久米秋三郎
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偉人列伝

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偉人列伝

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古今東西、偉人たちの業績を、じっくりと見てみようと思います。文豪も偉人と見なします。福沢諭吉、夏目漱石、小林秀雄、江藤淳、ドストエフスキー

おすすめポイント
  • 時々、感動する。
  • 時々、腹が立つ。
  • ごくたまに泣く。
著者プロフィール

久米秋三郎

サンプル号
「偉人列伝」サンプル号

☆ご挨拶

久米秋三郎です。再び三度、メルマガを書くことにしました。初回と二回目は、一年も続きませんでしたが、三度目の正直、今回は、永続させたいと考えています。
大きな病気になった時は休刊ということになるかもしれませんが、読書をしたりパソコンを打ったりするのはするのは、
腹這いになってでもできることなので、そうそう休刊にもしません。幼少期から病気知らずの健康児、小児喘息(ぜんそく)という、数年に一度襲ってくるけっこう辛い病気以外は、したことがない。喘息は今はもう治っています。(健康証明!)喘息はなかなか辛いもので、その辛さはその体験者がいろいろと話したり書いたりしているとおりです。呼吸が困難になる。水中に潜っている、というよりは、あまりに酸素が薄い、という感じです。呼吸をするのだけれど、空気が少ししか入ってこない。

 はじめて喘息になった頃のことは覚えていませんが、小学生の低学年の頃だったはず。食べ物も固形物は喉を通らず、二三日でけっこう痩せました。二三日、酸素の少ない生活、ずっと布団の中で、体操座りに似た格好で、背骨を丸くして、息を潜めている生活です。当時は小児喘息に良く効く薬はなかったようで、ひたすら、背を丸くして嵐が去るのを待っていた。粉末状の薬を呼吸と一緒に肺に送り込む、みたいな薬があったようですが、私はあれは、一二度試してやめにしました。あまり効果がないように感じたからです。

 で小児喘息ですが、実際とても苦しい。数年に一度(年に一度?)、時々襲ってくるので、だんだん慣れました。どんなに苦しくても、数日耐えれば、必ず、呼吸は楽になり、すぐに食欲もわいて来て、すぐに元気になる。その事をいやでも何でも、学びました。今思うと、今までにけっこう辛い時もあったけれど、いざとなると楽天的になれるのは、小児喘息のお蔭だ!と半ば本気で思います。
 
話がそれました。なので、私は健康だし、ある種の忍耐力もあるので、このメルマガは是非永続させたい、というわけです。
 
このサンプル号を書いていて、どうもこのブログは、「文豪列伝」とでもした方がいいような気もしてきましたが、あえて、このままで行こうと思います。偉人というと、ふつう過去の人(故人)ということになりますが、私のメルマガでは、偉人の中に、現在活躍している立派な人も「偉人になりそうな人」として含めます。

 それから映画、これも含めます。映画はめっぽう好きなので、その感想を書きます。できればいい映画を観たい。副島隆彦氏の「政治映画評論」は、これまで日本に存在した誰の映画評論よりも、面白いです。そしてその解釈が最深部にまで届いている。私はそのように考えています。なので、副島氏の「映画評論本」を水先案内として活用させていただきたいと考えています。(ずいぶん前から氏の映画評論本から良質な映画をピックアップして観ていました。)
 
最後に。私は、自称ですが、哲学者で文芸批評家の山崎行太郎先生の弟子です。自称弟子の中でも私は最末端にある者ですが
、末端であれ、自称弟子であることには変わりない。弟子は、師匠を追い越すべきであると、それが弟子(自称であっても)の務めであると考えます。
はじめて山崎先生や江古田哲学研究会のみなさんと会食させて頂いた時、私は緊張していてほとんど山崎先生とお話できなかったが、その帰りがけに山崎先生は、振りかえって私に言われた。「僕のことをあまり褒めない方がいいですよ」。私は山崎先生の本やブログが面白いし、何よりその勢い、気迫に圧倒されて、肯定的にしか考えられなかったから、山崎先生が仰った意味が、分かっていなかった。つまりそれは、「間違っても私を偶像化するなよ」という意味だったのだなと、今になって思う。(続く)
 

大風呂敷を敷きました。あまりに大きすぎる。大風呂敷に見合うような内容のメルマガにしたい。
 
 

☆目次

□偉人について
□ドストエフスキー(0)
□福沢諭吉(1)「やせ我慢」
□ドストエフスキー(1)
□福沢諭吉(2)
□映画(1)「終着駅 トルストイ」
□創刊号目次


____
☆「偉人」について。

偉人とは何か?偉人とはもちろん、偉大な人物という意味だ。私は「偉人列伝」というタイトルでメルマガ、ブログを書き始めているが、「この人が偉大な人物なのか?」と私自身、自問自答することがなくはない。例えば、ドストエフスキー。彼は間違いなく文豪だと思う。凄い作品をいくつも残した。だが彼を「偉大な人物」と呼んでいいものかどうか。おそらく評価は割れる。

私は、凄い作品を残した文豪、文筆家も「偉人列伝」に加える。

いわゆる偉人も文豪も、あら捜しをしたらキリがない。人間であることは間違いないのだから、馬鹿げたエピソードも、その生涯にはいくつもある。そうした馬鹿げたエピソードも含めて、やっぱり凄いなあと。恐ろしいなあと。

偉大な人物とは、われわれ凡人には、ちょっと想像できないような人物なのだと、そう思う。その想像し難いところを、想像してみたい、それが私の「偉人列伝」を書く目的だ。偉大とは何か。

この「偉人」について、夏目漱石も書いている。(「文芸とヒロイック」)


《自然主義という言葉とヒロイックという文字は(中略)懸け離れたものである。従がって自然主義を口にする人はヒロイックを描かない。実際そんな形容のつく行為は二十世紀にはないはずだと頭からきめてかかっている。もっともである。
 けれども実際世の中にないまたは少ないという事実と、馬鹿げている、滑稽であるという事実とは違うべきはずである。
(中略)
 自然派の人がめったにないからという理由でヒロイックを描かないのは当(とう)を得ている。しかしめったにないからという言辞のもとヒロイックを軽蔑するのは論理の混乱である。
(中略)
そうして重荷を担(にの)うて遠きを行く獣類と選ぶ所なき現代的の人間にも、またこの種不思議の行為があるという事を知る必要がある。自然派の作物(さくぶつ)は狭い文壇の中にさえ通用すれば差支えないという自殺的態度を取らぬ限りは、彼らといえどもまた自然派のみに専領されていない広い世界を知らなければならない。(後略)》


偉大な行為というものは存在するし、偉大な人物もまた、時に、現われる。偉大な作品もしかり。



____


☆ドストエフスキー(0)


まずドストエフスキーの『悪霊』を今読んでいます。この作品は、ドストエフスキー作品の中でも特に注目される作品のようです。私自身は、『罪と罰』や『カラマーゾフの兄弟』の方が面白かったという感触だけが残っていて、なぜだろうかと。

小林秀雄もエッセイ(講演録)「ドストエフスキ七十五年祭における講演」や「ヒトラーと悪魔」の中で、『悪霊』に言及している。

山崎行太郎先生も『ネット右翼亡国論』の中で、ドストエフスキ―作品中、特に、『悪霊』に注目しておられるように思われる。

――

『悪霊』は、おそらく中高年の方が面白く読めると思う。一応、「革命騒動」を起こしているのは、二十代の若者らしい。だから、主人公は若者である、と言える。

しかし、割かれているページ数をきちんと調べてみれば、意外にも、中高年、四十歳代、五十歳代の「ステパン先生」「ワルワーラ夫人」に割かれている分量の方が多いかもしれない。少なくとも、前半における主人公は、「ステパン先生」と「ワルワーラ夫人」という、「革命騒動の首領たちの親たち」が主人公だと言っていい。

――


前半を読み終えた。「ステパン先生」が出奔する直前までだ。最後には、「ステパン先生」は出奔し、野垂れ死、あるいはそれに近い感じで死ぬはずだ。


この「ステパン先生」のバカげた決意とその実行は、あらためて考えるまでもなく馬鹿げたものだが、そうかといって、彼の長い長い「演説」、ワルワーラ夫人に向けた「訣別の辞」に、心を揺さぶられない訳にはいかない。


だが、結局、ステパン先生は、負け犬で終わる。

――


『悪霊』はとてもおもしろい。とても危険な書物だと思う。夏目漱石もドストエフスキーを読んでいた、とどこかで読んだ気がする。たしかにそうだと思った。漱石の『明暗』に登場する女たちにしろ、小林にしろ、ドストエフスキーの長台詞を彷彿とさせる。



どこを読んでみても、謎だらけだ。この謎は永遠に解けない。なぜなら作者のドストエフスキー自身、その謎を解けないからだ。ドストエフスキーでさえも解けない謎ばかりだ。だからドストエフスキーは、いつまでも、死ぬまで書き続けたのだ。夏目漱石だって、そうだ。

____


『悪霊』の下巻(第二部・第六章「奔走するピョートル」~ラスト)に入った。


ここに来てやっと、革命騒動らしきものが描かれる。ピョートルが動き回る。ピョートルは、ステパン先生の息子である。(ただし、本当の子であるかどうかは分からない)。


県知事のレンプケ、およびその夫人、ユリア夫人にもスポットがあたる。レンプケは、最終的に破滅する男だが、どのように?




ユリア夫人は、県知事夫人となった。

《突然自分が何かこう特別に選ばれた人ででもあるかのように、いや、〈その頭上に炎の舌の燃えあがる〉、神に選ばれた者とさえ感じてしまっていたのである。》P7






ピョートルとニコライ(スタヴローギン)との会話。ピョ―トルは言う。

《なにしろロシアに社会主義が広まったのは、主としてセンチメンタリズムのせいですからね。》P74

《あの連中なら火の中にでも飛びこませてみせますよ。おまえはまだリベラルの度合が足りんぞ、と一つどなりつけてやりさえすればいいんです。》P74






「シガリョフ主義」における「最終的解決策」。

《問題の最終的解決策として、人類を二つの不均等な部分に分割することを提案しているのです。その十分の一が個人の自由と他の十分の九に対する無制限の権利を獲得する。で、他の十分の九は人格を失って、いわば家畜の群れのようなものになり、絶対の服従のもとで何世代かの退化を経たのち、原始的な天真爛漫さに到達すべきだというのですよ、これはいわば原始の楽園ですな、(後略)》P102






ピョートルは言う。

《つまりね、新しい宗教が古い宗教に取って代わろうとしているわけで、》P107

《ぼくらは混乱時代を作り出すんです》P123

《家族だの愛だのはちょっぴりでも残っていれば、もうたちまち所有欲が生じますね。ぼくらはそういう欲望を絶滅するんです。》P125

《しかしぼくは最初の一歩を考えたんですよ。》P128







ステパン先生宅(ワルワーラ夫人が借り上げてくれている住宅)が「家宅捜索」を受ける。いよいよ、ステパン先生は、窮地に立たされる。


第九章「ステパン氏差押さえ」の結句。(これは、ステパン先生の「若い親友」、アントンのセリフ。)

《不幸な友よ、善良な友よ!》P150



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ついに読み終えた。長かった。

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ドストエフスキーの『悪霊』は、危険な書物だ。紙一重のところを、彼岸と河岸とを、行ったり来たりしている感じだ。

どうにもこの稿を締めくくれそうにもないので、打っちゃることにしました。また気が向いたら、読んでみようと思う。



____

☆福沢諭吉(1)「やせ我慢!」


福沢諭吉の本を読み直してみようと思い、何年か前に自分で書いた感想(抜粋)を探してみたらありました。


福沢諭吉は、慶応大学の創立者として、『学問のすすめ』の著者として有名です。


で、その『学問のすすめ』という本のタイトルや、冒頭の一節(天は人の上に人を造らず~)、これがたぶん、誤解のもとなんだな、と思う。


「学問」にしろ「天」にしろ、死語に近い。


しかしその内容は、とても新鮮で、若い人たち、これから混沌とした世界で戦っていかなくてはならない人たちの、大きな支えになるのではないかと思います。


百年以上前に書かれたものなので、漢字が難しい(当時は「常用漢字」なんてものはなかった!)。


しかし今では現代語訳もいろいろと出版されているようだし、原文のままでも、ルビ(よみがな)があるので、しばらく読み進めると、だんだんそのリズムに魅せられて、「ダーああ」、と一気に読めてしまうかもしれません。


(漢文・古文ではないが、福沢諭吉の文に慣れると、古文・漢文がとっつきやすくなると思います。)


福沢諭吉の自伝に相当する、『福翁(ふくおう)自伝』を手始めに、今回は、「ダーああ」ではなく、じっくりと読んでみようと思う。


以下に、数年前に読んで書いた『丁丑公論・瘠せ我慢の説』の感想(抜粋)を載せます。


____


『丁丑公論・やせ我慢の説』

ふくざわ・ゆきち著、講談社学術文庫
(ていちゅうこうろん・やせがまんのせつ)



まずは本書裏表紙の作品紹介から。


 《近代日本の代表的な思想家福沢諭吉は、本書「丁丑公論」において西南戦争の賊軍の首魁であった西郷隆盛を、西郷の行動は政府の暴挙に対する抵抗であったと弁護し、明治政府を痛烈に批判した。また「瘠我慢の説」において、明治維新の際、徳川幕府側にあって歴史的な役割を演じた勝海舟と榎本武揚の二人を取り上げ、その挙措と出所進退を批判した。福沢諭吉の思想のバックボーンをなす抵抗精神と自由独立の精神を知る上に不可欠の書。》






知ってるようで知らない福沢諭吉。「学問をすすめられてもなあ」、という人には、「瘠我慢(やせがまん)の説」がおすすめ。(ただし福沢のすすめる「学問」は、「お勉強」とは大分趣を異にするので速断は禁物。)


「丁丑公論」40ページ足らず、「瘠我慢の説」たった20ページ。「旧藩情」約30ページ。






「世界に専制の行わるる間は、これに対するに抵抗の精神を要す」。


 《…政府の専制咎(とが)むべからずといえども、これを放頓(ほうとん)すれば際限あることなし。またこれを防がざるべからず。今これを防ぐの術は、ただこれに抵抗するの一法あるのみ。世界に専制の行わるる間は、これに対するに抵抗の精神を要す。その趣(おもむき)は天地の間に火のあらん限りは水の入用なるがごとし。》(P9、「丁丑公論」)







瘠我慢(やせがまん)。


 《また古来士風の美をいえば三河武士の右に出る者はあるべからず、その人々について品評すれば、文に武に智に勇におのおの長ずるところを殊にすれども、
戦国割拠の時に当たりて徳川の旗下(きか)に属し、能(よ)く自他の分を明らかにして二念(にねん)あることなく、
理にも非にもただ徳川家の主公あるを知りて他を見ず、いかなる悲運に際して辛苦を嘗(なむ)るもかつて落胆することなく、
家のため主公のためとあれば必敗必死を眼前に見てなお勇進するの一時は、三河武士全体の特色、徳川家の家風なるがごとし。
これすなわち宗祖(そうそ)家康公が小身より起りて四方を経営しついに天下の大権を掌握したる所以(ゆえん)にして、
その家の開運は瘠我慢(やせがまん)の賜(たまもの)なりというべし。》(P54「瘠我慢の説」)







「城を枕に討死(うちじに)するのみ」。


 《そもそも維新の事は帝室(ていしつ)の名義ありといえども、その実は二、三の強藩が徳川に敵したるものより外ならず。
この時に当たりて徳川家の一類に三河武士の旧風あらんには、伏見の敗余(はいよ)江戸に帰るもさらに佐幕(さばく)の諸藩に令して再挙を謀(はか)り、再挙三挙ついに成らざれば退いて江戸城を守り、たとい一日にても家の運命を長くしてなお万一を僥倖(ぎょうこう)し、いよいよ策竭(つく)るに至りて城を枕に討死(うちじに)するのみ。すなわち前にいえるごとく、父母の大病に一日の長命を祈るものに異ならず。かくありてこそ瘠我慢の主義も全きものというべけれ。》(P56)






「その内実は徳川政府がその幕下(ばっか)たる二、三の強藩に敵するの勇気なく、勝敗をも試みずして降参したるもの」。


 《我輩(わがはい)はこの一段に至りて、勝氏の私(わたくし)の為には甚(はなは)だ気の毒なる次第(しだい)なれども、
聊(いささ)か所望(しょもう)の筋(すじ)なきを得ず。その次第は前にいえるごとく、氏の尽力をもって穏(おだやか)に旧政府を解き、
由(よっ)て以て殺人散財(さんざい)の禍(わざわい)を免(まぬか)れたるその功は奇にして大なりといえども、
一方より観察を下すときは、敵味方相対(あいたい)して未だ兵を交えず、早く自ら勝算なきを悟りて謹慎(きんしん)するがごとき、
表面には官軍に向て云々(うんぬん)の口実ありといえども、
その内実は徳川政府がその幕下(ばっか)たる二、三の強藩に敵するの勇気なく、
勝敗をも試みずして降参したるものなれば、三河武士の精神に背くのみならず、
我日本国民に固有する瘠我慢の大主義を破り、以て立国の根本たる士気を弛(ゆる)めたるの罪は遁(のが)るべからず。
一時の兵禍(へいか)を免れしめたると、万世(ばんせい)の士気を傷つけたると、その功罪相償(あいつぐな)うべきや。》(P61)







「戦勝を期したるにあらず」。


 《伝え聞く、函館(はこだて)の五稜郭(ごりょうかく)開城のとき、総督(そうとく)榎本氏より部下に内意を伝えて共に降参せんことを勧告せしに、一部分の人はこれを聞いて大いに怒り、元来今回の挙は戦勝を期したるにあらず、ただ武門の習(ならい)とて一死以て二百五十年の恩に報(むくい)るのみ、総督もし生を欲せば出でて降参せよ、我等(われら)は我等の武士道に斃(たお)れんのみとて憤戦(ふんせん)止(とど)まらず、その中には父子諸共(もろとも)に切死(きりじに)したる人もありしという。》(P65)





「有名無実(ゆうめいむじつ)と認む可(べ)き政府は之を顚覆(てんぷく)するも義に於て妨(さまた)げな」し。


 《こうして見ると、福沢と西とは、ともに全人類的見方があることを知りながら、現時点では日本という国家に偏頗心(へんぱしん)をもって
肩入れしなければならないというナショナリズムを主張した。すなわち福沢は、ナショナリズムが私情であることを自覚し、
西は理想世界に到達するための手段としてナショナリズムを肯定するのである。
このように国家を現時点での重要な手段と認めながら、国家をかならずしも絶対視しないという彼らの見解は、
幕末期に彼らがともに仕えた徳川幕府の崩壊を目の当りに見た世代の共通体験から出てきているように思われる。
彼らは、国家や政府には相対的価値を認めるが、
それも「有名無実(ゆうめいむじつ)と認む可(べ)き政府は之を顚覆(てんぷく)するも義に於て妨(さまた)げなき」ものと
みなしている。》(P142、小泉仰氏による解説より)




痛快!


本書を読まずして福沢諭吉を語るなかれ。




『丁丑公論・瘠我慢の説』 目次

明治十年丁丑公論
瘠我慢の説
旧藩情
福沢諭吉における抵抗精神とナショナリズム 小泉仰(こいずみ・たかし)


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☆ドストエフスキー(1)

先日、ドストエフスキーの『悪霊』を再読してみて、はじめに読んだ時にすっ飛ばしていた部分が相当あることがわかった。それでまたつい引きこまれて、混乱してしまった。打っちゃることにしたが、どうにも後味が悪い。それで『地下室の手記』を探したが見あたらず、再び新しい文庫を購入して、机の上に置いておいた。福沢諭吉の自伝的な『福翁自伝』を読み始めているのだが、机の上の『地下室の手記』がどうにも気にかかる。清水正氏のドストエフスキー論も気になる。

いつになるか分からないが、読まずにはおれないはずだ。

だから読むことにした。清水正氏のドストエフスキー論は、本が高価だから手に入るかどうか分からないが、なんとかして読むつもりだ。むろん全部を読破はできないだろうが、気が済むまで読みたいと思う。


☆福沢諭吉(2)

福沢諭吉の自伝、『福翁自伝』を読み始めた。福沢諭吉は、五人兄弟の末っ子だった。兄を筆頭に、三人の姉、そして諭吉だ。兄は、諭吉の二十代の頃に急死してしまった。そして諭吉が家督を継ぐことになった。しかし諭吉は郷里の中津(現在の、大分県中津市)にとどまる事ができず、家財一切、金になるものはなんでも売って借金を返済し、母と姪を残して大阪に出た。とにかく出た。まずは、緒方洪庵の所へ。緒方先生の所には、それ以前にも通った事があった。事情を話して、緒方先生の適塾の塾生なった。のちに塾長になる。


『福翁自伝』は、口述筆記されたもので、堅苦しい感じがしない。

――
福沢諭吉が大酒のみだったとは笑える。福沢は、緒方洪庵の塾(大阪の適塾(てきじゅく))の塾生だった頃、禁酒を試みた。

禁酒してから十日くらいたったころ、塾生仲間が、親切にも福沢に煙草をすすめてくれた。「君がいよいよ禁酒と決心したらば、酒の代わりにたばこを始めろ。なにか一方に楽しみがなくてはならぬ」と親切に言ってくれた。たばこのにおいを嗅ぐのが嫌で、しきりに塾生仲間に、苦情を言っていた福沢だったが、禁酒でつらい思いをしている時にたばこをすすめられて、試している間に、本当にたばこが好きになってしまった。そして福沢は言う。

《とてもかなわぬ禁酒の発心(ほっしん)、一ヶ月の大ばかをして、酒とたばこと両刀使いに成り果て、六十余歳の今年に至るまで、酒は自然に禁じたれども、たばこはやみそうにもせず、衛生のためみずからなせる損害と申して一言の弁解はありません。》



じゃあ適塾の塾生たちは、酒を飲んでたばこをすって、気ままに勉強していたのかというと、全然そうじゃない。猛烈に勉強している。どうやって勉強したか?

まず、蘭学を勉強していたのだが、医学書にしろ、物理学書にしろ、原典がとても高価で塾に一冊しかない。それを書き写す。語学辞典というものも塾に一冊しかない。自分で本を写して、自分一人で読み砕く。



《ないしょで教えることも聞くことも書生間の恥辱として万々一もこれを犯す者はない。ただ自分ひとりでもってそれを読み砕かねばならぬ。》


月に五回も六回も、昇級試験のようなものがある。試験が終るごとに、酒を飲んでばかをやったが、すぐにまた試験があるのでその準備でがむしゃらに勉強する。


乱暴狼藉、一昔前の、バンカラ学生に、さらに輪をかけた様な、豪胆な適塾の塾生たちだ。その貧しさは、今の学生の貧しさとはかけ離れている。福沢自身書いているが、適塾の親分、緒方洪庵は、福沢にとって父親に近い存在だった。塾生は、兄弟のようなものだったのだろうか。少なくとも、ともに学ぶ、仲間たちとの全寮制どころの共同生活ではない、大きな家族のような、そんな生活だ。こんな学問生活に憧れる。


そんなこんなで福沢諭吉は、二十五歳(かぞえ)で江戸に出ることになる。

―――

福沢諭吉の『福翁自伝』を読んでいるのだが、そこに「学者をほめるなら豆腐屋もほめろ」という節がある。こう書いてある。

《人間が人間あたりまえの仕事をしているに何も不思議はない。車屋は車をひき豆腐屋は豆腐をこしらえて、書生は書を読むというのは、人間あたりまえの仕事をしているのだ。》


私はここで、馬鹿げた事だが、書生とは、書を読む人のことだと始めて知った。そうか、そうなのだ。書生とは、書を読む人なのだ。

急に昔買っただけでろくろく読んでもいない洋書を読みたくなった。

____



☆映画(1)『終着駅 トルストイ最後の旅』

トルストイの「家出」は有名な話で、私は一人でふらふらと、酔っ払って、それで野たれ死んだとばかり思っていたが、そうではなかった。

妻との確執というのは、永遠のテーマなのだろうか。そうかもしれない。

トルストイの妻ソフィアは、世界三大悪妻の一人に数え上げられているらしい。この映画を見る限り、そうは見えなかった。副島隆彦氏は、「トルストイを奥さんが理解しなかった」と書いておられるが、(『政治映画評論 ヨーロッパ映画編』)、その通り、奥さんのソフィアはトルストイを、偉人としてではなく、夫として愛していたのだ、と思った。

では、なぜこの映画が「政治映画」なのか。それは、トルストイが、社会変革者だったからだ。社会主義といってみても、共産主義といってみても、いろいろあるようだ。トルストイは、レーニンやスターリンのボルシェビキではなく、メンシェビキやSR(エスアール、ではなくエスエルと読む)党と関係があったようで、ボルシェビキほど過激な社会主義を望んではいなかった、とのことだ。

ロシアの文豪、といえば、ドストエフスキーと並んでトルストイが有名なので、私もトルストイを読んでみようと思ったことはある。短編は数年前、少し読んだ。しかし長編は結局いまだに読み通したことがない。

ドストエフスキー研究者の清水正氏も若い頃は、まったくトルストイを読めなかったと、山崎行太郎先生との対談で語っておられた。(『ネット右翼亡国論』山崎行太郎著)

副島隆彦氏は、この映画の映画評論のはじめに、「理解し合えない夫婦という永遠の重たいテーマを扱っている」と書いている。錯覚でもいいから理解し合いたいとは思うが、これもなかなか難しい、と私も思う。残念ながら、永遠の重たいテーマなのだろう。

かつて、小林秀雄と正宗白鳥の両氏が、トルストイの家出について対談したが、この対談から読み直してみたいと思う。江藤淳氏と山崎行太郎先生も、この件について対談されていたと思う。

それから、やはりトルストイの長編小説も、読んでみたい、いつ読めるかわからないけれど。

トルストイの「家出」、と言われるが、確かに家を出たとはいえ、そして田舎の小さな駅で死んでしまったとはいえ、いわゆる「家出」、「出奔」、「野垂れ死」とは違う。一人で家を出たわけではない、一人で死んだわけでもない、粗末ではあったが、ベッドの上で、主治医や娘の看病、看護のもとで、そしてうわごとで妻ソフィアの名を呼び、臨終前には、ソフィアは、トルストイの手を握っていた。

トルストイが亡くなった1910年の七年後、1917年に「ロシア二月革命」、これはメンシェビキ革命とのことだ。(副島氏)。そして「ロシア十月革命」、これは過激なレーニンの革命だった。

作家・有島武郎は、北海道の自分の土地を小作農に解放してから自殺したそうだ。(副島氏)有島武郎の小説もわずかばかり読んだことがある。これを機会に、時間にゆとりがあれば、読んでみたいとも思う。



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創刊号目次(実際の創刊号の記事は、おそらくもう少し多くなると思います。)
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□福沢諭吉(3)「学問のすすめ」
□新刊・話題の本(1)『ユダヤ人の起源』シュロモー・サンド著
□映画『グレース・オブ・モナコ』
□映画『ミリオンダラーベイビー』
□山崎行太郎論序説(1)(2016年5月記)

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