岩田温
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岩田温の『政治哲学講義』

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岩田温の『政治哲学講義』

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政治学者 岩田温がお届けするメルマガ。政治哲学を巡る連載、書評、映画の批評などを配信します。テーマは「情報から思想へ」。ネット上では、様々な情報が氾濫していますが、静かに落ち着いて思考する「思想」が欠如しています。状況に応じて「政局」について言及することもありますが、基本的には読者とともにゆっくりと思考するメルマガでありたいと思っています。極端な右翼思想ではなく、リベラルな保守主義の立場から発進します。読者の方の疑問にも分かりやすくお答えします。

おすすめポイント
  • 政治哲学から現代を読み解く!
  • 徹底した分析と考察!
  • 読者との双方向性を重視した考察!
著者プロフィール

岩田温

政治学者。主な著作に『逆説の政治哲学』(ベスト新書)、『政治とはなにか』(総和社)、『日本人の歴史哲学』(展転社)、『人種差別から読み解く大東亜戦争』(彩図社文庫)、『平和の敵 偽りの立憲主義』(並木書房)等。専攻は政治哲学。様々な政治問題、歴史問題に関して幅広く問題提起を行う。テレビ出演多数。

「情報が氾濫する現代、じっくりと考えることが少なくなっているように思います。読者の方々と共に、様々な事象について、より深く、根源的に考察を深めていきたいと願っています。政治哲学の分野だけでなく、従軍慰安婦の問題、ヘイトスピーチについての問題等、幅広い分野を取り扱います。映画や本の紹介もしていきます。どうぞよろしくお願い致します。」

サンプル号
こんにちは岩田温です。今日から、メルマガを開始しました。まずはご挨拶をさせて頂きます。

「メルマガ岩田温の『政治哲学講義』を創設するにあたって」

 有料メルマガを始めることにした。

 一体、どれくらいの方が登録してくれるのか、全くわからない。だが、自由な媒体で自由に論ずること自体が大切だと考えた。
 基本的に政治の解説が多くなるだろうが、それだけでは終わらせたくない。読者との交流も大切にしたいし、私はエセーを書くのも好きなので、ちょっとしたエセーも掲載していきたい。そして、忙しい政治家やビジネスマンの方には、古典の勘所、現代政治の問題点の核心を説明したいと思っている。
 政治家やビジネスマンは忙しい。その多忙さは十分に承知している。しかし、読んでおくだけで世の中の見方が劇的に変わるような古典というものがある。なるべく古典の核心部分を紹介し、多くの人々に思索する喜びを知って貰いたいと願っている。

 現代はまことに教養が軽視される時代だ。
確かに教養は直接的には稼ぎに直結しないだろうし、教養がなくても生きてはいける。
 文科省が、「生きる力」などというものを教育の基本理念に据えて久しいが、まことに愚かといわざるを得ない。何故なら、生きる力などというものはゴキブリにでも備わっている力であって、生物である以上、「生きる力」は生まれたときから備わっている。
 必要なのはただ生きるのではなく、古典ギリシア人たちが求めたように「善く生きる」ことなのだ。そして、「善く生きる」ためには教養が欠かせないというのが私の見解だ。桜を眺めたとき、ただ漠然と眺めるのではなく、「ねかはくは 花のしたにて 春しなん そのきさらきの もちつきのころ」(山家集)といった西行法師の和歌を思い起こし、哀しみと同時に人生の重要さに気づくような感性、それが教養というものではないだろうか。

 私自身は政治哲学の研究者だから、どうしても政治哲学、政治に関する話題が多くなるだろう。何らかの形で読者の皆様が「善く生きる」ことに繋がるようなメールマガジンを目指していきたいと思っている。

どうぞご登録の程、宜しくお願い申し上げます。




連載 『責任と自由』ハンナ・アレント研究 第1回 

逮捕

 一九六〇年五月一一日。
 仕事を終えた男は、いつもよりやや遅れたバスに乗った。午後七時四〇分に自宅付近のバスの停留所に降りるのがいつもの日課なのだが、その日男が停留所を降りた時、時計は既に八時を回っていた。背が高く痩せこけた男は、バスを降りると、家族の姿を思い描きながらだろうか、家路を急いでいた。ブエノスアイレス郊外のこの住宅地付近は、相変わらず人気がなかった。決して豊かな国とはいえないアルゼンチンで、男が家族とつつましやかに暮らすことになって随分と歳月が経っていた。
 家路を急ぐ男の眼に突然強い光が差し込んだ。眩い自動車のヘッド・ライトの光だった。強い光から目を背けながらも男が歩み続けると、故障した自動車を修理している男たちがいた。男が早々に通り過ぎようとすると、一人の男が彼を呼び止めた。懐中電灯で先方を確認しようとポケットをまさぐった瞬間、男は道路に投げ出され、あっという間に自動車に押しこめられた。
 車中で名を尋ねられると、男は「リカルド・クレメント」と答えた。だが、それが彼の世を忍ぶ仮の名前であることを男たちは既に知っていた。彼こそが、ナチス親衛隊元将校、アドルフ・アイヒマンに他ならなかったのだ。偽名ではなく、ドイツ名の本名を問われると、男は自らがアドルフ・アイヒマンであることを認めた。
 アドルフ・アイヒマン。
 ユダヤ人虐殺に加担したナチス将校の代表的存在として知られる人物である。「ナチス党員番号 45326」。「SS(親衛隊)番号 63752」。彼はナチスのユダヤ人虐殺の象徴ともいうべき人物の一人であった。ナチス政権下では、彼の名前を聞いただけでユダヤ人は震え上がった。ただし、アイヒマン自身は、直接ユダヤ人を殺戮しなかった。彼が請け負っていたのはユダヤ人の「移送」である。なるべく合理的にユダヤ人を強制収容所へと移送させ、効率的に虐殺を実行させる。それが彼の任務に他ならなかった。
彼は任務を忠実に遂行し、熱心にユダヤ人を虐殺の為の収容所へと移送させた。彼の情熱を傾けた精励恪勤により、多くのユダヤ人が収容所の灰と化していった。
 ナチス・ドイツが敗北すると、アイヒマンは姿を隠し、その行先は誰も知らなかった。


情報の提供

 アイヒマンがアルゼンチンに逃亡しているという情報がモサドに寄せられたのは逮捕より一年以上前の出来事だった。
娘の友人がアイヒマンの息子ではないかという現地からの情報が、ドイツのフリッツ・バウア博士のもとに寄せられたのだ。バウア博士はドイツのヘルセン州法務長官を務めていたが、ナチスの犯罪者を追い求める、いわゆる「ナチス・ハンター」の一人でもあった。バウア博士のところに娘の恋人がアイヒマンの息子ではないかとの情報がアルゼンチンから届けられたのだ。
 バウア博士は西ドイツ政府ではなく、イスラエル政府に情報を届ける必要があると判断した。仮に西ドイツ政府がアルゼンチン政府にアイヒマンの身柄引き渡しを要求した場合、アイヒマンを取り逃がすことにもなりかねないと危惧したからだ。お世辞にも西ドイツ政府は、ナチスの犯罪者たちを追及することに熱心とは言えない状況にあった。
 驚くべきことだが、当時、西ドイツの司法部門は元ナチス党員がひしめいていたのだ。ドイツでは、エリートの殆どがナチスに入党していたために、全てのナチス党員を追放すべきなのだが、全てのナチス党員を追放しては、国家を運営することが出来ないというジレンマに陥っていた。そのため、ナチスの要職にあった人物が、西ドイツで再び要職に就くことは珍しいことではなかったのだ。(この問題は、トニー・ジャット『ヨーロッパ戦後史』みすず書房に詳しい。)
 イスラエル政府にバウア博士の情報が届けられると、早速、諜報機関、モサドがアイヒマンについての捜査を開始した。
 バウア博士に情報を届けたのは、ロータ・ヘルマンというユダヤ人男性だった。彼は、以前ドイツで警察官を務めていたが、ナチスが政権を掌握すると、ダッハウの強制収容所に送られ、過酷な収容生活の中で失明してしまう。そして、彼の両親はナチスに殺害された。視力を失いながらも命長らえたヘルマンは、ドイツ人の妻とアルゼンチンに移住した。
 ヘルマンがアイヒマンの情報を掴んだのは娘からだった。
 娘はニック・アイヒマンと名乗る感じのいい男と出会い、何度かデートを重ねた。あるとき、ニックは「ドイツ人はユダヤ人を全滅させるべきだった」と述べた。これは娘が自身がユダヤ系であることを黙っていたために、思わずニックが漏らした言葉だった。
こうした不気味な発言とは別に、ニックには不思議な点があった。彼は愛想のよい男だったが、自分自身の住所を決して語らなかったのだ。娘がヘルマンとともに引っ越した後に手紙を送ろうとしても、ニックは自宅の住所を教えずに、友人宅に手紙を送るようにいった。怪しんだ娘がニックの住所を突き止め、黙って訪問すると、そこにはニックはおらず、ニックの父親を名乗る人物がいた。これを聞いたヘルマンは、その男こそがアイヒマンに違いないと考えたのだ。
 アルゼンチンに向かったモサドの諜報員は、ヘルマンとその娘に対して、アイヒマンの特徴を詳しく知らせ、その男がアイヒマンに間違いないかどうかを改めて確認するように依頼した。
 数か月後、イスラエルにヘルマンからの情報が届けられた。その男は間違いなくアイヒマンで、オーストリア人のフランシスコ・シュミットと名乗っているというのだ。至急、モサドは、アルゼンチンに潜む諜報員にシュミットについて確認させた。だが、調査の結果、シュミットはアイヒマンとは全くの別人だった。
 調査はここで終了してしまった。
 だが、これは大きな間違いだった。やはり、ヘルマンが怪しいと睨んだ男こそがアイヒマンだったのだ。ヘルマンは男の住所を探し出し、その家主、賃借人を調べた。家主の名こそが、モサドにアイヒマンと報告したフランシスコ・シュミットに他ならなかった。だが、実際のアイヒマンは、家主ではなく、賃借人のリカルド・クレメントの方だったのだ。すなわち、シュミットに家を借りていたクレメントこそがアイヒマンだったのだ。
 捜査は再開され、リカルド・クレメントこそがアイヒマンに違いないことが確認された。

復讐の始まり


 モサドの長官を務めるイサド・ハルエルはベングリオン首相に報告した。

「アルゼンチンでアイヒマンを見つけました。やつを捕まえて、イスラエルへ連れてこられると思います」
「死んでいてもいいから彼を連れてこい」
ベングリオンは即答した後、一瞬考えて次のように訂正した。
「生きたまま連れてきたほうがいいだろう。わが国の若者にとって、大変重要な意味を持つはずだ」(マイケル・バー=ゾウハー、ニシム・ミシャル『モサドファイル』早川書房、107~108頁。)

 作戦は極秘だった。一人の男をアルゼンチンから拉致することは、アルゼンチンの主権を侵害する行為となるからだ。仮にその男がヒトラーやスターリンのような大罪を犯した巨悪であれ、一国の国内にすむ人間を力ずくで他国にまで拉致する行為は、当該国の主権を侵害する行為に他ならない。従って、アイヒマンを取り逃がさぬことと同様に、アルゼンチン当局に作戦が露見しないように細心の注意が払われた。
 仮にアルゼンチン当局に作戦が漏れた場合に関して、指揮官のラフィ・エイタンは悲壮な覚悟を固めていた。
 後に、エイタンは当時の覚悟を次のように語ったという。

「(アルゼンチン政府に作戦が露見した場合)アイヒマンの首を素手で絞めることに決めた。それでもし逮捕されたら、聖書の“目には目を“を実行したんだと、法廷で言ってやるつもりだったよ」(ゴードン・トーマス『憂国のスパイ』光文社、113頁。)

 日本では、『ハンムラビ法典』の「目には目を、歯には歯を」という一節が有名だが、これは『旧約聖書』に登場する言葉でもある。『出エジプト記』の第二一章には次のように記されている。

「目には目、歯には歯、手には手、足には足」

 自身に加えられた暴力に対する復讐を是とする思想だ。ここで、この復讐の思想を野蛮だと決めつけて裁こうとは思わない。非暴力主義が是とされる現代にあっては、こうした復讐を是認する思想は非難されがちだが、実際に理不尽に暴力を加えられた被害者の立場に立てば、安直にこうした復讐思想を否認するわけにはいかない。ここでは、恐るべき悲壮な覚悟を定めた男たちが、アイヒマンの連行作戦に従事したという事実だけを確認しておきたい。彼らは自らの民族を絶滅に追いやろうとした人物に復讐の鉄槌を下すために作戦に従事したのだ。
 アイヒマンは捕えられたのち、隠れ家に連行され、出国の時を待たされた。十日後、モサドの諜報員たちは、アイヒマンを連れてアルゼンチンを出国する。「出国する」といっても非合法的な出国である。まるで映画や芝居のような方法でアイヒマンは出国させられる。
 五月一九日、イスラエルのエル・アル航空のブリストル・ブリタニア機が到着する。静かで滑らかなフライトのために「ささやく巨人」とも称された飛行機だ。この飛行機には、アルゼンチン独立150周年祈念祝典に出席する代表団が搭乗していた。この「ささやく巨人」にアイヒマンを乗り込ませ、イスラエルまで連行するのが、モサドの計画であった。
 五月二〇日。アイヒマンは病気になったエル・アル航空社の乗務員として搭乗させられた。胸には偽造したパスポートがしのばせてあった。
当日、アイヒマンには薬が投与され、彼は、即座に眠りはしないものの、話すことも出来ず、周囲の状況を理解することが出来ないような状態に陥っていた。顔には入念にメーキャップが施されており、誰もアイヒマンの顔と認識できない程であったという。エル・アル航空の制服を着た諜報員たちは、疲れ果て、眠りこけたアイヒマンを、まるで酔っ払いの仲間を連れて行くかのように、飛行機に連れ込み、イスラエルへと向かったのだ。アイヒマンの服には大量のウイスキーがかけられていた。
 当時、モサドの長官だったハルエルは、後に最も印象的な作戦としてアイヒマンの捕獲を挙げ、次のように語っている。少々長いが、アイヒマンに対するユダヤ人の想いを知るために重要な証言なので、敢えて引用しておく。

「アイヒマン作戦が最も私の印象に残っているのはそれが危険だったからとか、国際法を犯すほど大胆なものであったからというような理由からではない。あれよりも何倍という危険なミッションはいくらでもあった。あれは危険度が最も低かった作戦とさえ言える。
あの作戦が印象に残るのは他の作戦とその性格が全く違っていたからだ。あの殺戮者を犠牲者達の前に立たせ裁判にかける。そのために彼を捕え無傷のままイスラエルに連れ帰る。その仕事をモサドが託されたのだ。
 これ以上の〝ホーリー・ミッション”があろうか。あの時モサドはイスラエル国民だけではなく全世界のユダヤ人、死せる者、生ける者すべてを代表していたのだ。私の部下もそれはちゃんと心得ていた。
 彼らは皆ナチの手によって家族を失った者達ばかりだった。…(略)…あの場でアイヒマンを殺したいという思いを一度は皆が持ったと思う。しかし、彼らは耐えた。ホーリー・ミッションであると知っていたからだ」(落合信彦『モサド、その真実』集英社文庫、32~33頁。)

 アイヒマンを捕えたのち、出国するまで隠れ家で監禁している間、モサドの諜報員たちの多くが異常な疲労を感じたという。何故なら、自分たちの親や兄弟を殺戮した人間の食事を作り、髭を剃ってやるという行為に自己嫌悪を感じてしまったからだ。ハルエルのいうとおり、彼らは幾度となくアイヒマンに対する殺意に衝き動かされたことだろう。だが、彼らは耐えた。アイヒマンを法廷に引き出し、彼の悪行を全世界、そしてとりわけイスラエルの若い国民に知らせることが重要だと考えていたからだった。  (続く)



映画批評 第1回

 注意:物語の粗筋についても詳しく書いていますから、映画を観てからお読みいただいた方がよいかもしれません


論じた映画

・『海月姫』
・『ベイマックス』
・『善き人のためのソナタ』 

『善き人のためのソナタ』がメインです。


元旦から『海月姫』

 今年は元日から映画を観ることになった。
 例年、私の家族は某ホテルで年を越す。最後の忘年会とばかりに痛飲し、紅白歌合戦を無視しながらカラオケに興じ、酔っ払った頃に新年を迎えている。
そして元日には、叔父を訪問する。私の叔父―父の弟―が、重度の身体障害を抱えて、施設で暮らしているので、家族で元日に訪問するのだ。自分自身では歩くことも、話すことも、食べることも出来ずに車椅子で生活している叔父にとって、誰かが訪問すること自体が一つの事件なのだ。今年は、叔父の体調がよかったために、近くの街まで出かけて、買い物と映画鑑賞をすることになった。家族で大騒ぎしながら、帽子を購入し、映画館へと向かった。
 叔父は野球が好きなので、現在上映している『バンクーバーの朝日』がいいと思ったのだが、残念ながら時間があわなかった。丁度いい時間に始まるのが『海月姫』という映画だった。誰も粗筋を知らなかったが、能年玲奈という女優が可愛いという理由だけで観ることになった。
 嫌な予感がしていたのだが、実に下らない映画だった。
 クラゲが好きな少女と女装が趣味の男の子が、女のオタクだけで住んでいる天美館なるアパートを地上げ屋から守るために闘うというストーリーなのだが、エンターテイメントとしても面白くなかった。唯一、驚いたのはメイクの力だろうか。男が女装をして、声さえ出さなければ、本当の女性に見える。これは驚いた。勿論、これもスタイルのいい男性に限るわけで、怪しげな中年男性が女装をしても、さらに怪しげな存在になるだけだろう。
 クラゲのドレスを作ろうという発想は斬新だったが、荒唐無稽過ぎて、リアリティーがなく、全く面白くない。
 後で調べてみると、原作が漫画で、今回の映画で実写化されたとのことだが、実写版は失敗だったのではないだろうか。確かに、能年という女の子は可愛かったので、この女優の熱烈なファンならば、観る価値があるかもしれないが、物語の筋は下らない。

妹が激賞していた『ベイ・マックス』

 翌日、妹が感動したというので、これまた家族で『ベイ・マックス』という映画を観に行った。入った途端、小さな子供が多かったので、嫌な予感がしていたのだが、これもまた物語の筋としては、最低に近かった。
 天才的な科学少年が、自分の才能を下らない賭け事―ロボット賭博―に遣っていることを兄が心配し、大学に連れて行く。大学では兄が造りかけたベイ・マックスというロボットがあった。いわゆるケア・ロボットで、病人に対して、温かい言葉をかけ、処方を教示するロボットだ。
 大学で科学の重要性を痛感した少年は、大学に入学するために、「マイクロボット」を発明する。この「マイクロボット」が教授に認められ、少年の入学が決定する。このとき、科学を金に換えることの得意な男も少年を評価し、驚くほどの高額でこの製品を購入したいと持ちかけるが、少年は教授を信じる。
 この後、火事が起こり、教授を救おうと火中に飛び込んだ兄は亡くなってしまう。兄を喪った少年は虚脱状態に陥る。こんな虚脱状態から救出してくれたのがベイマックスだ。
 火事でなくなったはずのマイクロボットが不気味な動きを始め、ベイマックスが外へ飛び出していく。少年はベイマックスを追って、不思議な工場へと向かう。工場ではマイクロボットが大量に生産されており、謎の仮面を被った男がマイクロボットを自由自在につかい、まるで魔法使いのように攻撃を仕掛けてくる。
 ここから先は、もうお分かりの通り、魔法使いのような仮面の男を倒すための冒険談だ。兄の同級生らとともに、仮面の男を倒すべく科学技術で武装し、仮面の男に戦いを挑む。
 仮面の男が、実際は兄の教授だったというのが、物語の筋を唯一複雑にしているのだが、それ以外は単調そのもので、物語としての工夫がない。
 気に入らないのは、この後だ。
 教授が敵だとわかった少年がベイマックスに対して、とどめを刺すように指示すると、仲間たちが必死に止める。兄は人を殺傷するためにベイマックスを作ったわけではないというのだ。だが、目の前に、自分たちを殺そうとし、社会を破壊しようとしている人間が存在していた場合、この男の行動を阻止すべくとどめを刺すことに何の躊躇が必要なのだろうか。
 漫画やアニメに目くじらをたてるのは、大人げないとは思うのだが、余りにも馬鹿馬鹿しかった。さんざん暴力的な行動を繰り返しておきながら、突然の現れる非暴力を賞讃する偽善に呆れかえってしまった。
 教授が鬼畜のような行為を繰り返していたのは、亡くなった娘の復讐のためだった。科学で金儲けをする男は、教授の娘を実験に使い、殺してしまったのだ。
教授は娘の仇を討ちたくて悪事に及んだというのだ。だが、実際にはこの教授の娘は生きており、それを救うためにベイマックスと少年は危地に乗り込んでいく。
 娘を発見し、あと少しで仲間の待っているところに到着という段階で、ベイマックスの動力装置が壊れる。ベイマックスは自分の手を分離し、その手をロケットのように飛ばして少年と教授の娘を載せて、自らはその空間に残る。要するに、ベイマックスの犠牲の上に、少年と娘が助かる。このベイマックスとの別れが最も感動的な場面なのだろう。だが、そうした余韻は直ぐに壊される。ベイマックスのデータが残されており、少年は再びベイマックスを作りだすのだ。
 単純で平和主義的なストーリーが万人受けするのは理解できるが、ここまで平板な物語は、ちょっと受け入れがたい。


やはり『善き人のためのソナタ』


 二日も連続で下らない映画を観て、いささか精神的に疲れていたので、『善き人のためのソナタ』を借りて、実家で観ることにした。結果として二日間で三つの映画を観ることになったわけだが、この映画を観て、ようやく自分の心の落ち着きを取り戻した。
 物語の舞台は1984年の東ドイツ。共産主義体制下の悲しくも、美しい物語だ。
物語が始まっても、誰が主人公なのか判然としない。反体制派に対する非人道的な訊問から物語は始まり、やがて、その訊問は模範的な訊問として大学で講義されていることを知る。被疑者を48時間眠らせず、集中力が切れるように仕向けると、被疑者は絶望的な状況に陥る。こうした状況で怒りはじめる人間は無罪だ。
だが、泣き始め、同じ言葉を繰り返す人間は有罪だ。人は同じことを何度も説明する際に、説明の仕方が若干変わるのが自然だ。だが、嘘をついている人間は、自分が予め用意しておいた言葉にすがろうと、一字一句違わぬように同じ言葉を繰り返す。泣き始め、準備してきた言葉にすがる被疑者に関しては容赦なく訊問を続ければ、やがて、真実を話し始める。
 こうした講義に関して「非人道的だ」と声をあげる学生の座席をチェックする場面が印象的だ。言論の自由も学問の自由も存在しない共産主義体制を巧く描き出している。
 実際に訊問し、その訊問方法を録音機で再現しながら講義しているのはヴィースラー。国家保安省(シュタージ)に努める大尉だ。彼は大学時代からの友人で、彼よりも出世しているグルビッツ中佐より、劇作家ドライマンが創作した演劇に招待される。
 ドライマンに関してグルビッツは好意的だ。社会主義体制に対して理解のある作家だというわけだ。
しかし、ハムプフ大臣より、ドライマンを監督せよとの命令を下されると態度を一転させ、ヴィースラーに監視を命ずる。この辺りから、このグルビッツという人物の俗物性が窺われ、興味深い。
 この手の人物は、体制に順応すること自体が目的であり、社会主義体制の理念そのものを信じているわけではない。
 グルビッツの俗物性が露骨に示されるのは、ヴィースラーと共に食事をする場面である。
 幹部用の座席に座ろうとするグルビッツに対して、ヴィースラーは一般用の座席を選ぶ。隣では若者が、体制の指導者ホーネッカーを嘲笑する小噺を楽しそうに話そうとするが、隣に幹部がいることに気付き、口をつぐむ。グルビッツは若者に理解のあることを示し、小噺を続けるよう促し、若者は小噺を続ける。小噺を聞き終わるとグルビッツは、厳しい面持で、若者の氏名と階級を聞き出そうとする。顔面蒼白になる若者に対して、グルビッツは冗談だと大笑し、自分自身も小噺を披露する。
 彼にとって重要なのは自分自身の出世であり、社会主義の理念などというものは、方便に過ぎない。体制が異なれば話す内容も異なる。そういう類のオポチュニストである。

ドライマンの憤り ヴィースラーの心変わり

 劇作家ドライマンは、体制に順応しようとする作家だが、自身の友人である演出家のイェルスカを気遣い続けている。体制に批判的な演出をしたのであろうイェルスカは、当局より劇作家としての活動を禁じられてしまっていたのだ。ドライマンは権力者であるハムプフ大臣に取り入り、何とかイェルスカの活動再開を認めさせようとするが、大臣の反応は芳しくない。
 ヴィースラーはドライマンの家中に盗聴器を仕掛け、部下と交代で一日中盗聴を行う。政治的な話題から恋人との愛の交歓に到るまでその全てを盗聴し、記録するのだ。
 ドライマンの誕生日、友人の多くが祝いに駆け付ける。演出家のイェルスカもドライマンの家を訪れるが、彼は誰とも話そうとせずに本を読み耽っている。心配したドライマンが隣に座ると、ブレヒトを読んでいるといって、プレゼントを渡す。そんな折に、反体制派として知られるバウルが新体制派の芸術家をシュタージの犬だと罵倒する。ドライマンはバウルを止めようとするが、バウルはドライマンを見下し、反体制的な行動が出来ない人間とは絶縁すると宣言し、仮に行動に参画する際には、自分を訪問しろと言い残し、ドライマンの家を飛び出してしまう。
 勿論、全てのやりとりが盗聴されていた。 一方、ドライマンの恋人であるクリスタはハムプフ大臣につきまとわれる。共産主義国家では、権力者に逆らうことは、そのまま女優としての死を意味していた。何故なら、配役から物語の筋書きまで、全てを権力者たちが恣意的に差配することが可能だったからだ。クリスタは大臣の車に乗らされ、犯される。
 全てを盗聴し、監視するヴィースラーは、クリスタが大臣の車に乗っていることを、ドライマンに気付かせる。クリスタは、何も聞かずに抱きしめろと願い、ドライマンは黙ってクリスタを抱きしめる。
 この辺りから、共産主義国家の理念を信奉し続けてきたヴィースラーの態度が変化し始める。法で禁止されているはずの売春婦を自宅に連れ込み、セックスに耽り、ドライマンの自宅に忍び込みイェルスカの読んでいたブレヒトの本を盗み出し、静かに読み耽る。善きシュタージであったはずのヴィースラーが変わり始めるのだ。
 変化が決定的になるのは、イェルスカの死後だ。
活動を禁じられていたイェルスカは自ら死を望んだ。イェルスカの死に動揺したドライマンは、イェルスカが誕生日に贈ってくれた「善き人のためのソナタ」を演奏する。心にしみる美しい調べとともに、ドライマンは呟く。
「レーニンはベートーヴェンの『情熱』を愛していたが、革命のために『情熱』を聴くことを止めた。その理由は『この曲を聴いた人は悪人にはなれないから』だ」と。
 ドライマンの奏でる「善き人のためのソナタ」をヴィースラーは盗聴器を通じて聴く。美しい調べに、彼の心は大きく揺さぶられる。
 クリスタは大臣と約束通り、大臣と会おうとするが、ドライマンは必死に阻止しようと試みる。だが、全てを差配することのできる圧倒的な権力を拒絶することは、自らの女優としての死に繋がることを知っているクリスタは恋人の願いを撥ね付け、外へと向かう。 ここでヴィースラーが動く。
 クリスタの行きつけのバーで彼女を待ち、着席したクリスタに話しかけ、断言する。
「今のあなたはあなたではない」
「芸術家は取引をするものではない」
 クリスタは盗聴している男に礼を述べ、外へと向かう。
 翌朝、ヴィースラーは部下の報告書の報告書でクリスタが帰宅したことを知る。ヴィースラーの言葉に動かされたクリスタは大臣の下へ向かうことを拒否し、最愛の男の家へと戻ったのだ。激しい愛の交歓が続いたことが記されていた。
 イェルスカの死に憤ったドライマンは、反体制派として知られるバウルの家を訪問し、東ドイツの悲惨な状況を自由社会に訴えたいと告げる。
 当時、東ドイツでは当局による盗聴が日常茶飯事となっており、反体制派の自宅は殆どが監視されていた。ドライマンの自宅が盗聴されているのか、否かの調査が始まる。偽の情報を流し、実際に当局が動くのかどうかを調べようというのだ。
 偽情報を掴んだヴィースラーは、一瞬、悩んだが、その偽情報を当局に報告しなかった。そのため、ドライマンたちは、ドライマンの自宅がシュタージによって監視されていないと確信する。
 彼らは全てを監視し、知りたがる東ドイツの統計局が国民の自殺者の数を報告していないことを風刺する。東ドイツの体制が余りに凄惨で自殺者の数が厖大であったため、統計局は自殺者の数を調査、報告することを廃止していたのだ。

当局の逆襲

 ドライマンの記事が発表されると、東ドイツ政権内部では衝撃が走り、犯人探しが始まる。反体制派と目される作家のタイプ・ライターが調査される。だが、この原稿の執筆に利用されたタイプ・ライターは見つからなかった。ドライマンが利用したタイプ・ライターは、西ドイツから持ち込んだもので、これがドライマンの家に隠されていたのだ。
 そんな折、クリスタに屈辱を受けたハムプフは、復讐を試みる。クリスタが薬物に手を出していることをグルビッツに告げ、逮捕するように仕向けるのだ。
 逮捕されたクリスタは自由を求め嘆願する。自分に出来うる全てを行うというのだ。もう既に遅いというグルビッツだが、一つだけ、解放への道があるという。西ドイツで発表された自殺の記事を誰が書いたのかを教えろというのだ。映画では、その場面は明らかにされていないが、この時点でグルビッツはドライマンを当局に売り渡す。
 一人でクリスタを待つドライマンの家にシュタージの捜査員がなだれ込む。あのタイプ・ライターを探しに来たのだ。だが、巧妙に隠されたタイプ・ライターを探し出すことは出来ずに、捜査員たちは引き上げる。 
 タイプ・ライターはどこか。
 クリスタへの訊問が再開される。訊問を行うのはヴィースラーだ。ヴィースラーの訊問に対し、クリスタは抗うが、最終的にはタイプ・ライターの在処を密告する。彼女は恋人を裏切った。
 捜査員たちが現場に向かう一足先にヴィースラーが現場へと向かう。
 帰宅したクリスタに対してドライマンは詰問する。何故、帰ってこなかった。何故、帰ってこないなら、連絡しなかった、と。クリスタは風呂に閉じこもる。
 クリスタの帰宅からしばらくしてグルビッツ自身が捜査員を率いてドライマンの自宅を訪れる。
 捜査員たちは、様々な場所を捜索するが、結局、タイプ・ライターは見つからない。一頻り経った後、グルビッツは、クリスタから密告されていた場所を指し示し、操作するように命ずる。
 観念したドライマン。観客の緊張が高まる場面だ。ドライマンはクリスタを睨みつける。
 緊張に耐えきれなくなったクリスタは外に駆け出し、走行している自動車に身を投じて、自殺する。外で待機していたヴィースラーが駆け寄ると彼女は呟く。
「私は償いきれない過ちを犯してしまった」ヴィースラーが応える。
「あのタイプ・ライターは私が移動した」
 ヴィースラーが心の底から変わったことを確信できる、余りに悲しい場面だ。彼は善きシュタージとして生きることを諦め、善き人として生きようとしたのだ。
 ようやく事態を察したグルビッツはヴィースラーに左遷を告げる。退役するまで地下室で手紙の開封作業をさせられることになるのだ。
 物語はここで終わらない。秀作たる所以だ。

壁の崩壊以後


 時は過ぎ、1989年11月9日、ベルリンの壁が崩壊する。
 ヴィースラーは地下室で手紙を開封していた。壁は崩壊し、共産主義体制は崩れ去った。
 二年の歳月の後、ドライマンの手がけた作品が上演される。かつて、クリスタが熱演した作品だ。感傷に耽ったドライマンが、外に出ると、かつての大臣ハムプフに出会う。ドライマンは、何故、自分の家だけが盗聴されなかったのかを問うと、ハムプフは、全てが盗聴されていたと語る。
 自宅に帰ったドライマンは、家中に張り巡らされた盗聴器に驚愕し、自らの盗聴記録について調査を始める。映画では触れられていないが、東ドイツでは個人の盗聴記録が、公開され、些事に到るまで、全てが盗聴されていた驚愕の事実が明らかになった。
 ドライマンは自らの盗聴記録を調べ、HGWとのコード・ネームを持つ担当者が、全ての会話と試みを知りながら、敢えてドライマンを見逃していたことを知るのだ。
 ある日、ヴィースラーは、郵便配達をするために、とぼとぼと街を歩いていた。書店の前を通り過ぎると、そこにはドライマンの新作が発表されたことを示す広告があった。
 店に入ったヴィースラーは、本を手に取り、「HGWに捧げる」という献辞を確認し、本を購入する。
 「プレゼント用の本ですか」と聞く店員に「いや、これは私の為の本だ」とヴィースラーが答え、物語は終わる。

 美しい音楽が印象的だが、何よりも興味深いのはヴィースラーの心変わりである。善きシュタージであったヴィースラーは、善きシュタージであることを止め、善き人となることを望む。


「善き人」と「善き国民」


 私はここにアリストテレスが『政治学』で指摘した「善き人」と「善き国民」との区別を思い出す。
 アリストテレスはいう。

「善き国民の徳と善き人間の徳とは、無条件に同一ではない」(『政治学』岩波文庫、130頁)

 何故だろうか。
 「国民の徳」とは、共同体を守るためになされる仕事と関連している。
航海する際に、船員たちは、それぞれが異なる仕事をしている。船長もいれば、漕ぎ手、あるいは見張りもいるだろう。だが、彼らには共通する目的がある。それは船を航行させ、目的地に辿り着くことだ。国民もまた、それぞれが異なる仕事をしているが、究極的には、その共同体の安全を守ることが目的となる。従って、国家を守ることこそが国民の徳である。
それに対して、善き人間の徳とは、それ自身で完結した徳であり、国家とは関わりを持たない。従って、両者は区別されるべきだというわけだ。
 ここから先はアリストテレスは述べていないのだが、より思考を深めてみよう。
 「善き国民」であることは、時に「悪しき人間」とならざるを得ないかもしれない。何故ならば、国家には「善き国家」もあれば、「悪しき国家」もあるからだ。善悪は相対的な問題であり、「善き国家」、「悪しき国家」などという区分は、表層的に過ぎるという批判もあるだろう。
 確かに、「善き国家」について定義することは難しい。だが、「悪しき国家」が存在しないと断言することは出来るだろうか。国民の自由を蹂躙し、独裁体制下で全ての国民を従属させたナチス・ドイツ、ソ連、そして東ドイツなどは、「悪しき国家」と区分されるべきではなかろうか。少なくとも私は、自国民を為政者が意のままに弾圧する国家と、国民の自由が守られる国家とは区別させるべきだと考える。
 そうした「悪しき国家」において、「善き国民」であろうとする場合、すなわち、その国家の安全のために尽くそうとする場合、それは、時として「悪しき人」とならざるを得ない。東ドイツに忠誠を誓うシュタージのヴィースラーは、確かに東ドイツにおける「善き国民」の一人であった。だが、それは個人の会話を盗聴し、自由を抑圧する行為であり、決して「善き人」の行為ではなかった。
 ソナタを聴き、心動かされていくヴィースラーは徐々に「善き国民」から「善き人」へと変わっていくのだ。
 この作品に救いがあるのは、「悪しき国家」が崩壊し、真実が明らかにされるからだ。「悪しき国家」が存続しつづければ、善き人ヴィースラーの行為は忘れ去られ、善き人を目指す幾多のヴィースラーが当局によって葬り去られていったことだろう。
 国民の一人一人と政治とは関わりがない。 そんなことをいえるのは、地球上でごく限られた人々だけだ。多くの国々では、「善き人」と「善き国民」のジレンマが今日も続いている。
 「善き人」を目指す人々が「悪しき国民」にならぬような、「善き国家」を目指し続けるのが「政治」の責務なのである。


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