色あせぬ五輪飛行の記憶=64年開会式から55年-ブルーインパルス

2019.10.10
0
by 時事通信

1964年の東京五輪開会式で、五輪を描いた航空自衛隊「ブルーインパルス」の元パイロットの西村克重さん(左)と藤縄忠さん(右)=8日午後、横浜市

1964年の東京五輪開会式で、五輪を描いた航空自衛隊「ブルーインパルス」の元パイロットの西村克重さん(左)と藤縄忠さん(右)=8日午後、横浜市

 1964年10月の東京五輪開会式で、航空自衛隊の曲技飛行チーム「ブルーインパルス」が五色の大輪を描いてから10日で55年。秋晴れの大空に彩られた青、黄、黒、緑、赤のシンボルカラーの輪は世界の人々の記憶に刻まれ、今なお色あせない。五輪を描いた元空自パイロットの西村克重さん(83)=滋賀県出身=と、藤縄忠さん(82)=東京都出身=が取材に応じ、「今でも搭乗前の緊張感を思い出す」と心境を語った。
 西村さんは「搭乗前に機体を点検しながら、失敗は許されない、世界に見せないといけないという気持ちでいっぱいだった」と振り返る。藤縄さんも「前方機と2キロの距離を保ち、どうやって失敗しないで輪を描くか頭の中でイメージし、飛行場に着く前に覚悟を決めた」と話す。


東京五輪開会式で、航空自衛隊のブルーインパルスが上空に描いた五輪マーク=1964年10月10日、東京・国立競技場

東京五輪開会式で、航空自衛隊のブルーインパルスが上空に描いた五輪マーク=1964年10月10日、東京・国立競技場

 開会式の進行は遅れたが、ブルーインパルスは大会組織委員会から要請された通りのタイミングで国立競技場(東京・新宿)上空に姿を現した。選手宣誓に続いてハトが放たれ、見上げる観衆の視線の先、高度約3000メートルに見事な五色の輪(各直径約1800メートル)を描いた。
 大役を果たした5機は基地に戻る途中、渋谷など山手線をなぞるように飛行。アピールするかのように時折スモークを引いた。


航空自衛隊「ブルーインパルス」の編隊長だった松下治英さん(故人、正面中央)とメンバー。右端から藤縄忠さん、淡野徹さん(故人)、西村克重さん。機体は当時の主力戦闘機F86(松下さん遺族提供)

航空自衛隊「ブルーインパルス」の編隊長だった松下治英さん(故人、正面中央)とメンバー。右端から藤縄忠さん、淡野徹さん(故人)、西村克重さん。機体は当時の主力戦闘機F86(松下さん遺族提供)

 成功は日本の戦後復興も印象づけた。戦時中、藤縄さんは栃木県に疎開。西村さんは父親の仕事の関係で旧満州で暮らし、終戦後、苦労して引き揚げた。西村さんは「五輪飛行の成功を通じて復興を果たした日本を見てくださいという気持ちにもなった」と話す。五輪直前、東海道新幹線が開業し、首都高速道路も次々開通していた。
 5機の編隊長を務めた松下治英さんは今年5月、87歳で亡くなった。2人は「穏やかで堅実なリーダーだった。緻密な計算と冷静沈着な状況判断に全員が全幅の信頼を置いていた」としのぶ。残るメンバーの淡野徹さんと船橋契夫さんも既に死去した。
 西村さん、藤縄さん、淡野さんは五輪後、千歳基地(北海道)で旧ソ連機への緊急発進(スクランブル)の任務にも就いた。
 来年の五輪開会式は7月24日。聖火は東日本大震災の津波で被災した空自松島基地(宮城県東松島市)に3月20日に到着する。2人は「開会式は夜間なので、事前の行事の中でブルーインパルスは何か描くのでしょう。平和の祭典を楽しみにしている」と話した。(2019/10/10-07:05)

print

人気のオススメ記事