古代史探求レポート

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メルマガ名
古代史探求レポート
発行周期
ほぼ 週刊
最終発行日
2018年07月17日
 
発行部数
600部
メルマガID
0001587982
形式
PC・携帯向け/テキスト形式
カテゴリ
ニュース・情報源 > 一般ニュース > 文化・芸能

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古代史探求レポート 2018年7月18日号
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残念ながら、日本書紀、古事記には嘘が多い。正史として編纂された日本書紀の中に不実の記載が多いのは本当に残念なことですが、それは、理想とする日本のあり方を示そうとしたからに他ならないでしょうし、何と言っても、持統天皇の即位を正当化する必要があったことと、中臣鎌足に始まる藤原氏の権威を高めることが主たる目的であったと考えられます。
私は、この古代史探求レポートでも、何度か持統天皇を正当化するための歪められた日本書紀の記述についてお話しさせていただきました。そんな中で、どうしてそうしたのだろうと不思議な扱いの人々がいます。今回は、その人々について少し考えてみたいと思います。
まず、第一の不思議は神功皇后です。日本書紀の中で一巻を割いて記述されており、その扱いは歴代の天皇と同じです。
日本書紀の記述は、仲哀天皇が亡くなった後「冬十月二日、群臣は皇后を尊敬し皇太后としました。この歳は、太歲辛巳(かのとのみ)で在り、則ち「摂政元年」としました。」と在ります。天皇でない、神功皇后に対して、その治世の何年という言い方をして表しているのです。そして、この治世は69年間も続くのです。
摂政元年の直後、2年には仲哀天皇を河内の長野陵に葬ります。そして、三年、誉田別皇子を皇太子にたて、磐余に都を置いて、若桜宮と呼んだと記載されています。皇太子という制度がない時代に、皇太子になったとされる誉田別皇子は、わずか5歳で皇太子になり、そのまま神功皇后がなくなるまで即位はしなかったことから、応神天皇として即位したのが71歳の時、そして、111歳で崩御したことになっています。
現実的に考えて、あり得ない皇位の継承であるとともに、存在し得ない年齢でもあります。このような記述をすることが、後々不信を招くことは編者達にとっても明白でしたが、それでも敢えてこの筋書きを貫き通したのです。このことから、いまでは神功皇后そのものが存在していなかったというのが、一般的な認識となってしまいました。
そこまで疑われるのであれば、何も摂政という、これまた当時存在し得ない役職者として扱うのではなく、天皇として存在させればよかったのではないかと思いますが、神功皇后はあくまで皇太后であって、天皇ではなかったのです。ただし、この時代にはまだ、天皇という言葉もありません。存在していたのは王であり、大王です。神功皇后が大王で良いと思うのですが、敢えて69年間もの、天皇の不在期間を作ったのはなぜだったのでしょうか。
神功皇后の存在は、巫女的な要素が強いことも確かです。日本書紀は、仲哀天皇が亡くなったのは、住吉大神の神託を聞かなかったからという筋書きになっています。朝鮮半島を攻めろという神の言葉に耳を貸さず、熊襲を攻めて死んでしまいます。神功皇后は、神の言いつけを守り、お腹に子供を抱えながら産まれないように石を抱いて朝鮮半島に攻め込みました。三韓征伐を達成した神功皇后は、日本に戻り誉田別皇子こと、後の応神天皇を生むのです。
神の声が聞ける巫女であったからこそ、彼女が天下を治めることができたのです。日本書紀の編者は、彼女を魏志倭人伝に記載してされている卑弥呼として扱おうとしました。文中には魏志倭人伝からの抜粋を載せて神功皇后こそが卑弥呼であるとしたかったようです。だからこそ、彼女は老齢になるまで摂政であり続けねばならず、また、神の声が聞ける人物でなければならなかったのです。
神功皇后は、気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)として日本書紀に記載されています。つまり、息長氏一族の娘です。お父さんは息長宿禰王であり、4代遡ると開化天皇に行き着きます。開化天皇自体欠史八代の天皇の一人ですから、実在したかどうかはわかりません。しかし、開化天皇から別れた血筋だとされているところから、古くから天皇家に近い家柄であったのであろうと理解することができます。
お母さんは、葛城高顙媛(かずらきのたかぬかひめ)です。天之日矛の子孫だとされますが葛城一族の姫でした。母型もまた、天皇家に近い古くからの家柄です。最有力豪族であったと言っても良いかもしれません。非常に素晴らしい血筋であり、葛城と息長の一族であるということが大きな意味を持っていたのだと思います。
神功皇后の存在の中で一番大切なことはなんだったのでしょうか。事績としては三韓征伐がもっとも大きい内容ですが、これはあくまでつけ足しであったような気がします。やはり重要なのは、誉田別皇子の存在であり、胎内天皇と言われたように、生まれる時から天皇になることを約束されている人物を作ることができるという実績を残すことが最も大切なことであったのではないかと思います。
持統天皇は、どうしても自分の子供の草壁皇子に行為を譲りたかった。だから、草壁皇子は応神天皇と同じ、胎内天皇であったのです。しかし、草壁皇子が夭折し天皇になれないと知ると、何としても草壁皇子の子供に皇位を継承させようと尽力し、自分がその間皇位を繋ぎ、それを実現しました。
その布石が、神功皇后の存在であり、誉田別皇子のような天皇を約束された子供の存在なのです。そのためには、神功皇后のように皇后としても、夫の天皇がなくなった後を受けて、神の声に従って大業を成し遂げなければならなかったのです。持統天皇が、藤原京を完成させ、天武のやり残した新しい世を作ることに尽力したように、神功皇后にもそうであってもらう必要があったということなのです。
神功皇后と持統天皇の一番の違いは、その血筋にありました。持統天皇のお母さんは、蘇我遠智娘(そがのおちのいらつめ)であり、天皇家に近い名門蘇我氏の家柄です。そして、何よりもお父さんは、天智天皇です。持統天皇は天皇の娘でした。万世一系の中で、天皇家の血筋が直接繋がらない者が、天皇になるなどあってはならなかったのです。だからこそ、神功皇后は、存在していればきっと当時の大王であったのでしょうが、天皇になることはできなかったのです。
最初の女性の天皇は、推古天皇でした。聖徳太子を皇太子にして、蘇我馬子共々日本が急進的に中国に追いつこうという時代を担った天皇であったとされています。推古天皇のお父さんは、欽明天皇ですし、お母さんは蘇我堅塩姫です。持統天皇と全く同じ境遇として存在し、最初の女帝になった人とされています。推古天皇の場合は、敏達天皇、用明天皇はお兄さんですし、崇峻天皇は弟になります。神功皇后とは異なり、非常に立派な血筋をもつ天皇でした。
但し、以前お話しさせていただきましたように、推古天皇は創作された天皇であり、私は実在していなかったと考えています。実在したとしても、それは、聖徳太子と山背大兄王が皇位につき、その後のクーデターで山背大兄王が廃された後、一時的に王位に着いた可能性はあると思います。しかし、その可能性は大いに少なく、山背大兄王の後は、やはり舒明天皇であったものと思われます。
その後、2番目に大王となった女帝は、皇極天皇でした。皇極天皇の時、乙巳の変が起こり、皇極天皇は一時皇位を離れ孝徳天皇が皇位を継承しましたが、彼は難波で孤独死をとげ、その後、再び斉明天皇として重祚した天皇です。日本書紀には、ただ、重祚すると書かれているだけで、その理由は一切記述されません。皇位が、最も軽んじられたような印象を受けますが、そうではなかったものと理解します。
皇極天皇について言うなら、神功皇后とは別に、私にはなぜ天皇であったのか、もしくは、天皇であったことにする必要があったのかがよくわかりません。皇極天皇のお父さんは、茅渟王(ちぬのおおきみ)。この人は、押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ)の子供ですから、敏達天皇の孫にあたります。お母さんは、吉備姫王(きびひめのおおきみ)で欽明天皇の孫に当たります。どちらも皇室の家柄ではありますが、推古天皇のように押しも押される天皇家の直径の血筋であるという訳ではありませんでした。
皇極天皇が皇位を継いだのは、あくまで、ご主人が舒明天皇であったためです。私は、舒明天皇自体がクーデターにより、上宮家(聖徳太子の家)を倒すことで、皇位についた人であったと考えていますので、舒明天皇の後に天皇の位につくというのは、決して良い印象を与えられるものではなかったのではないかと考えられます。
そのせいでしょうか、なぜか皇極天皇が皇位に着いたことになっているのですが、その記述は非常にいい加減なものであるのです。
まず、日本書紀の中に彼女の出自が書かれるのですが、「(舒明天皇)即位2年の時に皇后となりました。即位13年10月に息長足日広額天皇(舒明)は崩御しました。」と記述されます。そして「元年春正月皇后は天皇に即位しました。」と、いとも簡単に記載されています。なぜ、彼女が皇位についたのか、その時、どのような議論があったのかなどは何も書かれていないのです。
誰が推戴したのかもわかりません。また、彼女が一度は辞したなどということも書かれていません。これは、これまでの皇位継承の記述と比較しても、非常に異常なことなのです。なぜ、これほど前に簡単な記述になっているのでしょうか。
斉明天皇として重祚した時も同じです。重祚という歴史上初めての出来事に関してもなんら説明がないのです。「明年正月、皇后即天皇位」たった一言で片付けられています。
日本書紀の筋書きは、蘇我入鹿が山背大兄王を廃して、古人大兄皇子に皇位を継がそうと画策し、単独で山背大兄王を自殺するように追い詰めてしまうのです。このように次々と独断で皇室の一族を殺害していく蘇我入鹿は許されない存在であるとして、それが乙巳の変に繋がり、英雄、中大兄皇子を産むことになるのです。
皇極天皇の時代、天皇の事績というのはほとんどありません。この山背大兄王が殺害された事件は、皇極天皇即位後二年のことでした。この時、日本書紀は非常に不思議なことを記載しています。「十月十二日、蘇我臣入鹿は、独り謀をし、上宮王等を廃し、古人大兄を立てて天皇になそうとした」その後、童謡が書かれており、その意味合いとして「蘇我臣入鹿は上宮の王等の名が天下に広がっていることを深く忌み、一人、秘かに立ち上がることを計画していた。」と解説がつけられています。
どう考えても、おかしいですよね。この時の天皇は上宮ではないですし、上宮を廃しても古人大兄皇子を天皇にすることはできません。天皇は、すでに皇極天皇が皇位を継承していたはずです。
大幅に筋を書き直したことから、混乱と矛盾が日本書紀の中に残ってしまったような場所です。しかし、編者達がそれに気がつかなかったということも考えられません。わかっていて、残したのではないかと考えるのです。なぜなら、日本書紀が作成されるのは、この時点からわずか80年後です。皆の記憶の中に残っていることだけに、敢えて細部まで完璧にして、新たな筋を押し付けようとはしなかったのではないかと考えるのです。
そもそも皇極天皇の即位の時期は「春正月」に即位しているのです。そして、斉明天皇に重祚したのも、同じく「正月」なのです。そんなに都合よく春正月に即位することができることなどあるのでしょうか。日本書紀の歴代天皇の中で、正月に即位しているのは皇極天皇だけなのです。
すなわち、どういうことかと言いますと、皇極天皇(斉明天皇)は、実際に天皇として即位はしていないということなのだと思います。舒明天皇の崩御されたのち、そこは空席であったのか、もしくは、舒明天皇の即位時期がもっと遅く、舒明天皇がなくなり次の後継者選択において、古人大兄皇子を押そうとする蘇我入鹿を殺害し、軽皇子である孝徳天皇が生まれたと考える方が良いのかもしれません。
中大兄皇子の母親である寶女王(たからのひめみこ)は存在しましたが、彼女は天皇ではなかったのだと思います。大規模な公共工事を実施し「狂心(たぶれごころ)のみぞ」と揶揄されたのは、本当に皇極天皇の失政だったのでしょうか。彼女は、先頭に立ち白村江の戦いに臨もうとしたともあります。そして、その途中福岡の朝倉宮で亡くなります。この時、皇極天皇は67歳でした。現代の老人ではありません。平均寿命が35歳ぐらいの時代の67歳です。実際にはそのようなことは、あり得なかったのではないでしょうか。
神功皇后を思わせる、この勇壮な姿は天皇として、また、天智天皇、天武天皇の母として理想とされた姿であったのだと思われます。こうであって欲しいという姿が作り上げられているのだと思います。しかし、実権は中大兄皇子にあり、数々の揶揄された政策も彼のやったことであったのではないでしょうか。
中大兄皇子が天皇になるためには、もしくは、天武天皇が天皇であることの正当性を主張するには、父が天皇であっただけでなく、母も天皇であるという絶対的な血筋が必要だだったということなのだと思うのです。それだけに、母親もまた天皇でなければならなかったということかと理解します。そして、そこまでしなければ認められなかった天智天皇の血筋と資質を、私は疑うのです。
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<<編集後記>>
観測史上初めてという大きな気候変動の真っ只中にいながら、どうして人々は警鐘を鳴らそうとしないのでしょうか。
縄文時代、今から温度が4度程高く、縄文海進が進み東京湾が埼玉あたりまで来ていた時代の気象が、再び到来しようとしているようです。そうなると、東京は壊滅します。もちろん、一度に起こるわけではないでしょうが、徐々に海の中に沈んでいくと思われます。
東北地方が、最も住むのに最適な気候になりますよ。青森県が最も栄える時代が再びやってくるのかもしれません。

<発行者> 株式会社歴史探求社
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