古代史探求レポート

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メルマガ名
古代史探求レポート
発行周期
ほぼ 週刊
最終発行日
2018年01月23日
 
発行部数
595部
メルマガID
0001587982
形式
PC・携帯向け/テキスト形式
カテゴリ
ニュース・情報源 > 一般ニュース > 文化・芸能

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古代史探求レポート 2018年1月24日号
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私は、かねがね日本書紀に記されている記述内容には大きな疑問を感じているのですが、その中でも、私にはどうしても納得ができない時代の流れが書き込まれていることが不思議でなりませんでした。そこで、その内容を何回かに分けて紹介させていただき、私の考えを発表させていただければと思います。
初回は推古天皇です。6世紀の終わりから7世紀にかけて活躍した天皇です。何よりも、日本で最初の女性の天皇になった人です。蘇我馬子大臣と、摂政であった聖徳太子こと厩戸皇子と共にトロイカ政権を組み上げ、十七条憲法、冠位十二階、遣隋使の派遣を始め数々の新しい施策を実施しました。
お父さんは欽明天皇、兄弟には敏達天皇、用明天皇、崇峻天皇がいます。まさに、なるべくして天皇になったような家柄の人物です。執務を取るために新しく作った小墾田宮(おはりだのみや)には、朝庭と呼ばれる役所が取り巻く場があり、また、大殿と呼ばれる太極殿の元になった建物が存在します。つまり、この推古天皇から、日本は一足飛びに近代化へと向かっていったように見受けられます。真の改革を実行した天皇といても過言ではないと思います。
推古天皇が即位したのは593年で、推古天皇が39歳の時でした。そこから36年間の間天皇位についていたことになっています。天皇位は、敏達、用明、崇峻、推古、舒明の順におくられてきましたが、敏達が34歳で即位し14年間、用明の年齢は定かではありませんが2年間の在位、崇峻が34歳で即位し5年間の在位期間でした。推古の後の舒明天皇が36歳で即位し13年間在位しています。
病気で死んだ用明とクーデターにより殺害された崇峻の在位期間は短いですが、推古天皇は36年間もの非常に長い期間在位し続けました。継体天皇以降、在位年数が30年を超えた天皇は、明治天皇、昭和天皇を含めてもわずか9名しかいません。即位年齢に違和感はありませんが、在位期間は本当にそうであったのか首を傾げたくなるのです。
そもそも、推古天皇という名前にしても非常に不思議な名前です。前後の天皇は、非常に良い字が並ぶ人々であるのに対して、推古とはそのままの意味で捉えると、「古を推し量る」という意味の言葉です。釈日本紀によれば、神武天皇から元正天皇までの天皇名である漢風諡号は、淡海三船が一括撰進したことになっています。淡海三船は文学博士であって、大学頭。当時の最高の学識者ということであったのだと思います。懐風藻や続日本紀の編纂にも関わっていたとされています。
日本書紀が発表された直後ぐらいに生を受けた知識の塊の人物が、孝、仁、安、寧、明、正などの良字を使わない天皇名をつけた一人が推古天皇です。同じく、彼が名付けた44人の中で、良字が使われていない天皇はどのような人々なのでしょうか。
まず、仲哀天皇がいます。神功皇后の夫です。新羅を攻撃せよという天命に逆らったことで死んでしまいます。履中天皇の名も決して良い字とは言えないと思います。履は、履物、つまり、靴のことです。靴の中とはどういうことなのでしょうか。履中天皇は、仁徳天皇の崩御の後、住吉仲皇子との皇位争いの中、命を狙われ追い詰められますが弟に仲皇子を討たせ天皇位に着きました。仲皇子を踏み付けて天皇になったという意味で、履中とつけられているのでしょうか。不思議な意味深い名前なのです。
そして、継体天皇です。ご存知のように、途切れてしまおうとした大王の血筋をつないだ天皇です。「体制を継ぐ」とは、そのままの意味をつけているのだとわかります。他にも、天皇名の中には多くの意味が込められています。神の字の入った3人の天皇である、神武、崇神、応神は、それぞれ新しい王朝を開いた人物と思われます。このように、淡海三船は天皇名の中に自分の知りえた各天皇の本当の姿を入れ込んで名付けて行きました。では、推古とはどういうことなのでしょうか。
推は、推進の推でもあります。推し進めるという意味で使われているのでしょうか。推古天皇の時代には、様々な改革を実施しましたから、古き時代から新しい時代へ押し進めるという意味があったのかもしれません。でも、そうであるなら推古ではなく推新天皇であるべきです。推戴の推で、いただくという意味ではどうでしょうか。古代の風習を重んじた施策を打っていたならばそういう意味も考えられたのかもしれませんが、該当するような事績はありません。
では、推察の推、やはりこれしかないようです。淡海三船は、私達に「過ぎ去った昔を推察しろ」と命題を残しているのではないかと思うのです。私には、彼もまた日本書紀を読むにつけ、そんなことが起こりうるのだろうかと考えてのではないでしょうか。
では、何がおかしいのかを整理してみたいと思います。
欽明天皇が亡くなったのち、皇后であった石姫皇女との子供である敏達天皇が即位します。これは、非常に普通のことです。敏達天皇にはお兄さんがいましたが、欽明天皇在命中に死亡していますから、敏達の即位になんら不思議はありません。その敏達天皇が亡くなります。ここから、皇位継承争いが醜くなっていくのです。
日本書紀によると、欽明天皇の子供であり、蘇我小姉君を母とする穴穂部皇子は、敏達天皇が亡くなった時、皇位を継ぎたいと願い敏達天皇の皇后であった額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)を犯そうとします。そしてそれを阻止したのが三輪逆(みわのさかう)でした。しかし、三輪逆は穴穂部皇子の命令により物部守屋に殺されてしまいます。穴穂部皇子は皇位の継承を望みますが、蘇我稲目の娘で欽明天皇の妃であった堅塩媛(きたしひめ)の長男の用明天皇が即位します。
敏達天皇の時は、蘇我馬子よりも物部守屋が力を持っていました。物部守屋の進言を受け、敏達天皇は蘇我氏の進める仏教も否定していましたが、用明天皇は仏教を支持することを明確にし蘇我氏の意見を取り入れました。この時点で、蘇我馬子の力は物部守屋に並びます。しかし、用明天皇は、わずか2年で病で亡くなります。疱瘡であったようです。ここで、皇位継承争いは混沌としてきます。
皇位を望み、かつ、物部守屋の後ろ盾を得ていたのは穴穂部皇子です。用明天皇の皇后であった穴穂部間人皇女は、穴穂部皇子のお姉さんです。穴穂部皇子も欽明天皇の子供ですから、敏達、用明ときたら、次は自分だと当然考えます。方や、蘇我氏は穴穂部皇子の弟である泊瀬部皇子を担ぎます。どう考えても、穴穂部皇子より分が悪い。
そこで、取られた手段とは、蘇我馬子は敏達天皇の皇后であった「額田部皇女の詔を受けて」穴穂部皇子を殺害するとともに、物部守屋も討ち、自分の意思の通りの泊瀬部皇子、すなわち崇峻天皇を立てることに成功したのです。
私には、まず、この時の蘇我馬子がなぜ、額田部皇女の詔を受けて穴穂部皇子を殺害することを正当化できたのかが、全く理解できないのです。直前に亡くなったのは、用明天皇です。用明天皇の皇后であったのは穴穂部間人皇女です。穴穂部間人皇女の詔を受けてというなら、まだ理解できます。それが額田部皇女の詔です。一つ前の皇后の詔は皇后の弟であり、皇位継承権を持つ親王を殺害することが許されるだけの効力を持つものなのでしょうか。同時に宣化天皇の子供である宅部皇子も殺害します。
当時の蘇我馬子にとってみれば、自分の意のままに動く泊瀬部皇子の方が魅力があったのでしょうが、私にはだからと言って、額田部皇女がそれほど力があったとは思えないのです。額田部皇女は、先の皇后であった広姫が亡くなってから皇后の地位につきました。妃になったのは早かったですが、皇后であった期間は9年間でした。
日本書紀によると「姿色端麗 進止軌制」とあり、美しさのみでなく、非常に隙がない賢女であるように記載されています。しかし、だからと言って、他の蘇我系の女性達と大きな違いがあったとも思えません。ただ、蘇我馬子とは非常に仲がよかったのかもしれません。同じ皇后の格式を持っていたとしても、同じ場所で育った弟を殺された穴穂部間人皇女にとってみれば、蘇我馬子とは親しくはなれなかったのかもしれないのです。
欽明天皇は、継体天皇で途絶えかけた血筋を元の天皇家の血筋に戻した天皇です。それだけに、彼の子供達が次々と天皇になることは仕方がないことであったのかもしれません。しかし、世代交代をしようとする機運はなかったのでしょうか。自分の子供に継がせたいという思いを持った天皇は存在しなかったのでしょうか。
敏達天皇には、押坂彦人大兄皇子という息子がいました。彼が4歳の時にお母さんがなくなり、その後に皇后となったのが額田部皇女で、二人の間には竹田皇子という子供もいました。正直、この時点で押坂彦人大兄皇子は非常に可能性が小さくなっていたことも事実だと思います。竹田皇子の年齢ということもあったのかもしれません。
用明天皇の子供は、厩戸皇子、すなわち聖徳太子です。用明天皇が崩御されたのが587年です。厩戸皇子は574年生まれですから、当時は13歳。やはり、少し若すぎるのです。皇位を継承するには至らなかった理由はよく理解できます。
この為、皇位は崇峻天皇に移りました。しかし、蘇我馬子にとっては、厩戸皇子は可愛かったのだと思います。それは、天下分け目の決戦であった物部守屋との対戦でも、当時子供であった厩戸皇子は、馬子側で四天王を彫って祈願しながら戦ったからです。崇峻天皇も同じく参戦していますが、彼は34歳でした。
天皇にはなったものの、それ以降の崇峻天皇の行いは蘇我馬子にとって、納得のいくものではなかったようです。飛鳥寺は作ったものの、馬子の進言にはなかなか従わなかったのかもしれません。
5年が経った時、馬子は東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)を使って崇峻天皇を殺害したことになっています。にもかかわらず、この時、大きな騒ぎにはならなかったように日本書紀は記述します。それはなぜだったのでしょうか。
蘇我馬子にいかに権力があろうと、独断で大王を暗殺したとするなら、世は大騒ぎになりますし、必ず罰せられなければなりません。馬子が大王であるなら話は別ですが、蘇我馬子は大王ではありません。物部守屋を討った時、馬子側には、泊瀬部皇子、竹田皇子、厩戸皇子、紀氏、巨勢氏、膳氏、大伴氏、阿倍氏らがいたのです。彼等は、蘇我側につきましたが、蘇我氏の臣下ではありません。これほどの人々が、大王政権を支えているわけですから、大王を殺害して何もないということは、ありえないのです。
では、何が起こったのでしょうか。私は、大王家内部でのクーデターだったのだと思います。皇位継承権を持つものが、大王の地位につくために崇峻天皇を殺害したのです。それ以外には全く考えられません。大王家内の内輪揉めであったからこそ、誰も騒ぎ立てなかったのです。
では、クーデターの首謀者は誰であったのでしょうか。クーデター後の政権がそれを物語っています。日本書紀では、大王の位を継いだのは額田部皇女こと推古天皇でした。そして、それを支えたのが蘇我馬子と厩戸皇子でした。私は、当時の状況を冷静に考えるなら、クーデターの首謀者は自明であると思うのです。(続)
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<<編集後記>>
東京は大雪になりました。本当に雪に弱い町です。でもそのおかげて、ゆっくりこのレポートを記載することができました。
大雪の次の朝は、学校は全て休みになったようです。冷たい空気と静寂の中雪道を歩くのも、なかなか良いものです。

<発行者> 株式会社歴史探求社
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