国立大学の学部再編で、卒業に教員資格取得を条件としない教育学部の「ゼロ免課程」の廃止が話題となっています。そもそも教員免許は必要な物なのでしょうか。現役教師の松尾英明さんは自身のメルマガで「必要」と言い切ります。
「ゼロ免課程」廃止から思うこと 資格の意味
普通の人ができないことをするのがプロである。
いくつかの職業には、資格・免許がいる。資格・免許が必要な職業は、専門性の高さだけでなく、資格制にしないと色々と不都合が起きるものが多い。
一番わかりやすいのが医療系で、薬剤師でない人に薬を調合されたら危険であることは明らかにわかる。歯科医師免許のない人に歯の治療を頼む勇気のある人もいないだろう。外科に関しては、脳や心臓の手術などいうまでもない。失敗したら、命に関わる。だから、簡単には手に入らない資格制度が設けられている。
建築関係も同様であるが、問題は実働部隊である作業員には資格が必要という訳ではない点。建築に関わる者全員が資格制度になっていれば、今問題になっているようなずさんな事件も起きにくいだろう。しかし、労働力確保の点からそうはいかない。建築士のような指示を出す立場の人の倫理観が低ければ、先のような大問題が起きる(プロとしての倫理観はベースであるが、うまく計測できないところが痛い)。資格を持った集団であればおかしいことに気付く人も多く出るかもしれないが、その日雇いのアルバイトでは気付く術もない。
長々述べたが、要は資格というのは、一種のフィルタである。資格を得る過程でその職業に必要な知識や技術、使命感や倫理感を身に付け、さらに資格試験でプロになり得る人を選別する。司法試験のように超難関試験もあるが、難関だからこそ社会的信用がある。
ところで、国立大学の学部再編が話題である。教員養成系学部において、教職免許状の取得を卒業要件としない「ゼロ免課程」が不要とのこと。色々議論がなされているが、この点については世論も概ね賛成の様子である。要は、教員養成系はきちんと教員養成をしろということである。教育のプロを育てろということである。
ところで、教員にはなぜ資格が「必要」なのだろうか。
先に例に挙げた医療系や建築系と同様、きちんとした理由があるからこそ、制度として設けられているはずである。小学生相手に授業をするには、資格が必要だろうか。クラスの担任としてやっていくには、資格が必要だろうか。学校の様々な実務をこなしていくのに、資格が必要だろうか。
「ゼロ免課程」廃止が話題の今、この辺りを少し考えていきたい。
教員免許について
教員に資格は必要か。
結論、必要である(なぜ必要かは後述する)。しかしながら、現状で今とれる資格が、教員に必要な能力が不足していても、取れてしまっているのが事実である。
原因は、資格が「ほぼ履修型」という点にある。現状として、教員免許が取れる大学に入って、単位をとって卒業試験さえ合格すればとれる免許である。そして、この資格の難関ポイントは、出口の卒業試験ではなく、入口の入学試験の段階である。つまり、試されるのは教員に必要な知識や技能、使命感や倫理観ではなく、大学受験に必要な学力や、面接、論文の力である。教員への適性がなくても、教員免許がとれる大学には入れる。これは、「でもしか教員」と言われた時代から、過去何十年間、ずっと変わらない点である。
もちろん、大学の側としても、教育学部には教育の仕事へ適性のある人を入れたい。だから、入学試験だって、筆記試験だけでなく、実技をさせたりディスカッションをさせたり、色々工夫している。それでも、入学試験だけでは、適性を見誤ることがある。また、大学によっては「受験者数が少なくて、そこまで選べない」という場合がある点も見逃せない。
では「入学させても単位を与えなければいい」というかもしれないが、卒業させる必要がある手前、そうもいかない。単位を与えるのを厳しくしたら、留年生を大量に抱え込むことになり、大学の運営上に大きな支障が出る。しかもこれをした場合、この留年生は、「何かしら問題のある人」である可能性も高く、あまり長く保持したくない。留年させても、また留年する可能性大である。
これは、高校はもちろん、中学校でも小学校でも同様である。どんなに問題があろうが、進級させない訳にはいかない。
一方、各大学の医学部などは、卒業試験等の入った後の試験をかなり厳しくし、ここをきちんとやっているらしい。医学部は、留まるだけでも大金と相当量の勉強が必要であるため、本人も簡単には留年できない。
つまり、「ほぼ履修制」から「完全な修得制」にすると、学校と学生の双方色々な「覚悟」が必要になる。現状では「ほぼ履修制」のまま、きちんと適性を自覚する必要がある。教育実習は、その最たる部分である。
教員の「資格」
教員に免許は必要か。もっというと、教員たる「資格」とはどこで手に入るのか。
大学に入れれば、普通は出ることができる現状を考慮する。そう考えると「免許がある」ということと、実質的に「教員たる資格がある」ことは、別である。免許は、取れる。しかし、本当に教員としてやる資格があるかは別である。
実際、何年やっても、本当に教員たる「資格」があるかは疑わしい。やってて「ダメだなぁ」と思うことがかなりある。失敗も相当にある。「聖職」と呼ばれた時代ははるか彼方ではあるものの、贔屓目に見ても自分が人格者であるとは到底思えない。
それでも、何とか仕事としてやっていけるのは、多少なりの「専門性」による。つまり、授業1つとっても、他職種の人がやるものとは訳が違う。そうでないと、専門職ではなくなってしまう。
この辺りは、結構誤解されやすい。特に、小学生には、大人なら誰でも教えられると勘違いされやすい。ここは本当に大きな誤解で、小さい人ほど難しい。「幼児にはさみの使い方を教える」ということを以前例に挙げたが、あれである。「はさみを使える」なんて当たり前すぎて、どう教えていいかわからない。同様に、算数ができないというのも、まずできない原因を理解するのが一苦労である。
体育なら、大きな技能差がある状態でのボール運動の指導を、全員が満足できるようにするのが仕事である。サッカーをやって遊んで「楽しかった」で終わるなら、知識も技能も何もなくてもできることである。
「子どもと遊ぶ」のも、誰でもできる。その行為を通して、子ども同士をつなげたり、関係性を意図的に変化させていったりするのが専門性である。
その点、教育実習は重要である。大学生から新卒で教員になるにあたり、唯一の現場経験ができる場である。どの授業を見ても、「あれぐらいの授業なら自分でもできる」と普通は思っている。「自分の受けてきた授業は面白くなかった」「自分ならもっとうまくやれる」ぐらい思っていることもある。それが健全であると思う。一般の見方と同じである。
そして、実際自分でやってみて、初めて挫折を味わう。これでやっとスタートラインである。「次こそは」と相当準備しても、まあ上手くはいかない。初めて「教材研究」の必要性を感じる。またやってみても、やっぱりダメである。
こういう必死の経験を積む中で、「技術」を少しずつ身に付けるようになる。同時に「使命感」や「やり甲斐」を少しずつ感じるようにもなる。そうやって、とりあえずの「免許」が手に入る。本当に教員たる「資格」らしきものが手に入るのは、教職についてからずっとずっと先である。
「先生と言われるほどの馬鹿でなし」
常に、自分にはその資格があるのか、自戒して精進したい。
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『「二十代で身につけたい!」教育観と仕事術』
著者/松尾英明
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