98歳の孫娘が明かす、日本資本主義の父・渋沢栄一「晩年の素顔」

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大河ドラマ『青天を衝け』で、その若き日が生き生きと描かれている渋沢栄一。彼の輝かしい功績についてはさまざまな伝記的資料に詳しいですが、私生活において身内の方とはどのように接していたのでしょうか。今回の無料メルマガ『致知出版社の「人間力メルマガ」』では、渋沢の孫で御年98を迎えた現在もエッセイストとして活躍中の鮫島純子さんが、「祖父・渋沢栄一」の素顔を語っています。

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榮太樓飴を口に入れてくれた祖父──98歳の令孫が語る渋沢栄一の思い出

生涯に約500の企業育成に携わり、社会公共事業や民間外交に尽力した渋沢栄一。生誕180年を超えたいまなお、その生き方や教えは多くの経営者らに受け継がれています。

そんな渋沢翁の令孫として生まれ、生前の祖父に温かく見守られて育ったというエッセイストの鮫島純子さんに、間もなく白寿を迎える半生を振り返り、当時の思い出を語っていただきました。


私は1922年、祖父の家近くで生まれました。祖父終焉の自宅はいま飛鳥山公園(東京都北区)の一部になっていますが、幼い頃は両親とともに行き、従兄たちと合流して遊ぶのが楽しみでした。

祖父は70代で、営利事業から既に手を引いていましたが、それでも国際親善や教育活動、困窮者の相談、手伝いなど忙しく、自宅には訪問者が出入りしていました。

その頃の祖父はいつも和服姿で、大きな籐椅子に腰掛け、孫たちの遊んでいる姿をただ黙ってニコニコと見ていました。「ごきげんよう」と挨拶をすると、「よう来られたな」と言いながら孫たちの頭を一人ずつ撫でて、食籠に入った榮太樓飴(えいたろうあめ)を一個ずつ口に入れてくれます。

もちろん、私たちは祖父が日本の近代化に貢献した経済人であることなど知りませんし、何か教えを請いたいという思いもありません。私が祖父の生き方を教えられたのは、中高生になってから父を通してであったような気がします。

父は祖父が手掛けなかった製鉄製鋼を官営から民営に移し、懸命に働いた人ですが、祖父を「大人」と呼んで尊敬していました。自宅の居間には、祖父の直筆による「人の一生は重荷を負いて遠き道をゆくが如し。いそぐべからず不自由を常とおもえば不足なし云々」という徳川家康公の遺訓を掲げ、それを常に服膺し、私たちへの戒めにも用いていました。

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