武相荘だより ~白洲邸 折々の記~

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白洲次郎・正子夫妻が半世紀を過ごした茅葺き農家が、2001年10月より、旧白洲邸「武相荘」として一般公開されております。本マガジンでは、催しもの情報、白洲夫妻にまつわる多彩な読み物をお愉しみいただけます。

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メルマガ名
武相荘だより ~白洲邸 折々の記~
発行周期
月刊
最終発行日
2018年08月05日
 
発行部数
11,556部
メルマガID
0000079496
形式
PC・携帯向け/テキスト形式
カテゴリ
アート・文芸 > 美術・デザイン > 美術館・ギャラリー

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武相荘だより ~白洲邸 折々の記~ 2018年8月5日 第201号

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★~ミュージアムより~
『 武相荘―夏展 』 開催中 ~ 8月26日(日)
囲炉裏のお部屋に正子の祖父、樺山資紀の書が掛かっています。「何事非娯」とあり、1916年(大正5年)に書かれたものです。「何事カ娯ミニ非ザル」と読み、「どんな事でも、楽しみにならない事はない」という意味である、と聞き及んでおります。
キャプションをメモしている方、後日電話で意味を問い合わせられる方もいらっしゃいます。じんわり、ゆっくり沁み込んでくるような一文なのです。


★~ショップより~
*欠品しておりました、インドネシア製の「蚊遣り」が入荷しました。

*沖縄の銀細工「またよし」の商品へのご注文、お問合せを多く頂戴しておりますが、だいぶアイテムが少なくなっています。再入荷しても直ぐに欠品になってしまう状況です。
現在、1ヶ月~3ヶ月のご猶予を頂いているものもございます。御了承ください。


★~イベントのお知らせ~
武相荘×SIGMA『Art of Life(日常の美)』
大門美奈写真展「武相荘写真歳時記―春夏編―」
2018年7月14日(土)から8月26日(日)まで開催中

この写真展は、株式会社シグマ(本社:神奈川県川崎市、代表取締役社長:山木和人)と、旧白洲邸・武相荘(所在地:東京都町田市、運営:株式会社こうげい)による、2018年7月14日(土)から2019年初旬の約7か月間の共同企画による写真イベント、武相荘×SIGMA『Art of Life(日常の美)』の一環として開催しています。

大門氏による武相荘の風景、季節を切り取った、計32点の作品がミュージアム、レストラン、バー&ギャラリーに展示されています。作品の展示位置マップの用意がありますので、
どうぞ、スタッフにお声をかけて下さい。

*8月はイベントの予定はありません。
9月からのイベント情報は当館ホームページのイベントページにてご確認下さい。


★~レンタルスペース「能ヶ谷ラウンジ」のお知らせ~
武相荘のレンタル・スペースはご存知ですか。→ http://buaiso.com/lounge/

当館のイベント等で使用している部屋「能ヶ谷ラウンジ」は多目的な空間として
ご利用頂いています。まずは、サイトをご覧ください。

「能ヶ谷ラウンジ」をご利用になって開催されるイベントがこちら。
  
9月9日(日) 直書観音 Vol.12 〜あう〜 Open 13:30 Start 14:00
https://miya-music.com/TOP-1
書道家・白石雪妃と音楽家・Miyaによる即興プロジェクト。
書・音・空間・人のすべてが一期一会で融合しあうパフォーマンス。
書と音楽の参加型ワークショップも開催。
誰でも楽しく参加できます。どうぞお気軽にご参加ください。

予約¥3,000 当日¥3,500 学生¥2,000小学生以下無料*和服でご来場の方は¥500引き!

※こちらの企画は武相荘ではありません。お問合せは下記へお願い致します。
【 予約:問い合わせ 】Team Can-On(チーム・カノン) Tel 03-6427-9156



★展示スケジュール 
 
「武相荘―夏」 開催中  ~ 8月26日(日)
《 夏季休館 8月27日(月)~9月3日(月) 》
「武相荘―秋」9月4日(火)~ 11月25日(日)
「武相荘―冬」11月27日(火)~ 2019年2月24日(日)
《 冬季休館 2018年12月26日(水)~ 2019年1月7日(月) 》


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  武相荘 四季便り
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あっと言う間に、禅寺丸柿の実が大きくなり、地面に落下するようになりました。恒例の「柿の実落下、頭上注意」の札を吊るしております。柿の木の下は長居せず、頭上注意…です。


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 武相荘のひとりごと
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毎日おそろしいほどの暑さが続いています。
連日熱中症にならない為にエアコンを使えとマスコミが連呼しています。冷房は体に良くないからなるべく使わないようにと言われていた時代から思うとウソのようです。
私を含む老人がエアコンを嫌い、暑くてもつけないで過ごしてしまうのは当時の洗脳のせいかもしれません。
両親の暮らしていたこの武相荘は、夏でも過ごしやすく、生まれたばかりの息子が汗疹だらけになるので、朝から涼しくなるまで武相荘で毎日を過ごしたものです。
近いとはいえ毎日赤ん坊を連れて通うのは煩雑で、何か我が家で快適に過ごす方法はないかと思っておりましたところ、その数年前、母が入院していた時に病室(今では考えられませんが、当時は病院にもエアコンはありませんでした)に取り付けたクーラーが武相荘の納屋に眠っているのを思い出し、早速我が家に取り付けました。
確かに涼しくはなりましたが、そこで精神的なネックになったのは、クーラーは体に悪いという当時の報道です。思いあまって、私が子供の頃からお世話になっていた小児科医の
O先生にうかがいますと、大人が気持ちがいいものは赤ちゃんも気持ちがいいに決まっているじゃないですかと即答され、やっと朝晩の放浪生活と汗疹から解放されました。
信じている人の一言は大きいものです。


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  正子の著作より
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「 祖父・樺山資紀 」 ※『白洲正子自伝』より 
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 津本陽氏の『薩南示現流』(1983、文藝春秋)に、このような逸話がのっている。
 示現流というのは、薩摩の島津藩で行われていた剣道で、その使い手の指宿藤次郎が、京都祇園の石段下で見廻組に殺された。むろん幕末のことである。
 その時、前田某という若侍が同行していたが、彼はいち早く遁走した。指宿は五人の敵を倒したが、下駄の鼻緒が切れて転倒し、無念の最期をとげたという。
 その葬儀の場に、橋口覚之進という気性のはげしい若侍がいて、焼香の時が来ても、棺の蓋を覆わず、指宿の死顔を灯びのもとにさらしていた。彼は参列者の中から前田を呼んでこういった。
「お前(はん)が一番焼香じゃ。さきィ拝め」
 ただならぬ気配に、前田はおそるおそる進み出て焼香し、指宿の死体の上にうなだれた。その時、橋口は腰刀をぬき、一刀のもとに首を斬った。首はひとたまりもなく棺の中に落ちた。
「こいでよか。蓋をせい」
 何とも野蕃な話である。が橋口にしても、前田にしても、そうしなければならない理由があった。
 薩摩藩には、「郷中(ごうちゅう)」といって、区域区域に備えられた青少年の教育機関が存在した。藩士の子弟は八歳の時に稚児として郷中に加わり、二十歳で兵児二才(へこにせ)の時期が終るまで、厳しく文武の道を体得させられたのである。
 テレビの「翔ぶが如く」(原作・司馬遼太郎、1990年NHK大河ドラマ)を見た方は、彼らが大体どんな教育をうけたか、想像することができると思うが、武士道に背いて、「惰弱」に流れることはもっとも恥ずべき行為であり、その掟に反した前田某は、死は元より覚悟の前であったに違いない。でなければおめおめと葬儀の場に顔を出すことはなかったであろう。橋口はおそらく兵児二才の年長格で、指宿藤次郎の朋友でもあったから、彼を殺さなければならない立場にあったと思われる。
 津本氏はそう書いてはおられないが、この葬儀の場合は、葬儀というより一種の儀式で、参列者は元より、斬る方も斬られる側も、すべて暗黙の了解のもとにあり、「こいでよか」のひと言で済んだのであろう。そのあとに音信(おとず)れた何ともいえぬ静寂な空気まで、私には感じとれるような気がするが、ほんとうの葬式はそこからはじまったのではなかろうか。

 ここに登場する気性のはげしい橋口覚之進なる若侍こそ、何をかくそう私の祖父の若き日の姿である。のちに橋口から樺山へ養子に入り、資紀(すけのり)と称した。ひと太刀で首を落としたのをみると、示現流のかなりな達人で、鹿児島の高見馬場郷中に属していたらしい。
 大正元年(1912)に撮影したその郷中の記念写真について、津本氏は次のような感想を述べている。
  
   四、五十人の、いかにも薩摩隼人らしい精悍な要望が居ならぶ最前列に、洋服姿の肥大漢が泰然と正座している。附記を見ると、樺山資紀である。その顔面神経が鈍麻したかのような、東洋豪傑風の面がまえに、私は感じいった。眼つきの暗鬱なきびしさは、他の男たちとは異質なものであった。文久二年(1862)四月、寺田屋で本藩鎮撫使の手によって殺害された兄の橋口伝蔵も、このような粛殺の気配をただよわす風貌であったのだろうかと、私は思いをはせた。
 
 大正元年といえば、私がまだ二、三歳の頃で、祖父の顔を覚えている筈もない。が、黒田清輝の筆による肖像画は、資紀五十八歳の時のものだから、浴衣がけのふだん着姿であっても、いくらか当時の精悍な風貌を伝えているかも知れない。私の知っている祖父は世にいう好々爺ではなかったが、穏やかな表情の奥に底知れぬたくましさを秘めた大男であった。孫にとっては豪傑でも英雄でもなくて、ただのおじいちゃんだったが、甘やかされたことは一度もなく、さりとて特別厳しかったわけでもない。
 17ページに掲げた写真(※新潮文庫「白洲正子自伝」のカバーに使用されている)は、宮中へ参内するため大礼服を着て、庭で撮影している所へ私が幼稚園から帰って来たので、ついでに撮ったものである。祖父はそっと抱いたつもりでも力が強いので息苦しく、おまけに沢山ついた勲章のとげとげが背中にささって痛かった。不機嫌な顔つきをしてるのは一生懸命我慢していたからである。
 そうでなくても私は不機嫌な子供であった。今でいえば自閉症に近かったのではなかろうか。三歳になっても殆んど口を利かず、ひとりぼっちでいることを好んだ。私には十六歳も年上の姉と、九歳年長の兄がおり、末っ子だったので両親には甘やかされもしたが、同時に一人前の扱いはされず、みそっかすの立場に甘んじていた。当人は無意識であっても、生れつき勝気で、負けず嫌いの性分だったのであろう、そのためにいつもひがんでいた。
 父方の祖父(樺山資紀)も、母方の祖父(川村純義)も海軍の軍人だったから、「この子が男の子だったら、海軍兵学校に入れたのに」と、ふた言目には家族たちが残念がっているのを耳にして、生れ損ないみたいな気がし、しまいには本気でそう信じるようになって行った。何も男の子が羨しいというのではない、ただ、コンチクショウと歯軋りをしており、歯軋りをしているから口が利けなかっただけの話である。
 だから可愛いなどとお世辞にもいわれたことはなかったし、自分でもにくたらしい子供だと思っていた。家に禿げ頭の家扶がいて、何かのはずみで「お可愛らしいお嬢ちゃま」といった時は、怒り心頭に発し、無言で禿げ頭をめった打ちにしたことがある。そのつるりとした手応えを今も忘れてはいないが、私が生れてはじめて口にした言葉は、「バカヤロウ」で、気に入らない医者が診察に来た時、ひと声叫んで布団を蹴って逃げ出したことを覚えている。
 まったく「お嬢さま」にはあられもない暴言であるが、それが嵩じて何か気に喰わぬことがあると、廻らぬ舌で、「ブッテコロチテチマウ」と地団太踏む。二、三年前に亡くなった兄が、晩年になって、あれをいわれた時はほんとうに怖かったと白状したので、おかしかったことを思い出す。
 万事につけてそんな調子だったから私は男の子としか遊ばず(実は今でもその傾向はある)、自分のことを「ボク」といっていた。人が私のことを呼ぶ時は、正子ちゃんでもまあちゃんでもなく「まあ坊」で、幼な友達は未だにそう呼んでいる。とんだ「とりかへばや物語」であるが、人付合いが悪く、いつも仏頂面でいたのは、裏を返せば甘ったれてたにすぎない。或いは自意識過剰で子供なりに悩んでいたのでもあろうか。塀の上を走ったり、屋根から屋根へ飛びうつったり、そんな武勇伝ならいくらでもあるが、つまらないので止めておく。

 西郷隆盛を主人公にした「翔ぶが如く」のテレビは評判が香ばしくないそうで、私もあまり面白いとは思わないが、多少は自分自身と関係があるのでたまには見る。
 ある時、田中裕子がたっつけ袴をはいて、二才どもの先導に立ち、荒馬を飛ばしている姿を見て、私も徳川時代に生まれていたら、きっとあのとおりのお先っ走りをやっていたに違いないと、思わず吹き出してしまった。吹き出しながらも、そぞろに涙をもよおした。忘れていた鹿児島の血が蘇ったのである。
 私は、父も母も、そのまた先祖も生粋の薩摩隼人だが、東京生れの山の手育ちで、一度も鹿児島に住んだことはない。
 にも拘わらず、東京が故郷とは思えないのである。
 そうかといって、薩摩の国も、多くの人が考えているように異郷の地であり、日本の中の外国という感じから逃れられない。 
 「私は誰でしょう」というのは、青山二郎が私の本の序文に書いてくれた題名だが、さすがによく見ていたと今になって感謝している。
 それについては、別のところに書いたので省略するが、要するに、近ごろのはやり言葉であるアイデンティティを求めて、私は長い間さまよっていたのである。そのうちアイデンティティなんかもうどうでもよくなって、そんなものは他人に任せて何とか生きている次第だが、自分の元型というものを、目に物見せてくれたのは、津本陽氏の『薩摩示現流』であった。
 私はその極く一部分の祖父についての話だけ取りあげたが、全篇を読むと実に面白い本で、剣道の真髄について余すところなく語っている。今時、剣道なんか持ち出すと、やれ時代錯誤とか、戦争礼賛だとか、悪くすると右翼の片棒をかついでいるように見られかねないが、そんな簡単なものではなく、日本の文化の中心を形づくっていた一つの「芸」であったことは疑いもない。
 長いのでここに全部を紹介することはできないが、示現流は、はじめ「自顕流」といった。桃山時代に京都の寺でひそかに行われていた剣道で、薩摩藩士の東郷重位(ちゅうい)が苦心惨憺して鹿児島に伝えた流儀である。
 ところが血の気の多い兵児二才の間では、「自顕」を自分流に解釈して、前後の見境もなく自分を顕せばいいのだろうと、勝手気ままな振舞をするようになった。
 もともと受ける太刀はなく、斬る太刀だけが命の剣道のことだから、「気ちがいに刃物」もいいところで、しめしがつかなくなったのである。
 そこで当時の藩主、島津家久が、大龍寺の文之和尚と相談して、重位に命じて「示現流」と名を改めることにした。
 これは観音経の中にある「示現神通力」からとったもので、神仏が此世に姿を現す意味である。家久自身が剣道の達人であったから、勢のいい若武者たちもいうことを聞いたに違いない。
 物の名は恐るべき力を持っているが、依頼島津藩のお留流として、他見無用の剣道となった。名前を変えた程度で、野蕃な人種がどうなるわけでもなかったが、示現流を習うことによって、我慢することぐらいは覚えたであろう。まして達人ともなれば、精神的にも謙虚で誠実な人間に育ったことは間違いない。

 示現流についてはまた別にふれることにして、再び祖父の主でに戻りたい。彼は至って無口な老人で、いつも黙っていたのが幼い頃の私には安心できるものがあった。
 大磯の「鴫立沢」の前にささやかな別荘があり、二股にわかれた老松があったので「二松庵」と呼んでいた。晩年はそこで暮らしていたが、別に園芸場と名づける別荘が山手の方にあって、花や野菜を育てており、毎日そこへ通うのを日課としていた。
 朝起きると、まず海岸へ口を洗いに行く。私はちょこちょこその後から従いて行くのだが、孫がいようといまいと意に介さぬという風で、「太平洋の水でうがいしよると気持よか。あの向うにはアメリカ大陸があっとよ」と、はるかかなたの空を眺めやりながら、鹿児島弁丸出しの口調で誰にともなくいうのであった。
 明けがたの浜べには、地引網をひく漁師たちののんびりした掛声が流れ、網がひきあげられるとピチピチした魚の群れが朝日のもとで銀色にかがやく。漁師はみんな祖父を見知っているらしく、鉢巻をはじして会釈した後、魚をわけてくれる。それが朝食の膳にのぼるのであった。
 朝食にはその魚のほかにハム・エッグがついたが、全部食べるわけではなく、残したものをナイフとフォークでこまかく切る。何もそんなに丁寧にする必要はないと思うのに、まるで重要な仕事でもするように、細心の注意のもとに切りこまざいて、「ソイ、ソイ」(それ、それ)といいながら雀にやる。雀はそれを知っていて、毎朝窓の外に集まり、勇気のあるのは彼の肩や頭にとまったりして待っていた。
 それはまったく一介の田夫野人としか見えぬ姿であった。私の記憶にある祖父は、着古したセルのきものに、太い兵児帯を無造作に巻きつけた平凡な老人で、それ以下でも以上でもない。
 今、兵児帯と書いて思い出したが、これも薩摩の兵児二才から出た言葉で、もとはふんどしを意味したものらしい。十三から十五歳ごろに行う成人式を、九州では「褌(へこ)祝い」と称し、また「たふさぎ祝い」ともいった。最初はそのふんどしをきものの上にぐるぐる巻いて利用したのが兵児帯になったのだろう。だいたい西郷隆盛の銅像と同じような姿と思えばいいが、テレビの「セイゴドン」は肩パッドが厚すぎて何となくしっくり来ない。

 今でも鹿児島人にとって、セイゴドンが崇拝の的であるように、私の祖父や父も神さまのように思っていた。その神さまを相手に西南戦争で戦うハメにおちいったのは、祖父にとっては生涯の痛恨事であった。その時彼は熊本鎮台の参謀長で、西郷側にもう砲弾がなくなり、石の弾が飛んで来た時はどうしようかと思ったと、これは後に父から聞いた話である。
 私が子供の頃は、戦場での祖父を描いた錦絵が何枚もあった。その一つに西南戦争のものがあり、足元で爆弾が炸裂している横のところに、「その時樺山少しも騒がず」と書いてある。「ほんとに怖くなかったの?」と私が訊くと、「そりゃ怖かったサ。飛んで逃げた」と笑っていた。何か尋ねればその程度のことは答えてくれたが、あとがつづかないので面白い逸話はない。
 かれが従軍したのは、薩英戦争にはじまって、鳥羽・伏見の戦、戊辰の役につづく会津戦争、最後は日清戦争で、一生の大半は戦に明け暮れたといっても過言ではないと思う。
 西南戦争のあとで彼は陸軍少将いなったが、その二年後に突如海軍大輔(だいふ)に転じ、海軍中将に昇進するといった工合で、祖父の経歴だけ見てもいかに明治政府が混乱状態にあったか、その苦衷のほどが察せられる。
 日清戦争では、海軍軍司令部長に就任、作戦を指導したと聞くが、当時の日本には元より軍艦は一つもなく、軍令部長が西京丸という商船に乗って出撃するというあんばいだった。
 商船のことだから、軍艦のように船足は深くはなく、敵艦から発射する水雷は、すべて下を通りぬけてしまうという笑えぬような幸運にも恵まれたという。例の錦絵では、西京丸を敵艦に横づけし、軍令部長が斬込隊の先導に立ち、日本刀をぬいて獅子奮迅の勢で当るを幸い薙ぎ倒している風景があったが、当時の海戦とは、少なくとも日本の側ではそうでもしなければ対抗できなかったことは確かである。
 それにしても、海軍について何の知識もない陸軍の一将校が、曲りなりにも職務を果たすことができたのは、封建時代の教育にあるのではなかろうか。
 祖父の場合でいえば、「示現流」の技法だけではなく、その背後にある剣道の精神によって鍛えられた不屈の魂が、臨機応変の処置をとらせたのではないかと私は思っている。とかく精神とか魂とかいうと、非現実的に聞えるばかりでなく、太平洋戦争に負けたのも、そういうものに頼りすぎたためであることはいうまでもないが、そういう難しい話は後にゆっくり述べるとして、今は生死の巷を何回となく体験した祖父が、沈黙を守って一生を終り、田夫野人の姿に還って、自然とともに暮したことの幸福を想うのである。

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  来館者の声から
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□丁寧に暮らしていらした様子。大切に保存して下さって、ありがとうございます。
 
□NHKテレビで見た場面が蘇った。カレーも美味しかった、ジャズも良かった。

□おもては暑いが、室内はすずしい。これはきっとクーラーのせいだけではないぞ。
 次郎さんのCoolさが、たっぷりココに残っているからだな…。

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■当館への御意見・御要望など、こちらまでお寄せ下さい。

⇒ mailto:info@buaiso.com


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   ご利用案内
 ―――――――――б
 
◆ミュージアム開館時間/10:00~17:00(入館は16:30まで)

レストラン営業時間
*ランチ 11:00~15:00ラストオーダー 
*カフェ 11:00~17:00(16:30ラストオーダー)
*ディナー 18:00~ラストオーダー20:00(要予約)
※イベント等の都合により、営業時間の変更が生じる場合があります。
※土日祝日のランチ予約はお受け出来ません。(人数等によって応相談)
※ご予約は前日までに。【 ご予約・問合せ:レストラン直通 042-708-8633 】
  
メニュー、画像
→ https://www.buaiso.com/access_guide/restaurant_cafe.html
           
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◆休館日/月曜日 ( ※祝日・振替休日と重なる場合は開館いたします。 ) 
※夏季・冬季臨時休館があります。日程は前述をご覧下さい。
 
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◆ミュージアム・エリアへのご入場/1,050円 (内消費税等77円) 
※小学生以下の入館は出来ません。※乳児は抱いた状態で可。
団体割引やシルバー割引等、割引の設定はございません。
    
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◆カフェ&レストラン、イベント外での飲食、お持込みはご遠慮下さい。

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◆ミュージアムをご覧になる際は、靴を脱いでお入り頂いております。

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◆駐車場 /
16台分のスペースをご用意しております。(無料)
満車の場合は、鶴川駅前の時間貸しをご利用下さい。
         
※地図はこちらへ⇒ http://www.buaiso.com/annai.html
※バスの駐車場はございません。
       
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◆本館は白洲次郎・正子夫妻が暮らした当時のままのしつらえで
公開しており、バリアフリーにはなっておりません。

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◆《メルマガ配信中止・アドレスの変更》
http://www.buaiso.com/else/mmagagine/mmagagine.html

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発行/旧白洲邸 武相荘 http://www.buaiso.com

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