最近では「自分探し」というキーワードが若い人向けのみならず、中高年に向けても使われています。そんな中、自分探しという行為を真っ向から否定するのは無料メルマガ『人間をとことん考える(人間論)』の著者で臨床心理にも詳しい薬剤師の小原一将さん。過去には「自分」というものを探し求めていたという小原さんですが、そんな気持ちを楽にしてくれたひとつの答えとは一体どんなものだったのでしょうか。
自分の足で世の中を歩く
大学に行って「自分」というものを探し始めて、何も見つからないまま不毛に時間を過ごしてしまう人がいるだろう。高校までは敷かれたレールの上を歩いてきて、大学に行くと自分という存在が唯一のものであることを認識しようとする。
社会に出て、自分に合った仕事を探そうとする。会社の言いなりにならず歯車にならず、自分の個性を活かして世の中に役立てるような何かを探そうとする。
これらははっきり言って私にも経験がある。自分は何となく人とは違う。人よりも優れたものがある。周りの人と同じではなくオンリーワンの存在であると。
人はそれぞれ個性があって権利があり、同じものではないことは間違いない。しかし上記したような考え方は正しくないと今では断言できる。
大学に行って自分の個性を探し、社会に出てその個性に合う仕事を探す。しかしそれは永遠に見つかることはない。一生懸命に探して答え合わせをしようとしても、まずその問題を解いていないからだ。つまり自分がどういう個性を持ってどのような仕事をして社会に貢献できる人間なのかどうかを考えていない。
問題を解かずに答えだけを探してもそれが解決することがないことは当然である。
自分のことを周りは分かってくれない。友達も会社の同僚も上司も社会も自分を分かってくれないと思う時期がある。私もそれはあった。毎日悩んで考えて自問自答を繰り返した。なぜ周りは分かってくれないのかと考えた時、まず自分が自分のことをしっかりと分かっていなかったことに気づいた。
自分ですら分かっていない自分のことを他人に分かって欲しいというのは無理な注文であると気づいた。
それからは自分のことを自分で分かる努力を始めた。自分で自分を追い詰め、そこから出た答えが自分の本質であるといったことを昔からずっと繰り返している。
それらを続けてきたおかげか分からないが、自分というものを周りに分かって欲しいと思うことはほとんどなくなった。それよりも相手を分かろうとする気持ちの方が強い。
相手のことを考えることによって自分のことをさらに分かることができるし、相手を分かろうとすることによって自分のことを分かってもらえるようになる。そう思えて生きることの余裕が出たように感じている。
相手と自分を不毛に比較したりはしないし、相手の人生を生きようとすることもない。そうなって初めて世の中というものを自分の足で歩け始めたのかなかと思った。世の中を自分の足で歩くというのはこれほどまでに難しいことだったのかと改めて思わされた。
「自分」は探しに行かなくてもいつもすぐ側にいるし、自分に合った職業や生き方というのも無闇に探しに行く必要はない。答えを探しに行くのではなく、まずその問題にしっかりと取り組む必要がある。そしてそれは焦る必要もない。自分のペースで問題に取り組み答え合わせをすれば良いだろう。
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