「コロナ収束へ国際協力を」 1940年「幻の五輪」の教訓―戦後75年

2020.08.11
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by 時事通信


開催返上で幻に終わった1940年東京五輪の公式ポスターの写し(日本オリンピックミュージアム所蔵)=6日、東京都新宿区

開催返上で幻に終わった1940年東京五輪の公式ポスターの写し(日本オリンピックミュージアム所蔵)=6日、東京都新宿区

  • 開催返上で幻に終わった1940年東京五輪の大会シンボルマーク(日本オリンピックミュージアムの展示パネルより)=6日、東京都新宿区

 新型コロナウイルスの影響で1年延期となった2020年の東京五輪・パラリンピック。中止の可能性も取り沙汰されているが、実は初めてではない。1940年にも開催が決まりながら、戦争のため返上・中止となった「幻の東京五輪」があった。専門家は「世界で孤立し返上に追い込まれた歴史を繰り返してはならない。コロナ収束に向け、途上国を含めて協力すべきだ」と訴える。
 関東大震災から復興を果たした東京は、「皇紀2600年」に当たる1940年にアジア初の五輪開催を目指し、招致活動を展開。36年の国際オリンピック委員会(IOC)総会でフィンランド・ヘルシンキを投票で破り、開催が決まった。
 しかし、37年に日中戦争が勃発。長期化で陸軍が五輪開催に非協力的になり、物資統制による鋼材不足で競技場建設も止まった。海外からも開催を疑問視する声が上がり、政府は38年7月、戦争遂行を優先して返上を決定した。
 40年には札幌冬季五輪と、東京、横浜での国際博覧会(万博)も予定していたが、いずれも返上、延期となった。
 一連の経緯に詳しい日本大の古川隆久教授(日本近現代史)は、「世界で孤立し、関係を修復できなかったことが返上の根本要因だ」と指摘する。日中戦争は中国に対する侵略という見方が大勢で、「参加をボイコットする動きもあり、選手が集まらないことを政府も恐れていた」という。
 古川教授によると、メンツを重視して停戦の機会を失した日本は資源を求めて南方に進出。戦線は拡大し、五輪出場を目指していた選手も出征し命を落とした。「日中戦争を止められれば太平洋戦争もなく、歴史は変わっていた。日本は五輪より戦争を選んだ」と批判する。
 「五輪は世界中から人が集まるスポーツの祭典で、開催には国際協力が不可欠だ」。古川教授は40年大会の教訓をこう語る。新型コロナの感染拡大は続き、途上国など自国のみでは対応が困難な国もある。「国内だけ収束しても五輪は開催できない。世界全体の収束に向け、日本が動くべきだ」と話した。(2020/08/11-07:08)

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