月刊デザインの周辺……INSIDE AND OUT

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メルマガ名
月刊デザインの周辺……INSIDE AND OUT
発行周期
ほぼ 月刊
最終発行日
2019年02月08日
 
発行部数
24部
メルマガID
0001683893
形式
PC・携帯向け/テキスト形式
カテゴリ
アート・文芸 > 美術・デザイン > グラフィックデザイン

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Mail Magazine 月刊デザインの周辺……INSIDE AND OUT
第6号 2019/2/8
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2019 February :CONTENT

【今月のかたち】 3 編集部から

【Design Review】by 大竹誠
■様々な時代の都市を歩く 6 ――1970年代のデザインに関する話(エピソード編)■

【Cinemas Review】by 松村喜八郎
■映画を楽しむ 6 ――我が愛しのキャラクター列伝 4■

【Candid Review】by 志子田薫
■写真の重箱 6 ――又カメラのハナシ■

【Marginal Review】by 鎌田正志
■デザインと言葉 6――情報のデザイン■

■編集後記■

●編集人=志子田薫+鎌田正志
●発行人=鎌田正志

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【今月のかたち】 3 編集部から

最近の軽自動車は縦長の箱のようなかたちが主流のようですが、先日、自宅のクルマの車検の代車として借りたクルマが、そういったタイプの軽自動車でした。
運転するとイメージしていた「非力なクルマ」といった感じは微塵もなく、一昔前の普通車以上の安定感と室内の快適さにビックリしました。
観光で来日する中国人観光客には、そういった箱のような軽自動車好む日本人が不思議なのだそうですが、
「クルマはステータス」という価値観が日本では終わりつつあるように感じますし、クルマに限らず「モノ=ステータス」という価値観が日本では終わりつつあるのかもしれません。
80年代、90年代のデザイナーズブランドや海外の高級ブランドをステイタスと思うような人たちはずいぶん少なくなっているように感じます。
そこには経済の低迷も大きく影響しているのでしょうが、豊かさや幸せがモノでは満たされない、という当たり前のことにバブル崩壊、
そして大震災を経験した日本人には身に沁みて感じられるのではないでしょうか。

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【Design Review】
■様々な時代の都市を歩く 6 ――1970年代のデザインに関する話(エピソード編)■■大竹誠

●1970年代のデザインに関する話を追加で一つ。

大学を出て初めての仕事は美術系予備校(『御茶ノ水美術学院』)で受験生の面倒を見ること。
デザイン系受験科目の鉛筆デッサン、ポスタカラーでの色彩構成などの課題をだす。3時間の授業中、部屋を周り、制作過程を見て、完成した作品を講評をする。
講評は学生を集めて、全ての作品を掲示板に張り出し、一点一点の「良い点、悪い点」などを評してゆく。学生は真剣。こちらも熱が入る。

数年経った頃、受験課題のマンネリ化(受験校の傾向がある)や、同じような課題講評の繰り返しが重なり、面白み、新しさが消えた。「こんなことでいいの?」。
同じ感じを持った教員数人で雑談。「ならば、受験ではないクラスを作っちゃおう」となり、会議に提出。予想通り、白い目で見られたが提案は受け入れられた。
新しいクラスは、昼間勤める人向け夜間の『基礎造形クラス』。学費は受験コース同様。学校の雑誌広告の隅にも表示してもらったが、いかんせん初めての試み。
特別に「新クラス設立のチラシ」を印刷し、人通りの多い時間帯に、御茶ノ水駅前で通る人に手渡す。

●初年度は6名スタート。クラスが始まってからも数人が加わる。

6名スタートに教える側は4名と充実。細密画の立石雅夫、イラストの富田謙二郎、デザイン批評の柏木博、自称デザイナーの大竹誠。
後に写真家の片山健市も加わる。このメンバーが日替わりで面倒をみた。教室は最上階の倉庫として使われていた16畳の空き部屋を活用。

課題は、それぞれの教員が出した。したがって、毎日、異なる作品作り。
「鉛筆デッサン」「色彩構成」「立体構成」「イラスト」「素材のイメージのフロッタージュ」「光源を見た後の網膜に反応する映像の表現」。
時間とともに「写真の鉛筆模写」「写真撮影」「読書会」「シルクスクリーン印刷」が加わる。「読書会」では、ヴァルター・ベンヤミンの『複製技術時代の芸術』が使われた。
読書経験も少ない学生にとって「読書会」は「目が点になる」経験。なんだかわからないけれどみんな付いて来た。「何かがある!」と。
社会現象となっている「デザイン」とは「何なのか?」。その「ことば」に触れてゆく。

3時間弱の授業時間で「やったね!」の実感をもたせたいと、時間のかかる手法は取らず、また、考えすぎないようなプログラムで対応。
「既製品」の「色紙」「スクリントーン」「カラートーン」「雑誌切り抜き」「新聞広告切り抜き」「図版集切り抜き」「コピー機」を活用。

日替わり課題では、いまいち効果が上がらない。そこで、教員が同じ課題を見る方式に変更。同じ課題を見ることで、教員それぞれの異なる評がでる。
学生はその違いに戸惑う。「あの先生はこう言ったのに」「この先生は逆のことを言うんだな」と。その戸惑いも教育の一部と知らんぷり。教員相互で穴埋めなどしない。
同じ課題を見るようになると、教員でもシルクスクリーン体験初めても。毎回手がける学生と同じ土俵に立つ。教える側と教わる側が混ざり出す。

参加学生は、近隣地区に勤めている。場所がら、印刷所や建築事務所、病院などから。社会人なので「既製路線(ルーティング)」の頭の持ち主もいる。
そのような場合、既成路線からの逸脱を繰り返し繰り返す。すると「既製路線」から外れてゆくことの面白さに気づきだす。「やってもいいんだ」「やっちゃおう」と。「笑いも」出る。

1年単位のこのクラスを出ても、何かの資格が取得できるわけではない。それにもかかわらず翌年もやってくる学生も。
「留年」のような感じで、翌年の新入生の面倒を見てくれ出す。学生のような助手のような存在が生み出された。

デッサンの経験のない学生たちに、描く楽しみを体験させたい。そこで「模写」という手法を採用。「写真の模写」。
写真集から通名な写真家の写真(モノクロ)を選び、写真に5mmから10mmの縦横グリッド鉛筆で入れ。模写するケント紙にも同じグリッドを入れ、すべての姿(輪郭線)を鉛筆で写し取る。
これなら誰にでもできる描法だ。写し取った輪郭線をはみ出さないように注意集中して写真のモノクロの濃淡を写してゆく。鉛筆を寝かせたり、立てたり工夫しながら。
時間のかかる作業。次第に写真がケント紙の上に現れ出す(現像ですね)。絵の存在感が出てくる。うまい下手はあるけれど、写真そっくりの図像となる。
達成感に満ちた学生の顔、顔!。「俺にもできる」「私にもできる」と。

●「図像操作」というテーマでの課題を考案。

「図像操作」は、デザインを構成する各種エレメント「構成」「色彩」「文字」「図像」などが、画面にどのような「効果」を及ぼすのか?を学んでみようと。
「効果があるのかないのか」は、デザインを手がける上で必要条件。「会話」に強弱があり、同じ言葉でも「違った意味」あるいは「逆の意味」が生まれる。
それと同じ。その仕組みを確かめようと。

そこで、「映画広告の図像操作」。新聞記載の映画広告を切り抜いて、そのエレメント(スター写真、組写真、タイトルフォント、リードコピー)をトレシングペーパーにリライト(輪郭線模写)。
広告を見ながら、「何がメインなメッセージなのか」を読み込みながら、そのメッセージを「スクリーントーン」を選んで張り込む。すべてのエレメントがシルエットとして再表現。
情報の等価変換。いわば翻訳作業。元の広告とスクリントーン広告を見比べて、「広告の力」(文字の力、図像の力、構成の力)の判定となる。
文字はスペース分の矩形表現なので伏字の羅列。大まかにデザインエスキスするための基礎レッスンとなる。表面的な表情に縛られず、「純粋な構成」を何度でも試せるようになる。

「図像操作」で「自画像」も試みた。「自分のプロフィール写真」を相互に撮影し、その写真の「模写」。
次に、「漫画」と「劇画」のスタイルを引用して、その作家の「特徴ある描法」を真似ながら、自分の顔を描いてみる。
すると「ゴルゴ風」の自画像が、「西岸良平風」の自画像ができてくる。好きな漫画、劇画の引用はみなさんノリが良い。
写真の模写と、漫画、劇画の3点を並べると笑いが起こる。想像もしなかった自分が、自分そっくりに劇画や漫画の場面になったから。
「表現のスタイル」を変えれば、色々な自分が生み出せる。このシリーズはさらに発展し、「悪巧みする自分」「悩んでいる自分」「微笑んでいる自分」などなど、
「ことば」をピックアップすれば、際限なく作品が生み出せる仕組みを体験。

「シルクスクリーン」が次第にメインな表現手法に。「ニス原紙」によるシルクスクリーン。
ケント紙に規則的なパターン(正方形の任意な分割など)を描き、パターンを見ながら版画のようにインクの付く部分と、つかない部分を色分け。
そしてカッターで色の落ちる部分を切り抜き取り去る。その上にシルク版をのせて、ニス原紙をアイロンで圧着。版の完成。
「観光絵葉書」をサンプリングして、絵葉書を構成する、図像(富士山、太鼓橋、舞妓、池、植栽など)エレメントをシルク版に「ブロッキング」(油性塗料で手書き)。
乾燥したら版を水性の途剤で覆い、ブロッキング部分を石油洗浄。その孔の開いた部分に油性塗料を入れて印刷。印刷は、一回一色。色数分の刷りを重ねてゆく。
多色刷りの版画同様に色版を重ねながら次第に全体像が現れる。絵葉書の図像の組み合わせの法則のようなものが把握できてゆく。

シルクスクリーンでは、「コラージュ」も試みた。西洋の細密図版集をあらかじめ入手。
それらをめくりながら、「遠近法で描かれた教会建築」「様々な姿の人物」「花」「動物」「傘」「岩」「天使」など気に入った図像をコピーして切り抜く。
切り抜いた図像を台紙に置いて、組み合わせてゆく。上になり下になり、飛び出したり隠れたり色々レイアウト。
感じが掴めたら、ノリで張り込み、下図の完成。この完成図を、リスフィルムに焼き付けてから、感光剤を塗り込んだシルク版に焼き込む。
次は、焼いた版の水洗。ジャージャージャーと水をかけて、光が通過した部分の感光剤を抜いてゆく。あとは版の具合を見ながら手直し。

そして、刷りだし。細密画を組み合わせた図像なので、仕上がりの見栄えも良い。学生も嬉しそうだ。初めは一色刷り。
そして、色を変えて前の図版に重ねてみる。色の違いから、ハレーションを起こしたような具合が生まれたり、版ズレが生まれたりと興味は尽きない。
発見がある。予想しないことが起きる。自分で考えようとする。図版だけでは物足りない。そこで、「カレンダー」に仕立てようと、数字だけの版も作り、図版と組み合わせてゆく。
アドリブがアドリブを生んでゆく。時には、ほかの人の版を自分の版に重ねることもあった。
版権だなんて贅沢をいっていられない。新鮮な発見が継続するシルクスクリーン作業。
毎日のように、油性インクとインク落としの石油にまみれた作業であった。それだけに達成感もあった。

「シルクスクリーン」に限らず、課題をまとめる作業も。厚口の白ボール紙でマウント額装。
額装すると一人前の「作品」となる。家に帰り壁に掛けてもいいし、人にあげることもできる。デザインの展開パターンでもある。
また、全ての作業を、自分でこなすことで、人に頼らずに作品を完成させる知恵も会得。
いわば、セルフビルドの思考を持てるようになる。加えて、模写の丁寧さ、集中力も持てるようになった。何事も為せば成るわけだから。

授業が跳ねると(21時すぎ)、みんなで駅近くの安酒場へ。「まいまいつぶろ」「沖縄そば」。「まいまいつぶろ」はトリスバー。
のカウンターに腰掛けてダブルのウィスキー、ビールなど注文。注文に店主は首を上下するだけ。注文が通っているの?と不安になるがちゃんとでてきた。
カウンターの端っこには、バラ売りタバコ。つまみは、ブリキの一斗缶の蓋を開けて皿に盛られていた。
狭い店内、席がなければ、表の歩道のガードレールに腰掛けて酒を飲んだ。未成年がいてもそんなこと構わず「飲みましょうね」と。
明大近くの酒屋では酒の箱に座り原価の酒を呑めた。遠足と称して「鎌倉」「高尾山」「奥多摩」「伊豆の美術館」へも。仕事が忙しくても、「帰りがけに、顔を見せて」がクラスの掛け言葉となる。
デザインの授業だけをやるのではなく、人間としての付き合いをしようと。複数年在籍の学生たちが教室の主となる。

70年代は、アングラ劇や名画シネマテイク、ハプニング、ロックフェスティバル、ジャズ喫茶、ディスコ、そして、デモ、学園封鎖など都市空間が賑わった。盛り上がった。
『基礎造形クラス』でも、RCサクセッションの追っかけ学生がいた。彼と共に武道館へもみんなで行った。女性軍はトイレで衣装替え。
また、サボール、ラドリオ、ミロンガ、キャンドルなど純喫茶でコーヒを飲んだ。明治大学近くの酒屋で、酒ケースを椅子に、原価の酒を呑んだ。
家族的な付き合いをしながらのクラスであった。当然、経営的には赤字。それでも10年あまり梁山泊のようなフリースペースが維持された。

卒業(?)後、デザイン事務所へ行く人、編集社で写植の手習をする人、元の職場にいながら絵を描き出す人などなど、それぞれが楽しみだしたことは事実であった。

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【Cinemas Review】
■■映画を楽しむ 6 ――我が愛しのキャラクター列伝 4■■松村喜八郎

■ブランチ・タイラー/1976年「ファミリー・プロット」

 アルフレッド・ヒッチコック監督の遺作に登場したインチキ霊媒師。冒頭、おばあさんの前で降霊術を披露する様子は、いかにも芝居がかっている。
それでもおばあさんが信用してしまうのは、約40年前、妹が生んだ赤ん坊を養子に出したことを悔いていること、行方の知れない妹の子を探し出し、自分の財産を譲りたいと思っていることを言い当てるからだ。その情報は、タクシーの運転手をしている売れない役者の彼氏、ジョージが調べてきたことなのだが、完全に騙されたおばあさんは「妹は未婚で子を生んだ。うちのような名家にスキャンダルはご法度だった。極秘にその子を捜索してほしい。お礼に1万ドル払うわ」と申し出る。1万ドル!
ブランチは、いいカモを見つけたなんて感情はおくびにも出さず、しれっとして言う。
「私への謝礼ではなく、私の慈善事業への寄付として受け取ります」
 この言葉を真に受けたおばあさんの反応が笑える。
「あなたは無欲な人ね。裕福な自分が恥ずかしい」
 ブランチはジョージとともに1万ドルの子ども探しに奔走する。細い糸を手繰ってようやく行き着いたのは宝石商のアーサーだった。
このアーサーがとんでもない奴で、恋人のフランと組んで富豪を誘拐し、身代金として高価な宝石を手に入れてきた。ブランチとジョージは、ちまちまとお金を騙し取る小悪党だが、アーサーとフランは卑劣な大悪党だ。ヒッチコックはこの二組のエピソードを交錯させながら、「泥棒成金」や「北北西に進路を取れ」のような、ハラハラドキドキとユーモアの混合したサスペンス劇を作り上げた。未だ衰えぬ力量に感激させられたので、次作「ショートナイト」の準備中に亡くなったことを知って実に残念な思いをしたものだ。
「ファミリー・プロット」におけるユーモアは、ブランチ役のバーバラ・ハリスに負うところが大きい。ヒッチコックは彼女のデビュー作(日本未公開)を観て起用を決めたそうだが、その期待に応えて性欲、食欲ともに旺盛なブランチを生き生きと演じていた。ジョージにセックスのおねだりをする場面は傑作だった。
「どこへ行くの?」「家に帰って寝るのさ」「駄目よ」「それしか頭にないのか」「私に我慢しろと?」「たまにはいいだろ」「冷たいのね」「疲れてて君の役に立てない」「いつも役に立たないじゃない」「今夜は勘弁してくれ」
「ろくでなし」
 とにかくしつこくて、そこが可愛い。ジョージの作ったハンバーガーを食べる場面も愉快で可愛かった。淑女のたしなみなんてものとは全く無縁で、食べている間も話を止めないし、口を指で拭いながら「もう一つ作って」と催促し、「駄目だ。時間がないんだぞ」と拒否されても「車で食べる」と言い張る。実際、車の中でハンバーガーをぱくつくのだ。
 その車に細工され、ブレーキが効かなくなる大ピンチの場面はもっと傑作だ。ブランチがキャーキャー騒いでジョージの体にまとわりつくものだから、運転しづらくなってジョージは焦りまくる。サスペンスの中のユーモアが、ヒッチコックは本当にうまい。
 バーバラ・ハリスは、魅力的なキャラクターが大勢登場するロバート・アルトマン監督の群像劇「ナッシュビル」でも断然光っていた。ハリスが演じたのは、歌手になりたくてナッシュビルにやってきた元気なおねえちゃんで、パツンパツンのミニスカートを履いて闊歩し、ストッキングに伝線が入っているのに全然気にしない。何があってもめげない、へこたれない。歌手になる夢に向かっての猪突猛進ぶりが爽快だった。活躍した期間が短かったのはなぜなのか不思議だ。

■ルーサー・ホイットニー/1997年「目撃」

 ヒッチコックの映画を取り上げたからには、どうしてもクリント・イーストウッドについて書きたくなる。私が惚れ込んだという点で双璧だからである。イーストウッドの作品群からキャラクターの魅力に絞って取り上げるとしたら、まだ精力的に監督・主演していた頃の「目撃」だろうか(ダーティハリーは別格)。
 映画は、大泥棒のルーサーが大統領の後援者であるサリヴァンの屋敷に盗みに入り、とんでもない事件を目撃するところから始まる。
ルーサーにとって誤算だったのは、サリヴァン一家は家族旅行に出かけたはずなのに、なぜか若い女房、クリスティが大統領を連れて帰宅したことだ。大統領と出来ているクリスティは情事を楽しむために嘘をついてドタキャンしたのだ。ルーサーは二人の様子を観察しながら脱出の機会を窺う。すると、酔った勢いで乱暴を振るう大統領にたまりかねたクリスティがペーパーナイフで反撃し、ただごとではない物音を耳にして寝室に入ってきた警護官に射殺されてしまう。
 この状況で警察は呼べない。少し遅れて駆け付けた補佐官のグローリアは現場の証拠隠滅を命じ、事件のもみ消しを図る。その一部始終を見ていたルーサーは、みんなが出て行った後、窓からロープを使って脱出、事態に気付いた警護官の追跡を振り切ってからくも逃走に成功する。しかし、このままでは自分がクリスティ殺害の犯人にされかねない。国外に逃亡しようとしたルーサーだったが、空港のテレビで大統領が白々しくサリヴァンを慰めているのを見て気が変わる。
「人でなしめ。お前からは逃げんぞ」
 最高権力者を敵に回す無謀とも思える決断だった。この後、派手なアクションを期待させる展開だが、老境に差しかかり、体力的にきつくなっていたのか、イーストウッドは殴り合うこともなければ、銃を撃ち合うこともない。長年の泥棒稼業で培った経験と技能、そして頭脳で勝負するルーサーを飄々と演じていた。盗みの手口を分析してルーサーを割り出し、接触してきたセス刑事に「犯人はどんな人間だと思うか」と聞かれて雄弁に語る場面がいい。
「私のような年寄りだ。忍耐が要る。下調べが肝心だ。十分な調査が。テレビで見たが、あれはでかい屋敷だ。図書館に行き、記録を調べ、設計事務所を見つけて押し入る。設計図をコピーして朝までに戻す。盗むのは簡単だが、気付かれないことが肝心だ。建設会社、警備会社にも行く。大きな金庫室は必ず入る秘訣がある」
 にこやかに話す様子から感じ取れるのは、泥棒を楽しむ域に入っているのだなぁということだ。ぬけぬけと自分の手口を披露するのは、証拠を残していないから捕まらないという自信があるからであることは言うまでもない。怖いのは大統領である。実際、捜査状況を把握している側近たちはルーサー殺害に動き、サリヴァンも殺し屋を雇って復讐の時を待つのだが、ルーサーが絶体絶命の危機を乗り切る場面は鮮やかだった(未見の人のために書かないでおく)。
 身を隠していたルーサーが姿を現したのは娘のケイトに会うためだった。ケイトは有能な検察官で、堅気になれない父親を嫌い、疎遠にしていたぐらいだから会いたいとは思っていなかったのだが、セスに協力を要請されてルーサーの留守電にメッセージを残した。そのメッセージをルーサーが何度も聞く場面は、娘への情愛が漂っていてちょっと泣ける。ケイトは、会いたいというメッセージが罠であることを父は気付くだろうと思っていたし、ルーサーは察していた。
 危機を脱した後、ケイトの家に現われたルーサーは、罠だと分かっていたのに約束の場所に来た理由を聞かれて「娘が会いたいと言ったからだ」と答える。
当然じゃないかという口ぶりがユーモラスで、ここも情愛が感じられる場面だ。ルーサーは、どんなに嫌われても泥棒稼業から足を洗う気はなかった。娘に拒否されるのは仕方がない。だが、娘は可愛い。だから秘かに娘の成長を見守ってきた。そのことを、ケイトはセスに案内されて初めてやってきた父の家で知ることになる。部屋にはたくさんの写真が飾られていた。大学の卒業式、法学院の卒業式、初めての裁判で勝ったお祝い…。父の愛を知ったケイトがセスに言う。
「昔、よく部屋に戻ると彼の来た気配がした。何かを見たり、冷蔵庫の中身を心配したり。馬鹿みたいだけど、いつも父がそばにいたみたい」
 そう感じていたのは錯覚ではなく、ルーサーがケイトの家の冷蔵庫を開け、「もっとましなものを食べろ」と呟く愉快な場面がある。ケイトがルーサーの気配を感じていたのは親子の絆であろうか。「目撃」は上質なサスペンス劇だが、それ以上に父と娘の愛に心打たれる映画だ。
 ストーリーは、デイヴッド・バルダッチの原作とはだいぶ違うらしい。イーストウッドは原作の基本的なストーリーは気に入っていたものの、登場人物の大半が殺されてしまうのが不服だった。そこで、脚本のウィリアム・ゴールドマンに「観客に気に入られる登場人物は殺さないでくれ」と要望したという。イーストウッドの映画づくりにおける姿勢がよく分かる。今回、「目撃」について調べ直していてこのエピソードを知り、ますますイーストウッドが好きになった。

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【Candid Review】
■■写真の重箱 6 ―― 又カメラのハナシ■■志子田薫

 皆様こんにちは。写真、撮ってますか? そして写真を見てますか?
 さて、先ずはお礼とお詫びです。
 Up40Galleryの『増殖』、そしてPaperPoolの『135×135mm』展はお陰様で前期後期共に盛況でした。足を運んでくださった皆様、そして気にかけてくださった皆様、ありがとうございました。
 そして前号の『135×135mm』展の説明において、自分の文字置換時のミスにより「135フィルム」と書くべき所を「135mmフィルム」と書いてしまいました。
まったく、恥ずかしいったらありゃしない!/(^o^)\

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 さて、年明け早々、『135×135mm』展に出すプリントを出力していた時に、Twitterで興味深い展示を発見しました。それは吉祥寺にある[book obscura]という写真集を専門に扱う古本屋で開かれている「写真集研究展 Vol.3『写真集とカメラ』」と云うものでした。
 昨年知人がここで写真展を開きトークイベントを行ったので、その時に初めてお邪魔したのですが、その時はイベントは勿論、終了後も賑わっていて、取り扱っている写真集をじっくり観る事が出来なかった事もあり、また企画がこのメルマガで書いている内容とリンクしてるじゃないかと思い、再訪して来ました。

 今回は多少時間に余裕を持って…

 結果、やはり時間が足りませんでした(笑)
 古書店巡りや写真展ではよくある事ですが、やはり今回の企画をじっくり観るには開店直後から閉店までいて、それでも時間が足りないだろうなと。写真集をじっくり観ようとすれば、1冊でも結構な時間とパワーを使いますから、当たり前といえば当たり前ですが。

 そして、元々神保町の有名な古書店で店員をされていた経験をお持ちの店主は、流石写真雑誌でも記事を書かれるだけのことはあります。写真集に関する博識さは勿論、「写真集」に対する並々ならぬ愛情を持っており、とても私なんか足元にも及びません。
 我々が某写真集の新旧版に於ける違いとその解釈を巡る印象を話していた時には、後からいらっしゃった常連さんが「そう云う見方もあるんですね」と言いつつ少し退いていた気も…(笑)

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 さて、そこでも話が出たのですが、多くの写真家は、様々なフォーマットのカメラを使用しますから、誰をどのカメラで括るかは非常に悩ましいところです。
 4号で触れた高梨豊さんも、多くの代表作はレンジファインダーのライカで撮影されていますが、ライカといっても一眼レフのライカを使うこともあるし、もちろんプラウベルマキナなどの中判や、ジナーなどの大判カメラを使用して作品を生み出しています。
 大判で作品を生み出してきた写真家はといえば、アジェやヨセフ・スデク、アンセル・アダムス、ベッヒャー夫妻、ベレニス・アボットなど多くが浮かびます。しかし時代によっては大判しか選択肢がなかったこともありますので、ここではとっつき易い近年の日本の写真家をピックアップしてみましょう。

 ここに3冊の写真集があります。
 『町』『small planet』『ランドスケープ』
 これらの写真集は、ほぼ全ての写真が大判カメラで撮られています。

 それこそ高梨さんの『町』は、以前も書きましたから、多くは触れませんが、大判特有の細密さで町をしっかりと記録したものです。方法論の一つとして、そして大判特有の写真集として機会があったら是非観てみることをお勧めします。

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 2006年に発表した『small planet』で、世の中をミニチュア世界に変えてしまったのは本城直季さんです。

 最近のデジタルカメラやスマートフォンのアプリには「ミニチュア撮影機能」と呼べるようなフィルターが搭載されていることがありますので、お使いになった方もいらっしゃるのではないでしょうか。これらは本城さんの作品がヒントになって生まれたものです。

 本城さんは、大判特有のティルトというアオリ機能を使って、実際に存在する事物をあたかも「ミニチュアで再現して撮影した」かのような作品は、元々大判を使っていた写真家達からは「別に新しくも何ともない」と言われたようですが、それは結局写真界という内輪の世界でしか考えていなかったからでしょう。
 彼が今まで一般の人が見たことのない新たな世界を見せてくれた功績は大きく、同年度の“写真界の芥川賞”とも呼ばれる木村伊兵衛賞を受賞しました。

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 長年に渡って自然界と人工物との際を大判写真ならではの精細さで表現しているのは柴田敏雄さんです。先ほどの本城さんと同じ木村伊兵衛賞を1991年度『日本典型』で受賞されており、2008年には東京都写真美術館で大々的な個展「ランドスケープ 柴田敏雄展」が開催されました。この写真展に合わせて出版されたのが、今手元にある『ランドスケープ』です。
 当時写美の友の会に入会していた私は、特別内覧で作家自ら作品の説明をしてくれるという企画に当選し、その壮大なスケールの写真と対峙しながら柴田さんの話を聞く機会に恵まれました。
 自然界と、ダムなどの巨大な建造物とのせめぎ合い。共存しているようで、でも決して一つになることのないその関係性や、自然の強さと人間の作り出した巨大な力。それらを大判で隅々までピントを行き渡らせて撮影することで、よりその魅力を引き出しています。もともとモノクロでの作品がメインだった柴田さんですが、2000年代に入ってからカラーでも撮影し始めたタイミングでの大々的な個展はとても見ごたえのあるものでした。それにははるかに及ばないものの、写真集からもそのパワーは感じられると思います。

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 さて、もう1冊紹介したいのは佐藤信太郎さんの『非常階段東京 -Tokyo Twilight Zone-』です。
 黄昏時の東京という街を、非常階段や建物の屋上などから撮ることによって、街の密度や光が織りなす不思議な秩序を作品にしています。
 これも大判の、それもフィルムならではという作品に仕上がっています。
 近年のスカイツリーの建設から完成までをデジタルで追うことで、新たな歴史の証人となった『東京|天空樹』と見比べると、また違った東京の魅力が発見できます。

 佐藤さんは2月末から東麻布にあるPGIで「The Origin of Tokyo」という個展を開催されます。
 東京の東側を作品のメインとして押し出していた氏が、江戸の中心地であった現在の皇居周辺を中心とした方角に目を向け、また新たな東京を見せてくれそうです。
 おそらくですが、個展会場では過去の写真集も見られるかもしれませんから、それらと本展示での作品を見比べたりしながら、氏の視点の移り変わりと大判とデジタルによるアプローチの違いなども意識して観たいと思っています。

 今回はこの辺で筆を置こうと思います。

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【Marginal Review】
■■デザインと言葉 6■■鎌田正志

情報のデザイン

電子書籍という新しい本のかたちが生まれてからすでに30年近く経つようですが、自分のまわりで積極的に電子書籍で本を読んでいるという話は聞きません。私自身も電子書籍で購入したのはアプリケーションの解説書くらいで、あとは無料の青空文庫から夏目漱石や宮沢賢治などの著作権の切れた昔の小説を時々読むくらいです。
とはいえ業界の情報では徐々にではあるものの電子書籍の購入は増えているそうで、現状よりも価格が大きく下がれば一気に電子書籍に移行する可能性はまだありそうです。

今のところ出版社が紙の本と電子書籍との価格差を小さくしているので、そんなに価格が違わないなら電子書籍ではなく、紙の本に手を出す、と考えているようですが、制作コストを考えれば電子書籍はもっと価格を下げられるはずで、それでも価格差を生まないようにしているのは、出版社と出版取次が作り上げた「出版業界」に関わる多くの人々の生活を考えてのことなのかもしれません。それはそれでまた難しい問題ですが。

しかし、電子書籍をもっと広い意味での「読み物」として考えれば、インターネット上のホームページも、Blogも、FaceBookをはじめとする様々なSNSも21世紀の本のかたちと考えてもいいわけで、そういった意味ではすでに電子書籍は日常に浸透しているとも言えそうです。

従来の本という「モノ」は、1つの本に1つの内容が固定されていて、違う内容を読みたいと思えば違う本を購入しなければならなかったのに比べ、現代の本=モノ=電子端末(スマホ、タブレット、パソコンも)は内容を次々更新、変更できる本であり、1冊(1台)で無限の内容を孕んでいると考えることもできます。

モダンデザインは内容(機能)がかたちを決定すると考えられていましたが、少なくとも情報を手に入れるための端末=本のデザインは内容とは無関係、というよりも無限の内容(機能、情報)を孕んでいるわけですから、デザインに正解が無い、ということになります。

これからますます重要な技術となるAIや、そこに繋がるVR技術にしろ、これまでの機械=機能ではなく、情報の繋がり=機能となり、情報の繋がり方が変化すれば機能も変化する、そういう「もの=情報」がデザインの対象になっている時代です。

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■■編集後記■■

■私ごとでまたまた発行が遅れてしまいました。申し訳ありません。次号こそはちゃんと…(信用されない?)閑話休題。
先日、初めての出版社から装丁の依頼を受けたのですが、編集者に提出したデザイン案が「古臭い」と言われてしまいした。
よくあるサラリーマン向けビジネス書風のがっちり組まれた文字組とエネルギッシュなイメーシが不評を買ったのですが、それはその出版社のイメージを反映したつもりだったのが的外れだったようです。
担当編集者は今風のほっそりとした書体とパラパラ気味の文字組を望んでいたようで、そんな感じで再提出したデザインに対しては特に何も言われませんでした。
が、最終的にはタイトルそのものが良くないということでペンディングになってしまいました。
古臭いと思われたデザインはともかく、はたして「今風」が装丁として正解なのかどうか…というのはいつも思うことです。
デザイン以外の面、タイトルなども売らんがための「あざとい」タイトルが多くなっている昨今、本を売るその売り方そのものが変わっていかないと本は売れなくなるばかりなような気もするのですが。
デザインやタイトル以前の、「本」というもの本質を深く考える余裕を出版社には持って欲しいなぁ…(T)

■今回、メルマガは最終的に発行人が操作出来ないと発行されないという当たり前の現実を突きつけられ、やはり複数名で書き連ねるもの、そして本メルマガのように月刊ものなどには不向きな媒体なのかなと思ってしまいました。
原稿のまとめ方も含めて、オンライン系の物に行こうすべきかどうか。色々と検討すべき課題は山積みです。「山積み」と言えば、今更ですが某ドキュメントスキャナを導入してみました。
とはいえ『自炊』をしたいわけではなく、名刺やレシート、メモの管理の他に、山積み状態の写真展DM等をデータ化しようと思ったのですが、「紙の手触りや質感」が気になるので、結局実物も取っておくべきか否か本末転倒的な所で悩んでいます。デジタルのおかげで選択肢が広がった分、悩みも増えてしまうとは……(K)


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