ができるそうでございますが、明日の晩までにはとても
間に合いませんので、やはり・・」
「そうだろうね。やはり、本物を使うしかないだろう」
「でも、草田さん、高価な宝石だから、当然、盗難保険は入っているんでしょう」
「・・それが・・旦那様は『マリアの涙』を何とか入手する事だけに気を取られておら
れましたもので・・今となっては・・」
「ははあ・・保険を掛け忘れてしまった」
「はい、いたしかたございません。こればかりは・・それでは、屋敷の者に、今日中に
、ご衣裳(ドレス)を届けるように申し付けますので」
「まあ、草田さんていい人!お願いします」

「あ、草田さん、その時に、もう一度、ご足労願えますか、お手数でも、大至急、パー
ティーに出席する人全員の名前と、年齢・性別・職業など、それと、お屋敷で働いてい
る人たちの名前と年齢・性別も紙にでも書き出して、届けて下さい。相手は怪人二十面
相です。彼は変装の達人ですから、招待者か使用人に変装して紛れ込んでいるでしょう
からね。これは大切な事です。必ず頼みますよ」
「はいはい、承知いたしました。それでは、私が全部、今日中にこちらにお届けにあが
ります」
「そうしてください。ところで、大滝さんの貰いたての若い奥様とは、どのような方で
すか?とてもお美しいとか・・」

「それは、それは、奥様はお優しくて、たおやかで美しい方でございます。ことに、お
声が、なんと申したらよいのか、鶯の鳴くような美しいお声なのでございます」
「なるほど、それで、大滝氏は、奥様に『マリアの涙』を贈る事にしたのですね」
「はい、旦那様は、コンサート会場で奥様と知り合われたそうでございます。もともと
奥様は、K音楽大の声楽科を卒業されて、チャリティー・コンサートで、歌曲を唄われ
たそうでございます」
「確かに、それならば、そのネックレスは、さぞかし、お似合いになる事でしょう・・」
「はい、旦那球は、奥様のお誕生日にプレゼントするのだと、ずっと前から心に決めて
おられたのでございます。それが・・このような事態になりまして・・明日の夜は、お
迎えに上がりますので・・・」
「あ、それは、大丈夫。私が車で運転していきますから」
「左様でございますか。それでは、私、さっそく、屋敷に戻りまして、先生のお申し付
けになられました名簿を作りまして、それから、お嬢様のご衣裳もお持ちいたします。
先生、ありがとうございました。旦那様もこれで、一安心でございます。明日の夜は、
どうか宜しくお願いいたします」

 午後、カオリがうきうきと首を伸ばして、事務所で待っていると、執事の草田が、パ
ーティーの名簿と、薄緑色の素敵なイブニングドレスの入った箱を持って、入って来た。
「先生、これでよろしいかと・・・」
「ううん、これで、全員ですか・・・」
 カオリは、ドレスと、靴を履いて、
「わあ、ぴったり!まあ、このブレスレット、レプリカなんですかあ!本物みたい!」

「これは、レプリカなんでございます。旦那様が会長職の折には、パーティーは、初対
面の方と一緒の事が多かったのですよ。それで、盗難に遭っても、構わないようにと、
レプリカのアクセサリーをたくさん作らせたんでございます。はい」
「本物は?」
「全て、金庫に厳重に保管しております」
「あ、そうだ、草田さん、屋敷の絵と、特に、出入り口、窓、地下室もあったら、この
紙に、判りやすく書いてください」
「はい、はい、先生」
「それと・・駐車場も書いてください」
「はい、はい」
 
カオリが、明智にくっ付いて、名簿を覗き込んでいる。

「あら、真知子先生だわ」
「はい、大滝家の御分家の嬢ちゃまが、真知子先生には大変お世話になっている、とい
う事でして」
「カオリ君、君の知り合いなのかい?」
「はい、彼女は私の高校の先輩で、小林君の塾の先生よ。あら?一緒の男性は一つ上ね
え・・誰かな?」
「若い女性の方は、お父様やお兄様とご一緒の方もおられますが・・」
「苗字が違うわ、織田さん?」
「織田警部補じゃないのかな」と明智
「あ、明智先生、とんだ粗相を、申し訳ございません。うっかり忘れて、先生、直に職
業を入れますので、はい」
 草田はあわてて、明智の顔色を伺って、名簿に職業を記入し始めた。明智は、おっと
りと優しく草田が書いている様子を見ている。

カオリは興味津々で、名簿を覗き込んでいた。

「あ、やっぱり、警察の人だわ、織田警部補ね・・あら、もう一人、下田警部補・・同
伴は、奥様ね、きっと」
「大滝さんのご身内の方が5人。この方々は、同じ屋敷に住んでいるのですか?」と明

「いいえ、ご親戚のこの2名の方は、お屋敷の敷地内の離れにお住まいですが、残りの
3名は、別な家から、お車で来られます」
「そうですか。それと・・屋敷内で働いている方たちですが、住み込みの方と、通いの
方、勤続年数も入れてください」
「はいはい」
 草田は、明智が怒ったりしないので、ほっとして、せっせと紙に書き足していた。

「マジシャンも来るんですね・・」と明智
「草田さん、どうぞ、どうぞ。これ、美味しいんですよ。私、買ってきたんです」
 カオリは機嫌よく、草田にヒロタのシュークリームとトワイニングの紅茶を勧めてい
る。
パーティードレスとブレスレットが気に入って、嬉しくて仕方がないのだ。
「草田さん、念のため、窓のところに、地面からの高さも入れてください」
「はい、はい」
「梯子などは、何処に?」
「そういう類の物は、全部納屋に入れて、鍵を掛けておきましたので」
「合鍵は、ございますが・・」
「当日は、屋敷の全ての鍵の管理は、警部補殿にお願いしてください。あ、名簿の中に、
判るだけで結構ですから、血液型と趣味も、出身地、現在の住まいの場所も・・」
「はい、承知いたしました」
 カオリが覗き込んで
「先生、やっぱり、織田警部補だわ」
「大滝さんが秘密に頼んでおいたのでしょう」・・・・・・・


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


   §2「冬のソナタ」殺人事件

                           江戸川心歩 作
* 弘崎大学寮生

長岡光夫 2年生 天才探偵 純情 京都生まれ 
三上美里 2年生 光夫のガールフレンド 青森生まれ

野村誠4年生 妹・2年生野村えり(美人) 父親 野村警部
美里の友達 2年生 平井ルリ子 同 白石夕実
光夫の友達 2年生 坂下・原口
若山君 2年生 下宿生 美里の幼なじみ 大学一の美男子

鳥越院長 大病院の医師 鳥越夫人 長男 秀一
内田医師 鳥越医院の勤務医
浜田 薬品プロパー
佳奈美お姉さん ルリ子の従姉妹
  
連載第一回

    第1楽章 

 11月。早朝。青森県弘前市。雪が積もって、ほとんどの女子寮生たちは、マフラー
を首に巻いて、急ぎ足で大学に向かっている。学寮から大学までの通学道の周りには、
りんご畑がのどかに広がり、遠くには雪を被った「津軽富士・岩木山」が、冬晴れの青
空に、美しくそびえている。

「美里、もっと早く起きなきゃだめでしょ」
「ごめんね・・」
「一時間目が英語だといつもこれなんだから、バカネ、なかなか起きないんだから」と
ルリ
「ア〜ア自転車だとすぐなんだけどな・・歩くのめんどうくさいよね」と夕実
「つるんつるんよ、アイスバーンだもの」
「アハハハ・・先輩、転んだ!!」と美里
「先輩、意地悪だから、イエス様の罰よ」
ロザリオを下げているルリ子は、キリスト教だ。

後ろから男子寮生たち4人が自転車で・・その中の一台が美里の前に止まった。
「長岡(光夫)、おはよう!!」(美里)
「光夫ちゃん、おはよう」(ルリ・夕実)
「フフ・・三上(美里)、乗るか?」
「駄目、危ないでしょ、光夫ちゃん」とルリ
「ううん・・・」(美里)
「どうするんや?」
「やっぱり歩いていく。怖いから」
「大丈夫やって」
 
先の方を走って行った、光夫の同級生の乗った自転車が、思い切りズデーンと転がっ
た。光夫が心配して、自転車に乗って追いかけて走ると、自分までズデーンと転んでし
まった。アイスバーンだから、打った腰が、かなり痛いのだが・・自分が一言でも、「痛
い」と言えば、美里は泣き出すに決まっている。光夫は、ぐっと奥歯をかみしめた。

 ルリと夕実は大笑い。美里は急いで、光夫の側に走っていった。
「長岡(光夫)、大丈夫?」
「・・・ああ・・・」
 光夫は、やっと起き上がって、自転車を起こしている。
「ね、歩いて行こうよ」
「そうやね」
 光夫は自転車を引いたまま、よろよろと美里と歩き始めた。
 ルリと夕実が笑ったまま、側に来た。
「光夫ちゃん、大丈夫?痛かったでしょ」
「・・いや、大丈夫や」
美里は笑っている二人を、きっとにらみつけた。
津軽美人(美人だが少々ダサイ)のルリは、クスクス笑いながら歩いている。たれ目の
夕実は、虫歯の口を開けて、ころころと笑う。

「・・長岡、痛いんでしょ?」
「俺は大丈夫やって・・坂下、大丈夫かな」
 先に転んだ光夫の友達も、他の女生徒たちから笑われているのに気が付いて、3人で
自転車を引きながら、歩き始めた。今朝は幸い雪は降っていない。
「長岡・・ね・・痛い?」
「大丈夫や・・俺より危ないのは、三上の英語やろ。ちゃんと予習したんか?」
「・・・・」(美里)
「夕べ何してたんや?」
「勉強はしたよ。心理学と数学。長岡もやってたよね、数学。」
「ああ、数学の後は?」
「本読んでた。『ラーマーヤナ』」
「それ、面白いやろ」
「うん!」
「本読むの、少し減らして、ちゃんと英語やらないと、留年するぞ」と光夫
「私、若く見えるから・・」
「バカ!何言ってるんや!」
 
後ろから、自動車通学の学生の車が通り過ぎた。助手席に、美人の女の子を乗せてい
る。
「・・・いいなあ・・」と夕実
「でも、危ないわよ。医学部の男子って、怖いから」とルリ
「医学部やなくても、知らない男生徒の車には乗らないほうがいいよ」と光夫
「・・長岡、大丈夫・・・」
 美里は、長岡の心配ばかりしている。
「美里、お嫁さんみたいね、フフフ・・」とルリ
 
二人は、少し赤くなった。校門の前に着くと、車の中から美里たちと同じ2年の野村
えりが、華やかに笑って、兄が運転する車の助手席から降りてきた。この兄妹も同じ
学寮に住んでいる。美里とは同じ高校で同級生だ。兄妹揃って、スマートな美男美女
だ。
 
「弘崎大学教養学部」4人の女の子たちは、農学部の2年生。長岡たち男子は理学部
数学科2年。数学科は学内でトップクラスの天才集団で、女の子と話をする習慣は無
いのだが・・光夫だけは気さくで愛嬌がいい。美里は体が小さく童顔で、不二家の店
先のペコちゃん人形にメガネをかけた顔だ・・女子寮1のおてんばなので、彼らに言
わせると、まだお子様扱いだ。皆、女子寮と男子寮のメンバーで、建物は男女別々だ
が、食堂でつながっている。どちらの寮も5階建てで、男女それぞれ、220名、総
勢440名の寮生たちが、仲良く生活している。寮の個室は全て二人部屋だ。

――4ヶ月前の7月
 美里は携帯電話が鳴って、どきりとした。
「もしもし、母さん、なんかあったの?」
「あ、姉ちゃん、母さん、今日は、調子がいいって、今、病院。帰るって言ったら、姉
ちゃんの声聞きたいからって、替るね」
 美里の母親・菊枝は体が弱く、美里が高校生の頃から、入退院を繰り返している。
「美里、夏休み、帰ってくるの?私、もうすぐ退院だから」
「こっちで、バイト半分、勉強半分かな」
「何だ、そうなの」
「お盆には、少しは帰れるから・・」
「父さん、ボーナス出たから、何か足りない物はないの?」
「姉ちゃん、昨日、バッチャ(祖母)、入院したから」
「母さん、いいって、バイト代入るから」
「美里、元気みたいだね、電話代、勿体無いから、切るよ。携帯は高くて」
「うん、じゃ・・」

 美里は、ふーっと溜息をついた。今夜は暑苦しい夜だ。

美里の部屋の開いた窓から、見事なピアノの演奏が聴こえてきた。
「あ、『月光』・・わあ・・わあ・・・・」
 美里は、夢中で、5階の部屋から、階段を一気に走って降りた。ピアノの音が、段々
大きく響いてくる・・荘厳な、月の光の波が、ぐいぐいと胸の中に押し寄せてくる・・
そのまま走って、食堂に駆けて行って、ピアノの前の長い木の椅子の隣に、いきなり座
った。黒い長髪で、無精ヒゲのやせた男の生徒が、熱心に弾いている。
 
曲が終って、美里は大声で
「わあい!!わあい!!」
 拍手をすると、いきなり大声で怒鳴られた!
「バカ!女はバカだから嫌いや!」
 
その男生徒は、乱暴に、バラバラグチャグチャと、リストの「愛の夢」を弾いた。
――ガチャガチャだな・・・ロマン溢れるようにさ・・優しく弾いたらいいのに・・・
 弾き終えて、美里の顔を見て、小馬鹿にしたように、フフフ・・と笑っている。
「リストだ。私もピアノ習っていたんだよ。『カンパネラ』も聴きたい!」
 きつい目で鼻の高い、西洋人みたいな顔の男生徒は、急ににっこりして、「そうカア」
と、今度は上機嫌で「カンパネラ」を弾いてくれた。美里は、又、大拍手。
「私、これ(月光ソナタの楽譜)練習してるんだけど・・左の指が、痛いの・・」
 男生徒は、美里の小さな手を見て・・
――これは・・この娘は、生まれつき手が小さくて、ピアノを弾くのが大好きなのに、
指が届かなくて弾けないんや・・可哀相に・・何か言ってやらなきゃ・・・

男生徒は、音譜を見ながら指して
「・・指が痛いのはここと、ここやろ」
「うん、うん」
「下の音、外して弾く。和音を1オクターブ縮めるとか、痛かったら、無理に指を伸ば
して弾かないんや」
「・・それはわかってるけど・・だって、駄目でしょ、そんなの」
「楽譜どおりに弾くという決まりはない」
「ええ?」
「音楽って、音を楽しむっていう字やろ。痛い思いをしてまで弾く事はない」
「・・そうなの・・・」
 男生徒は、美里の顔を見て笑って、
「そうや、音楽を楽しむんや!」
「・・・へええ・・・」

「本好きか?」
「うん、大好き!」
「読んでしまった本で面白いのがあるよ。読むか?」
「うん!うん!」
「俺は、長岡光夫。俺の家は京都なんや。214号室や」
「私、三上美里。青森。農学部2年なんだ」
「なんや、フフフ・・俺も2年や」
 
二人は、意気投合して話し始めた。二人とも、午後の同じ時間に、ラジオのFM放送
でクラシック音楽を聴いている。女子寮の個室に男生徒は入れないので、午後、暇な時
に、美里が長岡の部屋に遊びに行く事になった。

光夫が笑って行ってしまった途端に、男子寮の生徒がピアノの側に来た。
「あれ、長岡って、凄いんだ! 数学科でさあ、上級生より凄い出来るんだ!」
「・・へええ・・」
 
美里はとても嬉しかった。友達の前で、いつも元気な美里が、手が小さくて、指が痛
いと、そんな弱音を吐いたのは、初めてだった。高校の時から、理数系のクラスだった
から、ピアノを弾く友達は誰もいなかったから・・美里は、小学校の頃から今まで、女
の子なのに、男生徒よりも数学が出来るので、同級生の男子から優しく声をかけられる
と、決まって、遠慮がちに敬語で
「三上さん、数学・・教えてくないかな」
 ずっと、こればっかり。小学校3年〜美里はつまらなかった。自分よりも数学が出来
て、本をたくさん読んでいるBFが欲しかった。こんな人初めてだ!わあい!!やった
あ!
 
部屋に戻ってから、光夫は
――ああ、びっくりした。いきなり、俺の隣にどんと座って・・あの娘、恥ずかしそう
な様子が無いな、まだ、子供なんやろ。俺、女の子とくっ付いて話をするなんて、初め
てや。女の子って、いい匂いするんやな・・きれいな声やったしい・・・うぐいすみた
いや。
 人一倍、音感のいい光夫は、寮の食堂で、他の男生徒が女の子の顔をながめている時
に、顔よりも、声のいい娘が気になっていた。

 次の日の午後、美里は、光夫の部屋に初めて遊びに行った。女子寮の癖で、部屋の戸
を閉めて入っていくと、光夫が急いで部屋の戸を、大きく開けた。うれしげに、少しは
にかんで、
「女の子が来たら、部屋の戸を開けておくのが、男子寮の決まりなんや」
と教えてくれた。
――ここなら、安全だ!この人は私を大切にしてくれている・・・
 美里はうれしくなった。

 それから、一週間に一度位、明るい時間に美里は光夫の部屋で、3時間ほど、一緒に
FM放送を聴いて過している。光夫が居ない時も、自分の部屋のように、光夫と同室の
農学部の先輩に本を借りたり・・光夫の3人の同級生たちと音楽を聴いて、のんびりと
くつろいでいた。

 5時になると決まって、「バイバイ」と帰って、女同士で風呂に入ってから、夕食を
食べ、自室に鍵をかけて、すぐに眠る。午前2時頃にぱっと起きて、メガネを掛けて、
教科書とアルバイトで買った研究書を開いて、黙々と取り付かれたように勉強をしてい
た。お金が欲しくなると、寮の先輩に紹介してもらって、夕方や日曜日にアルバイトに
出かける時もある。行きと帰りは、数人で、タクシーに相乗りをする。

 質実剛健、バンカラな光夫は、汚くて、殺風景な部屋だ。本は腐るほど積んである。
光夫は部屋で茶も酒も飲まずに勉強している。光夫は片付けや掃除は苦手らしい。一言
で言うと、光夫の部屋は「花見後の公園」だ。

正反対に、美里の部屋は、自分で布を買ってきて縫った、フリルたっぷりの花模様の
ベッドカバーが可愛い。赤い薔薇の模様の白いティーカップ、紅茶やコーヒー・ウーロ
ン茶、電気ポット、陶器のディナーベル人形など、バイトで買った愛用品が、にぎやか
に並んでいる。一番のお気に入りは、木枠作りでいい音が出る、大き目のMDラジカセ
だ。いかにも女の子の部屋だが、美里の二つの大きな本棚には、研究書が何冊も男生徒
顔負けに並んでいる。
光夫の居る男子寮には、人文生も多いので、本やCDをいくらでも借りられるようだ。

第2楽章

 時間を冬の朝に戻そう。教室に入ると、美里の隣の席に、韓国スター顔負けの、超ハ
ンサムな長身の男生徒がなれなれしく座った。
「三上、おはよう!」
「ワカ、おはよう!」(美里は大声で)

通称「弘大の若様」全ての女生徒は、緊張して彼を小声で「若山さん」と呼んでいる
のだが、おてんばの美里だけは平気で呼び捨てだ。
 彼は美里の幼ななじみで、美里にとっては、ただの親友だ。見た目が貴公子然として
いるので、遠目には恋人同士のように見える・・・・・・・

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  • 2009/11/21
  • 毎月 第1土曜日・第3土曜日