古代史探求レポート

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古代史探求レポート
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ほぼ 週刊
最終発行日
2019年02月19日
 
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666部
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ニュース・情報源 > 一般ニュース > 文化・芸能

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古代史探求レポート 2019年2月20日号
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先月の終わりだったと思いますが、奈良県の橿原考古学研究所が小山田遺跡の第10次調査の結果を発表しました。これまでの調査では、小山田古墳は、一辺70メートルの方墳であるとされてきましたが、今回の発表は、一辺が80メートルだったという発表となり、78メートルの千葉の岩屋古墳を抜き日本最大になるということでニュースとしても大きく取り上げられました。
日本最大と言っても、例えば、前方後円墳であるなら、大仙陵古墳こと、仁徳天皇陵は墳丘長が525メートルもある巨大な古墳ですから、その規模は比較にならないぐらいのものなのですが、方墳として、もっと正確に言うのであれば、飛鳥時代の方墳としては日本最大のものであると言うことができます。
大阪府南河内郡太子町、通称、磯長谷古墳群の中にある春日向山古墳は東西65メートル、南北60メートルの方墳で、用明天皇の陵であると 治定されています。それよりも大きいわけですから、当時の人物の中ではごく限られた人になってくるわけです。少なくとも用明天皇より力があった人物ということになります。
小山田古墳の近く、同じ奈良県明日香村には有名な石舞台古墳があります。これも現在は、剥ぎ取られ石室しか残っていませんが、一辺約50メートルの方墳であったとされています。ご存知、蘇我馬子の墓です。
小山田古墳には、これまでに階段状に積まれた板石の跡や、巨大な掘割には石張りがされていた跡が発見されており、非常に手のかかった大工事により造成された墓であったことが分かっています。
これ程の大工事により作った陵でありながら、その痕跡が見つからないように埋められてしまっていたというのも奇妙な話です。この小山田古墳は、その規模の大きさから舒明天皇陵であるのではないかという説が有力です。日本書紀によると、皇極天皇の即位元年12月21日に、息長足日広額天皇を滑谷岡(なめはざまのおか)に葬りました。とあります。この滑谷岡が、小山田古墳ではないかとされているのです。
しかし、日本書紀はこの後、次のように続けるのです。
「この年、蘇我大臣蝦夷は自分の祖先を祀る廟を葛城の高宮に立てて、八ツラ之舞をしました。そして、歌を作って言いました。
大和の忍の広瀬を渡らむと 足結(あよい)手作(たづく)り 腰作(こしづく)らふも
また、多くの国にいる民と合わせて180部民を起こして、前もって双墓(ならびのはか)を今来に作りました。一つは大陵といい大臣(蝦夷)の墓としました。一つは小陵といい入鹿の墓としました。願わくば、死んで後に人が苦労しないようにと。さらにすべての上宮の乳部(ミブ)の民を集めてハカ所に使役しました。
上宮大娘姫王(聖徳太子の娘)は憤慨して嘆いて言いました。 「蘇我臣はもっぱら国政をほしいままにして、無礼な行いが多い。天に二つの日はなく、国に二つの王はいない。どうして心のままに、ことごとく封じる民を使役するのか」 これで恨みを結び、ついに滅ぼされました。 」
王にしか許されていない「八つらの舞」なるものを蘇我蝦夷が行い、勝手に民衆を使って蝦夷と入鹿のために双墓(ならびのはか)を作ったと言って憤慨しています。憤慨しているのは、聖徳太子の娘です。そして、こんなことをするから滅びるのだと言い、繋がっていく乙巳の変を正当化しているのです。
この時、作られた双墓(ならびのはか)の大陵こそが、小山田古墳であると主張しているのは、白石太一郎大阪府立近つ飛鳥博物館名誉館長です。私も個人的には、この意見に賛成です。そうであれば、埋められてしまったのも納得ができるからです。
小山田古墳が発掘される以前、この双墓の記述は嘘ではないかと考えられてきました。どこにも、その墓に該当するような墓が存在しなかったからです。どうしても見つけられないために、天武天皇及び持統天皇の陵である明日香村にある野口王墓の場所にあったものが、壊され作り変えられたという説が最もらしく唱えられたりしていました。
小山田古墳が大陵であるなら、菖蒲池古墳が小陵ではないかと見られています。菖蒲池古墳は、一辺が30メートルの方墳で、何よりも小山田古墳と同じ方向軸を持っています。そして、玄室内部には非常に精巧に作られた家型の石棺が2基置かれていました。これらが、双墓であるなら、日本書紀の記述が事実であったこと示しています。
とは言うものの、私は実は違うのではないかと疑っているのです。菖蒲池古墳は丘陵の中腹に作られています。加えて、一辺が30メートルというのは、何と言っても小さすぎます。片や80メートルなのですから、50メートル程度あってもおかしくはないように思います。小山田古墳のある同じ河原の地に大陵と同じように埋もれているのではないでしょうか。
日本書紀の記述には嘘が多いとして満足に取り上げて分析されないことが多いのですが、双墓が実在するように、やはり、日本書紀に記載されている内容は正しいのです。その内容に、編集者が文章を付記し、一部の主人公を変えることで、日本書紀は真実の姿を失っているのだと思うのです。
日本書紀の中で、皇極天皇の条に書かれている内容は、皇極天皇の出自と蘇我氏の専横だけです。皇極天皇の治世というものは、全く記述がありません。重祚後の斉明天皇はともかく、皇極天皇は存在しなければならない必要があったのでしょうか。
皇極天皇の和風諡号は、天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)であり、諱は宝女王です。お父さんは、押坂彦人大兄皇子の子供の茅渟王です。お母さんは、吉備姫王で、兄弟には、皇極天皇の後に天皇になった孝徳天皇が存在しています。お父さんは同じ茅渟王ですが、腹違いの兄弟が舒明天皇になります。茅渟王は、三人もの天皇のお父さんになったのです。
お母さんの吉備姫王の父は櫻井皇子で、彼は欽明天皇の十番目の子供です。押坂彦人大兄皇子のお父さんは敏達天皇ですから、これまた欽明天皇の子供です。敏達天皇は継体天皇系であって蘇我氏とは関係ありません。
こう見てみると、確かに当時、権力者としての力を持っていたであろう、蘇我氏の一族と、継体天皇系の一族の両方の血を引いている皇極天皇は非常にバランスの良い存在であったのかもしれません。財、または、宝の字を名前にもつ人物であるだけに、非常に恵まれた境遇にいたことも確かだと思います。
日本書紀の皇極天皇の条の前半は蘇我蝦夷の話で埋められています。まずは、旱魃がやってきます。雨が全く降らなかったようで、日本書紀は、次のように記述しています。「7月27日。大寺の南の庭に仏菩薩の像と四天王の像を飾り、諸々の層を、屈して請願して、大雲経などを読ませました。その時、蘇我大臣は香炉を手にとって、香を焚いて、願を発しました。
(中略)8月1日。天皇は南淵の河上に行って、跪いて四方を拝みました。天を仰いで祈り請い願いました。すぐに雷が鳴って、大雨が降りました。ついに雨が降ること5日。あまねく天下を潤しました。」
大雲経は、中国の曇無讖(どんむしん)によって漢訳された「大方等無想大雲経」が正式名称です。この経は、中国の唯一の女帝である則天武后と縁が深く、この経の中に記載されている「浄光天女が王位をつぐ」という一節を利用して、則天武后が皇帝になる道筋を作った経典でもあります。だからこそ、皇極天皇の最初の年に、この大雲経を入れ込んだ話を作り、それでも雨が降らないことから、最後、皇極天皇が四方拝を行うと雨が降ったという話を入れているのです。
非常に作為的で真実とは到底思えない記録ですが、ただ、重要なことは、「香を焚いて、願を発し」たのは蘇我蝦夷だということです。蝦夷が雨乞いの祈願を行ったという事実です。
雨乞いとは誰が行うものかというと、当然、その国を収める一番上の国王が天に対し祈る行事です。それを実施したのは、皇極天皇ではなく蘇我蝦夷でした。読んだ経が大雲経かどうかはわかりませんが、実際、雨乞いを行い、雨が降ったのだと思われます。そして、その記録の中に、皇極天皇の存在を意識させる文章を散りばめて飾っていることは事実だと思います。雨を降らすことができたので「徳のある天皇だ」と人々が言ったということまで付け加えています。
論語の中に出てくる、国王の舞である「八つらの舞」を行ったこと。生前に、部民を集め自らの陵を作ったこと。また、皇極天皇2年の10月6日には、次のような記録があります。「蘇我大臣蝦夷は病気のために朝廷に参上しませんでした。密かに、紫冠を子の入鹿に授けて、大臣の位に匹敵するようにした。」蘇我氏はなぜか、冠位十二階の外の存在でした。加えて、冠位を自分の意思で授けることができたわけです。これらの行為全ては、大王そのものです。
大王でもないのに、大王のような振る舞いをしてなんていう奴だ、と感じるのは、私達が、蘇我蝦夷が大臣であると信じているからです。それは、皇極天皇の最初に次の一文が置かれているからです。「即位元年春1月15日。皇后は天皇に即位した。蘇我臣蝦夷を大臣とするのは、以前と同じ。」この一文が蝦夷が大王でなかったという先入観を私たちに植え付けているのです。
しかし、その文章は次のように続きます。「大臣の子の入鹿又の名を鞍作(クラツクリ)と言う。自ら国の執政を行い、その勢いは父の蝦夷よりも勝っていた。それで盗賊は恐れて、道に落ちているものも取らなかった。」
おかしいですよね。誰が国の実権を握っていたのでしょう。そして、誰が人々を罰し、また、政治を行っていたのでしょうか。蝦夷と入鹿による非常に厳格な治世であったと書かれているのです。
「皇后は天皇に即位した。蘇我臣蝦夷を大臣とするのは、以前と同じ」という文章ではなく「蘇我蝦夷大臣は、その年、天皇(大王)に即位した」であれば、私達はどう理解したでしょうか。それ以降の文章はそのままであっても、全く違和感無く読む事ができ、蘇我蝦夷は入鹿とともに尽力したのだと理解できるのです。
本当は、蘇我蝦夷が聖徳太子亡き後、大王についたのではないでしょうか。そして、その歴史書に、「皇后は天皇に即位した。蘇我臣蝦夷を大臣とするのは、以前と同じ」という文章を書き込み、大王を変えてしまったのではないかと思うのです。そうしなければ、中大兄皇子は稀代の謀反人になってしまうからです。
蝦夷、そして入鹿の存在があまりにも大きく、彼らを置き換えるべく適切な人物が存在しないために、また、持統天皇の正統性を示すために、皇后という位置づけであった皇極天皇を利用して天皇に据えたのではないでしょうか。
多くの子供や候補者がいる中で、舒明天皇の皇后が皇位を継承しなければならなくなる理由は全くないのです。唯一あるとすれば、天智天皇の血筋の尊さを高めるためです。彼女は確かに非常にバランスのとれた血筋を持つ、恵まれた女性であったのかもしれません。しかし、実際の大王として君臨するだけの力もなければ人望もなかったと思います。
やはり、この時点では蘇我蝦夷が大王であったと考えるのが、最も自然であり、また、記述される文章の大筋を素直に受け取るなら、蝦夷が大王であったとして記述された書であったのではないかと思うのです。
また、蘇我蝦夷の大王としての振る舞いに聖徳太子の娘が怒ったという記述はなぜ必要だったのでしょうか。それは、聖徳太子がそれまでの大王であったからではないでしょうか。本来なら、太子の子供の山背大兄皇子が大王としてその後を継ぐべきであると考えていたにも関わらず、蘇我蝦夷が大王として振舞うことに怒ったというのであれば理解できるのです。上宮家と蘇我氏との間の政権争いがあり、そこにクーデターが発生し、大王の地位を奪ったのが中大兄皇子こと、天智天皇であったということが、真実の歴史ではなかったのでしょうか。
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<<編集後記>>
2月という月は運気が良くないのでしょうか。ニュースはどれも、ショッキングで不条理なものばかり。どうして、こんなに悪い方向へと回って行ってしまうのでしょうか。
1日の中で10度以上の温度差があったり、昨日と今日で10度近く最高気温が違うという気温差が、体調だけでなく精神的なバランスも崩してしまう要因になっているようにも思います。こんな時に出て来るニュースは本当に悪い話ばかり。
家の近くの梅が満開になりつつあります。1日も早く、春の訪れを感じたいものです。

<発行者> 株式会社歴史探求社
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