風化する「帰国者」の半生 「地上の楽園」信じた9万人―北朝鮮渡航事業開始60年

2019.11.27
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by 時事通信

北朝鮮への「帰国」体験を証言するシンポジウムに臨んだキム・ルンシルさん(左から2人目)、石川学さん(右端)ら=17日、東京都新宿区

北朝鮮への「帰国」体験を証言するシンポジウムに臨んだキム・ルンシルさん(左から2人目)、石川学さん(右端)ら=17日、東京都新宿区

 日朝両政府が推進し、1959年から25年間で約9万3000人の在日朝鮮人らが北朝鮮に渡った帰国事業の開始から今年12月で60年となる。「地上の楽園」と信じて渡航したものの、苦難を味わった人が少なくないとされるが、日本や韓国に脱北した人は一握り。帰国者の多くは死亡、または高齢化しており、日朝間で翻弄(ほんろう)された人生は歴史の中に忘れ去られつつある。
 ◇打ち砕かれた希望
 「見るもの、すること、全てがつらかった。後悔とかいろいろな感情があった」。17日に東京都内でシンポジウムが開かれ、14歳だった72年に21歳の姉と共に北朝鮮に渡り、2001年に脱北、02年に日本に戻った東京都出身の石川学さん(61)はこう振り返った。「生活レベルも知識水準も全て違う」と衝撃を受けたが、「地元の人間に信頼されないと生きていけない」と現地の女性と結婚し、設計事務所で働いた。しかし、姉は74年ごろから心を病んで入退院を繰り返し、91年に死亡した。
 日本で大学に行けなかった姉は「祖国では老若男女誰でも学べる」という宣伝を信じて渡航したが、到着後、当局者に「女がこの年で大学なんか行けるわけない」と希望を打ち砕かれたという。


在日朝鮮人らの盛大な見送りの中、紙テープを引き船出する北朝鮮帰国者たち=1971年5月、新潟市の新潟港

在日朝鮮人らの盛大な見送りの中、紙テープを引き船出する北朝鮮帰国者たち=1971年5月、新潟市の新潟港

 日本からの仕送りは90年代に入って途絶えた。「苦難の行軍」と呼ばれた90年代後半の食料難では「仕送りがあった時期に買った冷蔵庫やテレビ、マットレスまで売り、食いつないだ」。自身は生き延びたが、餓死した帰国者もいた。
 ◇どこに行っても「よそ者」
 日本からの仕送りで相対的に豊かな生活を送れた人もいた半面、「よそ者」としてねたみや差別を受けた人もいた。母ときょうだい4人で60年に渡航した福岡市出身のキム・ルンシルさん(72)は帰国者の男性と結婚し、現地の人とは親しく付き合わなかった。帰国者の知人が何人も政治犯収容所に送られたため、「現地の人は、帰国者が変な発言をするとすぐ密告する。帰国者はそういうことをしない」と、帰国者同士で集まり、日本の歌を歌ってつらい日々を忘れようとしたという。
 脱北者への定着支援制度がある韓国と違い、日本にはそうした制度はない。「日本で生まれ育ち、母は日本人。韓国に行く選択肢はなかった」(石川さん)という人がいる一方で、2000年に韓国に亡命し、国の支援で暮らすキムさんは「生まれ故郷の日本に来たかったが道がなかった」と語る。脱北者、特に「在日」出身者は韓国でも「よそ者」。「自由な韓国の暮らしに不満はないが、友達がいない」と話す。
 帰国者のうち脱北して日本に来た人は約200人、韓国に亡命した人は300~400人程度とされる。在日朝鮮人と一緒に渡航した「日本人妻」の里帰り事業も00年を最後に途絶えている。少しでも歴史の空白を埋めようと、17年10月に日本の学者やジャーナリストら有志が「『北朝鮮帰国者』の記憶を記録する会」を立ち上げ、21年末までの証言集発刊を目指して脱北者への聞き取り調査を行っている。(2019/11/27-13:00)

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