かつて時代劇で人気を博した「遠山の金さん」こと遠山左衛門尉景元。北町奉行所のお奉行様として有名ですが、実は多くの試練ののち、南町でも奉行をしていたのをご存じでしょうか。メルマガ『歴史時代作家 早見俊の「地震が変えた日本史」』の著者である早見さんは今回、そんな 「遠山の金さん」の真実を語っています。
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「遠山の金さん」の真実
天保の改革で推進された、「奢侈禁止令(しゃしきんしれい)」取締りについて記します。
妖怪とあだ名をつけられた南町奉行鳥居甲斐守耀蔵は老中首座水野忠邦の手足となり、江戸の町人を取締りました。そのやり方は実に陰険です。
南町奉行所の隠密同心が客のふりをして呉服屋に行きます。「奢侈禁止令」を守って絹や派手な紋様の着物は店頭には置かれていません。すると隠密同心は絹の着物を売って欲しいと頼むのです。呉服屋は置いていないと断るのですが、隠密同心は売ってくれるまでは帰らない、とごねます。根負けして呉服屋が奥から絹の着物を出してきたところで隠密同心は素性を明かし、呉服屋を御用、つまり捕縛する、という手口です。
まるで罪を作っているようなものです。
こんな陰険は手法で鳥居は贅沢華美を取締りました。更には町人の楽しみまでも奪います。歌舞伎と寄席を禁止しようとしたのです。歌舞伎は現在の日本橋人形町にあった江戸三座と呼ばれる芝居小屋で上演されていましたが、鳥居は潰そうとしました。
江戸歌舞伎を代表する役者、七代目市川團十郎を江戸十里四方所払い、つまり追放刑に処します。三百軒程あった寄席も廃業に追い込まれそうになります。
庶民の娯楽が奪われそうになったのですが、北町奉行であった遠山左衛門尉景元、通称、「遠山の金さん」の尽力で江戸三座は浅草の猿若町に移転、寄席は三十軒程が残されました。また、奢侈禁止令において、遠山の北町奉行所は取締りの手を緩めました。南北町奉行所は月番交代で取締りに当たったのですが、南町の月番の時は厳しく、北町の月番の時は緩かったのです。
この為、江戸庶民は遠山に喝采を送ります。名奉行、「遠山の金さん」は町人の味方になってくれた遠山に御奉行さまの理想像を見て誕生したのでした。
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