日本と台湾の「仰げば尊し」な関係を生んだ、教育家・伊沢修二の半生

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かつて我が国が台湾を統治していた時代、住民の反乱や疫病が多発する地に「教育」を普及させようと熱意を燃やした日本人たちがいたことをご存じでしょうか。今回の無料メルマガ『Japan on the Globe-国際派日本人養成講座』では、小学校に音楽教育を導入し、一説には「仰げば尊し」の作曲家とも言われる明治教育の先駆者・伊沢修二の半生が綴られています。現在も、「仰げば尊し」は台湾で卒業式の定番曲として歌われ続けているそうですが、その作曲者と言われる伊沢は、日本統治時代の台湾でどのような功績を残したのでしょうか。

仰げば尊し~伊沢修二と台湾教育の創始者たち

1995(平成7)年、台湾・台北市北郊にある「士林国民小学」の100周年記念式典が開かれた。陳水扁・台北市長(元・総統)も来校して祝辞を述べた。学校の展示室には歴代校長の写真が飾られている。初代は日本人・伊沢修二。100年前の明治28(1895)年、日本による台湾統治の開始と同時に伊沢修二が創設した芝山巌学堂をこの小学校の始まりとしているのである。

芝山巌学堂の創設された翌年の正月、日本人教員6名が土着の匪賊に惨殺されるという痛ましい事件が起こった。この犠牲者を祀る「六士先生之墓」は、戦後蒋介石政権によって破壊されていたのだが、士林国民小学の校友会の手によって立派に再建された。この式典には「六士先生」の遺族縁者も日本から招かれていた。

その5年後の105周年には、同じく校友会により「国民教育発祥の地」という石碑が校庭に建てられた。台湾の人々は、100年も前の日本統治時代の教育者たちの事績をなぜこれほどまでに顕彰するのだろうか?

明治教育界の先駆者、伊沢修二

伊沢修二は明治8(1875)年、25歳の時に師範学校制度調査のために米国留学を命ぜられ、マサチューセッツ州ブリッジウォーター師範学校に入学、西洋音楽などを学んだ後、ハーバード大学理学部に進んだ。明治11年、父の病没により博士課程を1年残して帰国。

文部省に勤める傍ら、明治12年、東京師範学校校長、20年、東京音楽学校初代校長など、明治の教育界の先駆者的役割を果たした。小学唱歌を編集して、小学校に音楽教育を導入した功績もある。「仰げば尊しは伊沢の作曲とも言われていた。

明治28年4月、台湾の初代総督に内定していた樺山資紀(すけのり)に会った際、新領土台湾では教育こそ最優先にすべきだと意見具申した所、樺山から自らその任に当たるよう勧められて、台湾行きを決意した。

日本統治前の台湾は「三年小反五年大反(3年ごとの小規模反乱、5年ごとの大規模反乱)」と言われるように清国官憲に対する住民の反乱が繰り返されていた。また「瘴癘(しょうれい、風土病)の地」とも呼ばれ、平定に向かった日本軍5万の約半数がマラリア、赤痢、コレラなどの病に冒されたほどであった。そのような土地にまず教育を、という伊沢の覚悟は余程のものであったろう。

5月18日、台湾総督府の始政式の翌日に、伊沢は学務部長心得として、台北で仕事を開始した。台湾統治のまさに初日に教育行政を開始し、それも伊沢のような日本教育界の中核的人材が惜しみなく投入されている所に、明治政府の台湾統治への意気込みが伝わってくる。

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