仁平 宏
ID: 0001671624

ベトナム半世紀の歩みと未来~ある現地定住者より~

仁平 宏
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ベトナム半世紀の歩みと未来~ある現地定住者より~

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日本は大きな分岐点に立っている。
それ故、これは日本の次世代を担う若者と女性に問いかけたい。
私は、ホーチミン市(旧、サイゴン市)に定住する孤老である。
初めてのベトナム入りは、ベトナム戦争初期の1962年。
以来、半世紀以上ベトナムに係わってきた。枯葉剤の上も歩いた。
サイゴン陥落時の1975年4月30日午前11時、大統領府に北の戦車
が突入した瞬間に遭遇した唯一の日本人である。
現存するベトナム通の第一人者であろう。
これは私のエンディングノートのつもりである。
なお、地球的体験をしてきた。IBM在職30年。

著者プロフィール

仁平 宏

1943年、茨城県西茨城郡岩瀬生れ。1962年、インドに入る。サイゴンへ。1963年、慶大経済入学。    再度インドに入る。サイゴンへ。1964年、コルカタ大学入学、慶大中退。1965年、慶大商入学、コルカタ大中退。     サイゴンへ。1968年、マーケティング論専攻。  1970年、慶大商卒業、日本IBM入社。  IBM A/P HQ(極東司令部)に抜擢。1971年、IBM南ベトナムへ。1975年、5月4日、米大使館から米第7艦隊へ脱出。1994年、IBM-Vietnam設立サポート。1999年、IBM勇退。2001年、大和コンピューター入社。2003年、SW CMM 3を達成(中小企業で初)。    2006年、サイゴンに同社100%子会社設立、運営。2013年、同社退職、翌月よりサイゴンに定住。

青春時代はジクザク行進を重ねてきた。私がサイゴン市に初めて入ったのは1962年(昭和37年)、ヒッピーであった。1971年(昭和46年)に、4度目のサイゴン入りはIBM社員であった。恋人の仏系越人をサイゴン陥落時の米軍基地でVCに殺されている。私がここに留まるのは、私の青春時代と同じく、若者に溢れ活気ある世界がここに存在するからだ。残生を第二の故郷であるサイゴンで閉じるつもりだ。現在、サイゴン早慶大学連合会会長。慶応大学には通算7年在籍、27歳で卒業。通常より5年遅れた。40歳で、18歳下の日本人妻と結婚(初婚)。3人娘(既婚)が日本在。平将門の末裔を自認している反逆児であり、憂国の自恃がある。

サンプル号
● サイゴン陥落の日と私
今、私はサイゴンの旧市街のとある路頭でカ・フェを飲みながら、バイクと車でひしめく
雑沓を傍観している。交通ルールなどはない、我先とばかり先を争うのは生存競争に勝つ
ための小競り合いである。多少の接触は気にも留めない。

あの頃からもう半世紀近くが経つ、ベトナム戦争の真っ只中とは言え、サイゴンの街は自転車
とシクロがゆったりと走り、家並みは平屋が並んでいた。長閑で牧歌的でさえあった点描が脳裏
に過ぎるのである。
日本に在って想像していた様な市街戦などは一度もなく、戦車すら見たこともなかったので、
気抜けしていた。
戦場は遠く離れた農村地帯であった。

想えば、時は1975年4月30日午前中であった。
突如、サイゴン市中心部にある大統領官邸前のレ・ユアン大通りをこちらに向かってくる戦車数台
とトラックが現れたのである。私は官邸付近を歩いていたが、戦車は距離にして100m遠方にあり、
危険は感じなかった。ただ私のいる方に向かって急速に近づいてきた。
しかし、銃撃の音もない。南部政府の戦車であろうと思ったが、近づく戦闘員の服は間違いなく
北の解放軍のものであり、なびく旗で識別できた。
この時、私は驚愕し、思わず懐の小型ピストルを握り締めた。立ち止まって睨むうちに戦車は私の
眼前数メートルをそのまま滑走し、先頭の1台が官邸の鉄柵の門に突進した。ドカンと大きな音が
した。
だが、戦車はこれを突破できず止まった。と同時に戦車の砲口は官邸に向かって動いた。
続いて、2台目が正門鉄柵をぶち破り、これを踏み倒して突破した。
その時、停止した1台目の戦車から一人の将兵が飛び降り、数十メートル先の官邸正面入り口へと
疾走し、消えるように官邸内に入った。
耳を澄ましていたが官邸内からは銃声は聞こえなかった。数十秒は経っただろうか、その将兵が
官邸の屋上に忽然と姿を現し、北解放軍の旗を振り、それを掲げた。
あの将兵が何かを腕に抱えていたのは、あの旗だということが、この時、判った。

この瞬間こそが決定的な南部政府の降伏を活写していた。まさに驚天動地の一瞬であり、
電光石火の突撃ドラマであった。この間隙にも、大統領官邸付近から反撃の銃声は一発もなかった。

この一瞬の歴史的事件に遭遇した日本人はおそらく私一人であったろう。狂騒の渦の中を見渡した
が日本人らしき姿はなかった。ただ、仏人らしい女性が、しきりにシャッターを切っていたことは
憶えている。

この日は確か水曜日と記憶しているが、私は大統領官邸近くのカラベル・ホテルに宿泊していた。
ベトナム人同僚とアポがあり、官邸前のアレキサンダー・デ・ローズ通りのカ・フェ店まで泳ぐ
ように歩いていた。歩道が雨で濡れていたことを憶えている。
因みに、小型ピストルは一般日本人には驚かれるが、私はIBM-USの駐在員であり、
対テロ護身用の一つで、オフィスでの携帯は許されていた。米軍基地での私は将校待遇だったので、
銃の扱い方はGI(米軍人)から教わった。懐中の小型ピストルは路傍で購入した廉価なものである。

 1970年代初頭、IBMは100ヶ国以上の国々に置かれ、私は東京に置かれたIBM極東司令部
APHQ(IBM Asia-Pacific Headquarters)に配属されていた。
場所は九段の靖国神社前のトヨタ・ビル内にあった。この部署は、日本、東南アジア、豪、NZの
地域を統括する司令部であり、約50人の様々な国籍のスタッフがおり、日本人は20名弱程いた。
ある意味では、私は日本IBMから選抜されたエリートであった。
個室が与えられ、トイレにまでカーペットが敷かれていた。
ここは司令部であり、20代の若輩が日本IBMの役員にも直接指示ができた。
外資系では年齢は関係ない、そのポジション次第である。

当時、ベトナム国は共産圏の北部(ベトナム民主共和国)と資本主義陣営の南部(ベトナム共和国)
が北緯17度線で対立していた。
IBMは南部のサイゴン市にSouth-Vietnam IBM(南ベトナムIBM)を置いていた。
私は上司(米人)を何度も説得してのサイゴン入りであった。1971年10 月、出国を前にして、
社内ではキチガイ呼ばわりされたが、私は一笑に伏した。

サイゴンのIBMでは日本人は私一人であり、現地ベトナム人は30名程いた。トップ層はホワイト
(白人)で占められていた。
私は市中心部にあったカラベル、グランド、マジェスティック、コンチネンタル等の各ホテルを数ヶ月
単位で移動しながら宿泊していた。
危険が予想されるときは、米軍ジープがオフィスまで先導してくれた。またオフィスもテロを避け、
時々移転した。
任務は南部政府内の6つの米軍基地に設置されたコンピュータの運営、管理であった。IBMは
US-AID制度の下で、最新鋭の大型機を南部政府の国防省に納入していた。
これこそベトナム戦争が史上初めてのコンピュータ戦争と称される所以である。

● 私のサイゴン定住
ホワイトはイエロー(異教徒)を隷従させる。これは私がサイゴン陥落から生還した(米大使館屋上
からヘリで第7艦隊へ脱出)帰結である。この時、私は負傷していたが、IBMのIDカードが鑑札となり
救われた。
上層部のホワイトは数か月前に、香港やUS本社へ退避していた。
残された我々イエローはIBM US本部からの命令で、コンピュータの監視・保持のため、
‘stand-by for the time being(当分の間待て)!’ であった。この非情な命令だけはまだ忘れられない。
この間、数名のベトナム人社員は既に逃げ去っていた。
しかし、私は陥落後3日目、同僚(恋人も)を各米軍基地に残したまま、国外脱出した・・・、
逃亡である。これ以上はここでは語れない。

こうした慙愧に堪えない過去(弔いを含め)があり、5年前よりサイゴンを私の終焉の地と決め、
独居している。なお、妻は既に日本にて他界し、子供たちは巣立っている。
私は70歳を越えた年金生活者であるが、生活には不自由していない。生涯現役が私のイズムなので、
事務所を置き、サイゴン早慶連合会会長、不動産三田会サイゴン支部長を務めている。
また、私は内外に約千名の仲間がおり、これも活動源の一つとなっている。

私は卒業以来、主にICT業界にいたが、ブログも持たない一介の無名者である。この有料ブログに
一挙に飛び込んだが、これは私がこの地で松下村塾的な生活村を始動し、日本から意欲ある人たちを
呼びたいからである。
そして、ここでベトナム人たちとの自給自足の生活の中から、未来に向けて飛翔させたい、という
夢がある。この資金の一部の予定でいる。また、私は日本の農業のJ-GAP指導員の資格を有している。
序ながら、隣りのカンボジアは人口1,500万、ラオスは僅か500万である。

● ベトナム特需と日本の高度成長期
 まず、下記の言葉を恫喝的に述べたい、
‘日本の高度経済成長は15年間に及ぶべトナム特需のお蔭である!’

日本の知識層、メディア関係者が日本の高度経済成長とべトナム戦争との関連を明確に論及せず
(できず)、日本人の勤勉かつ真面目な資質を高度経済成長の達成理由として、企業戦士礼賛論に耽る。
これはもう常套句に近い。

銃弾、銃器、ナパーム弾、クラスター爆弾、毒ガス、戦車のキャタピラー、車体等の製造、船舶修理、
燃料補給、医薬品(含、スキン)、軍服、死体袋に至るまであらゆる戦争兵器・補給物資等々に関する特注が
15年間も続いた。帰休兵の観光業も同様であった。
そして、経済第一主義を掲げる政府、メディアは国益優先のため隠ぺいを続けた。
これで財閥も日本経済も完全に復活できた。日本の奇跡と言われたが、その名には全く値しない。

Nong qua! Nong qua! (熱いよ! 熱いよ!) とナパーム弾に焼かれて道路を逃げる9歳の裸の少女
キム・フックの写真 ('73ピューリッツア賞) を覚えている人も多いと思う。ナパームは1,200度で長時間
燃え続ける油脂性焼夷弾である。
このナパーム弾の92% は日本製である。日本の化学メーカーもこれで立ち直った。

更に、瞠目すべき衝撃事実を挙げよう。
米軍による恐るべきAO(Agent Orange、枯葉剤)散布に関し、‘日本は関知していない’、と日本人の誰もが
そう認識している。
が、その原料を日本の化学メーカーが製造していた。国会の質疑でもあったが、国益優先のため握り潰された。
私は製造会社を知るがここでの公表は避ける。

 余談だが、私はベトナム戦争中、米軍基地周辺でAOの上を歩いている。また、私の友人の米軍中尉は、
帰還後に奇形児が産まれ、酒に惑溺、拳銃自殺している。
 
ここで、歴史を紐解いて欲しい、古くは1914年(大正3年)の欧州での第一次世界大戦(約4年間)では、
日英同盟に従い日本も参戦した。船成金の出現は誰でも知る。そして、その後の大不況である。
歴史は繰り返すもので、15年間のべトナム戦争中の高度成長とその後のバブル崩壊、第一次世界大戦時と
同じ道を辿った。共通項は漁夫の利である。

日本のある大手シンク・タンクのメディア情報に対する信頼度調査では、日本73%、英13%、米23%、
独29%、仏38%である。
葵の印籠にも似た上意下達的制度に従順な江戸時代の精神風土は今日のグローバルな時代に於いても
消えていない。そうして、日本だけは安心・安全な国だと思い込んでいる、夜郎自大的な民族である。
日本に在っては日本のことは絶対判らない。

● ベトナム戦争とケネディ大統領、そして日本
ところで、日本人には不可解だが、米国では半数以上の人々が、地上の生物は創造主が創ったものとして
信じて疑わない。したがって、聖書のアダムとイヴやノアの箱舟などを真実の事象として信仰している。
宗教心とはそういうものだ。なお、米人の進化論者は3分の1以下である。

このような宗教国の異教徒(プロテスタント)から日本は憲法まで宣下され、今日まで70年間も
神の教理の如く護持してきている。これは隷属主義であり、独立国とは言えない。
ふと振り向けば、この日本国憲法が世界最古の憲法となっているのだ。
私は憲法の内容云々ではなく、その経緯を問うのである。
戦後、ドイツは59回も憲法を改正し、イタリアは16回、フランスは27回も改正している。
本家の米国は6回(修正)である。

さて、米という宗教国(支配階級)は、異教徒(イエロー)だけには戦争に敗けたくなかった。
アイゼンハワー大統領(ニクソン副大統領の発議)は1954年仏越のディエンビンフーの戦いの最中、
仏を支援し、原爆投下を提示した。が、仏に拒絶されている(山岳地帯のため、効果なし)。
べトナム戦争中でも、米は核攻撃や原爆を視野に入れていた。しかし、仮に使用すれば、
べトナムはソ連に援助を仰ぐ、とすれば第3次世界大戦となる。これが抑止作用となった。

 ここで、私は歴代米大統領中、35代のケネディ(赤毛のアイリッシュ)に最も嫌悪感を感じている、
憎悪に近いものだ。理由を次に説明しよう。
ケネディ政権が2年10ヶ月の短期間に、べトナム戦争への介入を決定し、ナパーム弾、クラスター爆弾、
さらには枯葉剤散布の ‘すべての殺人兵器’ をこのケネディが発令したからである。殺人狂に近い。

それでは、ケネディ(家)の仮面の内側を覗いてみよう。
アイリッシュでカトリック教徒(初めての大統領)であるケネディは、父親(密造酒で資産)譲りの異常な
女狂いであった。
ホワイトハウス内のジャクリーンの寝室を使用していたというから夫婦喧嘩は絶えない。
マリリン・モンローとの情事も事実で、ケネディの誕生日にハッピーバースディを歌った縁からである。
暗殺された弟のロバートもモンローと関係を持っていた。
他に女優のアンジェ・ディクソン、バスト106cmのジェーン・マンスフィールド、同じアイルランド系の
伝説の美女グレース・ケリー(モナコ公妃)、当時60歳は超えていた有名なマレーネ・ディートリッヒ、
マフィアのボスの囲い女でフランク・シナトラとも愛人関係にあったジュディス・キャンベル(シナトラから
の献上)、女性司祭のザザ・ガーバー、大学2年生のホワイトハウス実習生ミミ・アルフォード、各大使夫人
等々と枚挙にいとまがない。

夫婦共にアイリッシュのカトリックであったため、離婚は許されなかった。
ベトナム戦争への介入、枯葉剤散布の発令もこのような女狂いの渦中から布告した。
また、ケネディの実妹ローズマリーは先天的精神異常者のため施設にて2005年、86歳で他界している。
ケネディ家の遺伝子はこうしたものである。

序でに一言、1963年11月22日、ケネディはダラスでオズワルドに狙撃され暗殺されたとある。
が、私は、真犯人はべトナム人だと臆断している。この世界は魑魅魍魎としたものである。詳細はここでは割愛。

● ベトナムと日本のつながり
 さて、話題を変えよう。まず、日本書紀にも載っている浦島太郎のお伽噺がある。
ご存知のように浦島太郎が亀を助けたお礼に龍宮城で乙姫様に歓待されたが、この龍宮城はべトナムであったいう。
浦島太郎にはアオザイ姿の美女が乙姫様だった。楽しく過ごした3年間が300年間であったというお話である。
なお、べトナムで亀は神聖視され、ハノイのホアンキエム(還剣)湖には今でも250Kg、2mもある巨大な亀が
棲息し、大切に扱われている。

● ベトナムと朱印船貿易
朱印船交易は16C末から僅か30数年間であったが、海を渡った日本人は10数万人、他国に移住した日本人は
約1万人もいた。
秀吉の朱印状は、1592年に長崎、京都、堺の8人の豪商に授けたのが最初である。
その1人が京都の豪商角倉了以であり、400人程も乗船できる角倉船で べトナム等と16回も交易、巨額の富を蓄えた。

特筆すべき人物は、長崎の荒木宗太郎である。彼は徳川幕府より朱印状を受け、シャム、べトナムなどの各地に
朱印船に乗り、貿易商人(外交使節)として活躍した。
資質も素晴らしかったのであろう、べトナム安南国王の阮氏の親族に加えられ、阮姓を授かり阮太良と称し、
阮氏の娘(王女)と結婚した。そして彼女を長崎に連れて帰り、正妻として生涯を共にした。
彼女は、長崎の地元の人々からも親しまれ、幸せな生涯だったという。
彼女が安南国から日本へ持参した鏡には ‘安南国鏡’ の4文字が刻印され、現在も長崎市立博物館に所蔵されている。

ここで、日本人がよく知るホイアンの日本町について述べてみよう。
朱印船貿易に携わる伊勢松阪の廻船問屋、角屋七郎兵衛は、1631年(寛永8年) 22才の時、べトナムに渡った。
彼はホイアンに永住した。彼は商館を構え、松本寺を建て、現存する遠来橋(日本橋)を掛け、
日本町(約500人)の長も務めた。最盛期には1,000人もの日本人がいた。この日本町は中国町と隣接し、
それぞれが統治者を置き、自治権もあった。その意味で日本町は一種の治外法権であり、日本の鎖国後は多くの
日本人キリスト教徒が移住している。

また、8代将軍の吉宗が象2頭を輸入した。この象はベトナムから運ばれた。象使いの2人のベトナム人も
一緒であった。象はオス、メスそれぞれ1頭ずつであったが、メスは長崎に到着後3ヶ月で死亡、
オスだけが吉宗のお膝元の江戸まで延々と運ばれた。途中、京都で天皇に謁見(?)している。
その後、民間払い下げとなり、現在、東京中野区の宝仙寺に ‘馴象之枯骨‘として供養されている。

● ベトナムと明治期の日本人
ところで、明治4年の岩倉使節団の欧米の歴訪は誰もが知る。
その帰路サイゴンに1週間滞在している。岩倉具視の ‘米欧回覧実記’ に詳しく載っているが、
仏統治下のサイゴンの街並み、動植物園(世界一古い)、チョロン(華人街)等の当時の様子がわかる。
べトナム女性が美しいとも述べている。さらに、阿片の売買まで記述している。

明治の後期にはベトナムで東遊(ドンユー)運動が興っている。
先の日越国交樹立40周年記念に際しTVで放映されたので詳細は略するが、
ここでは、直系のラスト・エンペラーたる盟主クオン・デ候について簡単に述べておこう。
盟主クオン・デ候 (阮朝5代目) は帝位継承を辞退し、24才で密航して日本に亡命した。
フエ随一という美貌の妃と2人の子供を残しての脱出であったが、二度と戻ることができず、
1951年、69歳で癌死(日本医大)した。
日本での生活は安藤ちゑのという家政婦がいた。1956年べトナムから息子が遺骨を引き取りに
日本に来た時に彼女は面会している。彼女は遺骨を秘かに分骨し、阿佐ヶ谷(東京都杉並区)に
ひっそりと住んだ。その後、甥の成行がその遺志を継いでいるという。
べトナム国内では、ある集合写真の中でクオン・デ候の隣に安藤ちゑのが写っていたので、
日本女性と結婚したと誤解されてしまった。悲劇的なラスト・エンペラーである。

● ベトナムと日露戦争
日露戦争といえば、司令長官東郷平八郎による日本海海戦での勝利をまず挙げるであろう。
驚くなかれ、この勝利にはべトナムが裏舞台で絡んでいたことを日本人は知らない。
ロシアの敗因はバルチック艦隊の、ベトナムの軍港カムラン湾での無煙炭(ホンゲイ炭)の
補給の失敗にあった。
当時の艦船は蒸気船であり、燃料である石炭の補給が生命線であった。
日本の連合艦隊は日英同盟の下、英ウエールズ産の良質な無煙炭を積載していた。
他方、ロシア側も露仏同盟の下、仏保護領のカムラン湾に寄港して、ベトナムの良質な無煙炭を
積載する予定であった。
が、南シナ海の制海権を有する英は仏政府に圧力をかけ、これを妨害、抗仏のベトナム側が
これに応諾、煤煙と黒煙を発し、スピード低下を起こす低質な石炭を積載させたのである。
これには現地の日本人も暗躍した。
その決果、この黒煙から信濃丸による早期発見に繋がり、ロシア艦隊のスピード低下が日本側の
丁字戦法を成功させ、ロシア艦隊を全滅させることができた。
日本人が蘊蓄を傾けるこの日本海海戦型を ‘自力’ で勝利したという慢心が大艦巨砲主義(国威主義)
を生み、太平洋戦争末期まで引きずってしまった。無知は罪悪である。
 
● ベトナムと ‘神風‘
更に、日本の神国思想に起因した ‘神風’ というコトバがある。
ご存知の通り、神風は文永・弘安の役で台風が発生、蒙古・高麗軍を追い返した蒙古襲来に由来する。
爾後、日本は神風に護られているという‘日本人選民思想’ともいうべき妄言を植樹されてきた。
ところが、べトナムも同じ時期に元に襲われ、‘神風’ が吹き、追い返していたのである。
日本は2回だが、べトナムは3回である。
神風が吹き、猛将チャン・フン・ダオ(サイゴンに銅像あり)の活躍で3回とも蒙古軍を追い返している。
結局、元はべトナムで戦力を殺がれ、3回目の日本来襲が不可能に陥ったのである。
加えて、元にとっては海を隔てた日本よりも陸続きのべトナム侵攻の方が優先度は高かった。

見方を変えれば、べトナムの勝利が日本を救ったと言えよう。
もし日本の歴史学者がこの事実を教科書に一行でも記述していれば、 ‘神風が吹く’ という神国思想の
虚語を弄せなかったはずである。その意味では太平洋戦争は避けられたかも知れない。

● ベトナム人と日本人の愛国心
まずは、ベトナム人の愛国心の発露がいかに峻烈であるかを近年の事例から挙げてみよう。
なお、愛国者たちの名は各地の道路、公園、学校などの名前に付されている。

・1952年1月23日、仏軍によって銃殺された、17才の可憐な乙女がいた。
その彼女の名はボー・ティ・サゥ。‘虎の檻’ の名で悪名高いコン・ダオ島で銃殺された。
私は彼女を最も愛おしく感じ、毎年コン・ダオ島の彼女のお墓に線香を供えに行く、
その度に目が潤む。

彼女は刑場に行く道すがら、歌を口ずさみ、蝶と戯れていた。
銃口を前にして、 ‘目隠しを取って欲しい’ と言う。
最後の言葉はないか、と問われれば、‘自由が欲しい、また仏軍と闘えるから’ と応えた。
彼女のその余りの可憐さに7つの銃口はそのまま3時間も撃てず、最後は指揮官が撃った。
彼女は、歌を口ずさみ、故郷の海の方角を遠望しながら、射殺された。

彼女のお墓がある島内のハンズオン墓地には約2万人の愛国者が眠っている。
そこにはレキマーという花があの頃と同じように美しく咲いており、人々はこの花を
‘サウ’ という名で呼び、偲んでいる。
そして、下記は彼女を偲ぶ唄 ‘英雄女性の恩を忘れない’ の歌詞(日本語訳)である。

花が咲く季節が巡って来た
    私の故郷は赤い大地
    村は女性英雄の名を呼んでいる
    その女性は春のように美しい
    国の独立のため、身を捧げた

こうして唄われながら、サウの名は人々の心の中に刻まれている。
ベトナム人を決して侮ってはならない、こうした愛国心を全ベトナム人が現有する。

・1946年1月1日、僅か10才のレ・バン・タム少年は、自分の生まれた土地への侵入者、
仏兵の前で、ガソリンをかぶり抗議の焼身自殺を図った。愛国の心からである。
小学4年生の少年の一 体どこにこの痛烈な義勇心があるのだろう? 私にはこれを語る資格がない。
少年はこの公園に埋葬されている
なお、大きなレ・バン・タム公園は私の朝のウオーキングの場である。

・1931年4月18日、抗仏活動したとの理由でギロチンの露と消えたリー・トゥ・チョン。
まだ17歳であった。彼の名が残る公園は小さいが元サイゴン中央刑務所の前にあり、
園内には彼の立像がある。
1931年4月青年革命同志会の一員として集会で演説中に仏官憲に逮捕
、サイゴン中央刑務所送りとなった。拷問に終始黙し、ギロチン刑で首を落とされた。

・1941年8月28日、公開処刑された女性共産党員のグエン・ティ・ミン・カイ女史である。
年令は31才。彼女は衆人環視の中、囚人服を脱ぎ棄て上半身裸となり、‘べトナム共産党万歳!’
と不屈の闘争心を示威、絶叫しながら、仏兵に銃殺された。
彼女はホー・チ・ミンの秘書であり、モスクワでレーニン夫人と会談もしている国際派の
リーダーで、惜しい人材であった。
サイゴンのディエン・ビエン・フー通りには彼女の名を付した名門高校があり、
校庭には彼女の胸像がある。

・1964年10月15日、公開処刑された青年グエン・バン・チョイ、24才である。
サイゴンを訪れた米国防長官マクナマラの地雷暗殺を企て、未遂となった。
地獄のような拷問にも最後まで矜持を保ち、毅然として公開処刑された。
残された新妻が書いた本 ‘あの人の生きたように’ は世界的なベストセラーとなる。
彼の名は米国防長官マクナマラ暗殺未遂事件として一挙に海外に知れ渡り、
嫌米の国、べネズエラやキューバでは英雄視された。
キューバのハバナ公園には彼の銅像があり、グアンタナモの球場名にも彼の名が残る。
ベネズエラの収監していた米軍大佐との捕虜交換条件は有名。詳細はここでは略す。

・1963年6月11日、米大使館前でのフエの僧侶ティック・クアン・ドックのガソリン
焼身自殺である。燃え上がる炎の中でも蓮華坐を続け、絶命するまでその姿を崩さなかった。
フエでは17才の尼僧が斧で自分の手足を叩っ切り抗議の自殺をした。
こうした僧侶、尼僧の抗議自殺は頻発した。

さて、べトナムの僧侶、尼僧は厳しい戒律を守って修行し、終生結婚しない。肉食も禁止。
生活は質素で真面目、志操堅固だが行動はする。僧侶は高い学問を身につけ、
民衆に学問を授ける。病気を癒し、貧しい人々を助け、孤児やホームレスの子供も育てており、
人々から尊敬される理由である。
戒名料や法事などで営利はしない。僧侶は日本と同じ大乗仏教徒なのである。

日本の若者の自殺が毎日10人近く発生している世相を私が最も懸念している。
そこで、次に自殺者という視点からベトナムを考察してみる。
べトナムの建国は紀元前三千年頃の雄王によると伝えられており、べトナム人はこの雄王を
共通の祖先としての同胞意識が強い。従って、皆愛国心もプライドも高く、不思議なほど仲がいい、
兄弟の様である。実に、羨ましい。日本社会にある陰湿な‘イジメ’ も ‘僻み’ もない。
然して、べトナムでは自殺とか、孤老死などは聞かない。皆が助け合うからである。
もし、一人でもこうした変事が発生したら国中で大騒ぎになるという。
日本の公園などで見かけるホームレスもベトナムでは見かけない。
日本と同じ大乗仏教徒の民族であるのに、この落差は何故だろう?

● ベトナムのICT業界と日本
 ここで話題を変えよう。20年程前になるが、日本のICT業界が活況を呈していた頃、
ベトナムはまだ勃興期でHW(ハード・ウエア)中心であった。
その頃、METI(経産省)の情振課(商務情報政策局・情報処理振興課)がベトナムを中心に
東南アジアへ日本のICTの情報技術及び制度の導入、啓蒙を起案した。
これは、日本としては国策の一環であり、当時の平沼METI大臣が訪越している。
この時、私はベトナム通の民間代表の一人として参画していた。

ベトナム側のリーダー格が現在のFPT(Financing Promoting & Technology)社CEOである
Mr. Truong Gia Binh(チュオン・ザ・ビン)である。
彼はモスクワ大学で数学と物理学の2つのPh.Dを取得し、帰国後、欧米で‘赤いナポレオン’と
称されていたヴォー・グエン・ザップ将軍(仏越のディエンビエンフーの戦いで勝利)の娘と結婚した。
現在59歳であり、彼の愛読書は武蔵の五輪書である。
なお、Binhは2015年のベトナム長者番付の10位以内にランク入りしている。

今やFPT社はICT分野を中心にコンゴロマリット化し、社員2万人とグローバルに欧米にも
展開している。
当時のFPTは僅か200名程の国営企業であった。社長のBinhは40歳の気鋭のリーダーであった。
ICT分野はベトナム側の国策であり、最高の頭脳を集積していた。
若手ICT経営者たちはロシアを中心とした東欧圏内でPh.Dを取得した俊英たちであった。
彼らは30代後半、ロシア語で会議をするので困惑した経験もあった。
が、当時私はSW(ソフトウエア)の世界的な品質管理法であるCMM(Capability Maturity Model)の
日本の第一人者であったので、その専門用語を駆使、煙に巻いた思い出がある。

その後、METIは、毎年50人程のICT研修生をASEAN各国から選抜し、日本に招聘、
1年間無償で日本語とSW技術を研修する制度を施行した。これは約8年間続き、約400人を
日本で育成した。
印象に残るのは、当時のMETI情振課の課長である。彼の存在でこの日本型ICT制度が
完遂できたと言える。いわゆる前例主義を避け、果敢にチャレンジする人物であった。
Binhと同年代で、共に実行力のある人物であり、絶好のパートナーであった。
残念なことに、彼はキャリアゆえ情振課を2年で移動してしまった。

そして、この日本型の制度に付加を付け、踏襲したのが韓国であり、そのまま韓国に
ベトナムICT業界は先導されたまま現在に至っている。
Binh自身もこの間、停滞する日本から躍進する韓国へと舵を切っていた。
しかし、我々とのかつての友情は変らない。いわゆる戦友の仲である。

 なお、2007年のベトナムのWTO加入、調印式の時に、当時のブッシュ大統領が来越した。
会場でBinhはブッシュと肩を組んでいた。この時、私は末席で眺めていた。

私事になるが、後年、CMMの国際会議がモスクワで開催され、約30ケ国から参集し、
日本代表として私が出席し、べトナムからは、FPT社の当時の仲間が出席した。
続いて、私は世界に先駆けてベトナムでのCMM公式教育を発案した。
SEI(US-NJ州にあるCMM本部)と討議、その許諾を得て、ハノイとサイゴンの両都市で
教育コースを開催した。高額な教育コースのため、METIのODAを活用してベトナム内で
50人のICT技術者を選抜し、無償で教育した。そして彼らの名をこの有資格者として
SEIのデータ・ベースに登録した。これは私が誇る実績である。

● べト僑(越僑)の海外ネットワークと日本
現在、中国は華僑(約5千万人)、インドは印僑(約3千万人)、べトナムはベト(越)僑
(約4百万人)、韓国は韓僑(約7百万人)として今日のグローバル時代の世界各地に根を下し、
経済・文化ネットワークを形成している。
例えば、ベト僑はアメリカだけでも約2百万人おり、べトナム経済発展の牽引力となっている。
過去にボートピープルという国外脱出者の波が発生したとはいえ、世界各地にベトナム人の村、町が
形成されている。
ここで、ボートピープルと簡単に使ったが、80%近くが海賊に殺されたり、海の藻屑となって
死んでいる。然して、生き残った者たちが必死に生き、子供を教育し、異国で這い上がってきたのである。
また、韓僑の7百万人(人口5千万人)という数字は、示唆に富む数字なので、次回にその仔細を述べる。

他方、東南アジアの華僑の3分1を占める客家(ハッカ)は漢人としての族譜を継ぎ、客家語を喋り、
ユダヤ人以上の強固な血族・地縁としての結束力を誇る。
例えば、シンガポールのリー・クアンリュー、フィリピンのアキノ家、タイランドのチナワット家、
インドネシアのスドノ・サリム、台湾の李登輝、中国では朱徳、葉剣英、鄧小平、李鵬、孫文などが、
この客家人である。

東南アジアはベトナムを除くすべての国が華僑圏であり、その網の目を縫うようにして印僑閥が根を
張っている。ところが、日本はと問われると、日(和)僑と呼びたいが、存在しない。
参考までに伝えよう、ベトナム国は、国家の名の下に約40名の俊英を選抜、世界中に配置、育成している。
次世代の愛国の徒を育成している。

● 日本の若者、女性、シニアたちへ
日本人の起業力は世界60位であり、ベトナム人のそれは世界7位、というデータがある。
セカンド・チャンスのない日本は失敗しないために働いて(生きて)いるが、一方のベトナムでは
毎日がチャンスであり、成功するために働いて(生きて)いるからである。
なお、ベトナム語にはセカンド・チャンス(敗者復活)という表現がない。何故だろう?

仮に、日本の大企業に入社しても一人前になるのに20年はかかる、
その会社所属主義の下での給料は我慢料であり、暗黙裡に社畜に去勢され、
やがて50歳で早々に屠殺される。しかし、その肉は硬くて食えない、
要は市場価値がゼロとなるのである。やがて、早期痴呆症である。
日本の企業の99.7%は中小企業である。私が言いたいことは、就 ‘社’ でなく、就 ‘職’ しろということである。
それでも、どうしても入社(正規)したければ、CV(顔写真付)と志望会社名を私個人宛てに送ればアドバイスする。
古くて新しい戦術を伝授しよう。私の秘伝は一般論ではない。
これは私がこれまで後輩の学生約400人を就職させてきた体験から言っている。無論、無料である。

日本という火山列島を日本海溝の海底8,000mから眺めれば、恰もエベレストの頂上の崖っ淵でヨタヨタと
揺れている有様が浮かぶ。誰も明日は読めない。

偶々日本に生まれてきたのである。今までが仮寓地での第二の人生だったと思えばいい、
明日からは第一の生き方を渉猟すべきだ。人生には勝ち敗けという基準はない。
負けは途中で止めるから負けなのである。
畢竟、人生は棺桶前の10年をどう始末したかでその人の価値が決るものだ。

ここサイゴンには地震は全くない。活動の場は早めに抑えておくものだ。
さてどうする?

以上
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ベトナム半世紀の歩みと未来~ある現地定住者より~

仁平 宏
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