突然ですが、魚は痛みを感じていると思いますか?もし痛みの感覚があるのなら、漁業のあり方に倫理的な問題が生じる可能性は否定できないと、CX系「ホンマでっか!?TV」でもおなじみの生物学者・池田清彦先生が、ご自身のメルマガ『池田清彦のやせ我慢日記』で指摘しています。日本の代表的な食文化の一つにも影響が及ぶかもしれないこの問題、生物学としてだけでなく一緒に考えてみませんか?
自分が感じる痛み以外の存在証明は困難
オーストラリアのシドニーに1993年から1994年にかけて約1年間住んでいたことがある。生物多様性の研究という名目で、ほぼ毎日虫採りと魚釣りをしていた。採った昆虫は、標本にするために毒瓶に放り込んで殺し、釣った魚は、小さいタイなどはリリースして(魚種によっては一定の大きさ以下の個体はリリースしなければならないことが、法律で決まっていたのだ)、それ以外の食べられる魚は食べていたのだが、気になったのは、昆虫や魚は痛みを感じるのか、ということであった。
昆虫も魚も命に関わるような状況を避ける。どちらも捕えようとすれば逃げるし、毒瓶に入れた昆虫はもがくし、釣り針にかかった魚は暴れる。外部の刺激に対して反応していることは確かである。但し、人間のような表情がないので、痛みや苦しさを感じているのかどうか、類推することが難しい。痛みは典型的なクオリアなので、内観によってしか察知することが出来ず、他者の痛みを自分のクオリアとして感じることは不可能である。
独我論的に言えば、この世界に存在するのは自分の痛みだけで、他者の痛みは存在しないと考えることもできる。例えば、精巧に作られたアンドロイドを考えてみよう。このアンドロイドは、表面にある限度以上の力がくわえられると、顔をしかめて痛いと叫ぶようにプログラムされている。しかし、このアンドロイドは、私と同じような痛みのクオリアを感じているかと問われれば、私を含めて大方の人は否と答えるだろう。同様に私以外の人は実はアンドロイドと同じで、痛みというクオリアを持っていないという考えを完璧に論破するのは、他者のクオリアを感じることができない以上原理的には難しい。
とはいっても、生物学的に言えば、クオリアも脳で感じているに違いないので、脳の構造が同じであれば、私と同じ構造の脳は私と同じクオリアを感じると考えていけない理由はない。哺乳類は脳の構造が基本的にヒトと同じなので、おそらく痛みを感じるであろうし、昆虫は脳の構造がかなり違うので、我々と同じようなタイプのクオリアを持っているかどうかは疑わしい。魚は脊椎動物という点では人間に近いが、終脳(ヒトの大脳)の発達が悪く、ヒトと同じようなクオリアを持つかは微妙である。
畜産業の常識が漁業に及ぶ可能性も
ヴィクトリア・ブレイスウェイトは『魚は痛みを感じるか?』(紀伊國屋書店 2012)と題する著書の中で、魚は痛みを感じているに違いないと断じている。その根拠は次のようなものだ。
マスの皮下に少量の酢を注射すると、注意力が散漫になり、正常な状態では回避するはずの見慣れぬ物体を恐れなくなる。このマスに鎮痛剤として知られるモルヒネを投与すると、マスは見慣れぬ物体を回避するようになる。ブレイスウェイトは、酢の注入によって痛みを感じて注意力が散漫になっていたマスが、モルヒネによって痛みを感じなくなり、注意力が戻るのではないか、と推論している。私見によれば、マスが我々と同じタイプの痛みというクオリアを感じているかどうかは定かでないにしても、クオリアのタイプは違っても「痛み」と呼べるような感じを抱くらしいことは確かなように思われる。
もし、魚が痛みを感じているとすると、釣り針で魚を痛めつけることや、魚を殺して食べる時に長時間苦痛を与えることには倫理的な問題が発生するというのがブレイスウェイトの主張である。牛や豚はなるべく苦痛を与えない方法で屠殺するのが、畜産業の常識になって久しいが、この傾向が漁業に及ぶかどうか、微妙な問題だね。
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