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東京五輪に浮かれる日本が思い出すべき冷酷無残な中国共産党との「戦争状態」

ソフトボールとサッカーの先行競技がスタートした東京2020オリンピック。組織委員会や政府のぐだぐだな対応に、反対派の声ばかりが響いていますが、最近になって「オリンピック反対」を叫ぶ人は胡散臭いと切り捨て、アスリートの「本物」の活躍に期待を寄せるのは、57年前の東京大会の祝祭感を肌で経験したと語る心理学者の富田隆さんです。今回のメルマガ『富田隆のお気楽心理学』では、前回と今回では、「平和」を国民がどのように捉えていたかに大きな違いがあると指摘。現在が中共との「戦時下」にあることに目を背けなければ、平和の祭典の意義も大きくなると持論を展開しています。

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肝腎な「何か」が存在しない東京オリンピック

それにしても、何とも盛り上がらないのが「オリンピック」です。私自身も、以前から、オリンピックを真夏に開催することには反対しておりました。だって、スポーツは澄み切った秋空の下でやる方が良いでしょう。せっかく世界中から名だたる選手を招待するのなら、ベストコンディションで新記録を出してもらいたいではないですか。

世界の、特にアメリカの巨大テレビネットワークの都合を優先して、わざわざ真夏に開催することになったわけですが、本来、オリンピックの主役はアスリートのはずです。

その点、前回1964年の東京オリンピックは、10月10日にスタートしたので、アスリートたちにとっては最高の気候条件でした。青空を背景に、オレンジ色の聖火が燃え上がった瞬間を、当時中学三年生の私は、近くの建物の屋上から友人たちと見ていました。眼を閉じると、今でも、その感動的で美しい光景が鮮やかによみがえります。真夏のオリンピックに、そんな感動は期待できません。

しかし、一度やると決めた以上、もう少し何とかできなかったものかと、今は関係者一同に同情しています。それに、へそ曲がりを自認する私としては、最近になって「オリンピック反対」を叫んでいる人たちのことが、どうも気に入りません。政治の匂いがプンプンします。私だって、問題だらけの現政権は支持できませんが、オリンピックまで政権批判に結びつけ、あわよくば、政権を乗っ取るきっかけを造ろうとする様子は、まさに「スポーツの政治利用」そのものです。

揚げ句の果てに、「命とオリンピックのどちらが大切か?」というような戯言を叫ぶ野暮天まで飛び出して来るようになっては、怒るよりも呆れてしまいます。

オリンピックは要するに「祭」です。そして、どんなに注意を払っていても、祭には「死」がつきものだということを知っていれば、こんな野暮な発言はできないはずです。だんじり祭りでも、諏訪の御柱(おんばしら)でも、危険と隣り合わせの情熱的な祝祭では、毎回のように死人が出ます。

それでも、関係者の誰も「人命を尊重して祭は止めよう」などとは言いません。御柱の落下に巻き込まれて命を落とした本人も、それを理由に祭を止めてくれとは言わないでしょう。こうした神憑(かみがか)りを狂気と言えば狂気なのですが、祭とはそういうものです。人間を超越しているのです。

まあ、こういう「安全安心」の信者たちは、この世で人間が最高の存在だと誤解しているのでしょう。要するに神も仏も宇宙生命体も、人間(実は自分の投影)を超越するものは全て認めたくないのです。

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ただ、こういう「反対派」がいなかったとしても、このオリンピックは盛り上がらなかったのではないかと思ってしまう今日この頃です。と言うより、マスメディアが衰退しつつある現在、「24時間テレビ」同様、オリンピックに熱い想いを抱く人の数は、急速に減りつつあるのではないでしょうか。「笛吹けども踊らず」なぜ踊らないのかと言えば、「仏作って魂入れず」の状態であることを人々が見抜いているからです。

たとえば、かつてヒットラーが「民族の祭典」としてのオリンピックを開催した時、それは「民族」あるいは「国家」という人間個人を超えた存在の集う「祭」であり、単なるスポーツイベントではなかったのです。このように、「祭典」や「祝祭」の主役は、人間を超越した「何か」でなければいけません。

1964年の東京大会においては、この「何か」は「世界平和」でした。人々はオリンピックというものが「平和の祭典」であると、かなり本気で信じていました。現に、冷戦下で暗闘を繰り返していたアメリカとソヴィエト連邦の選手団が、共に東京の地に集ったのです。スタジアムを埋め尽くした満員の観客からは、政治体制の違いを超えて、各国の選手団に熱心な歓迎の拍手が送られていました。

今となっては、あの冷戦下の緊張がどのようなものであったかを想像することはできないかもしれません。しかし、アメリカ人もヨーロッパ各国の人たちも日本人も、もちろんソ連や東側の国々も、皆、敵の核ミサイルが自分たちの頭上に落ちて来るかもしれない、という恐怖を常に心の底に持ち続けていたのです。実際、米国の豊かな階層の人たちは大金を投じて庭に「核シェルター」を作っていました。

そして、当時日本の人口の大半を占めていた戦争体験者にとっては、空襲の恐怖はつい先頃に起きた現実でした。さらに第二次大戦が終わった後も、日本のすぐ隣の朝鮮半島では、戦争で膨大な血が流されました。東京タワーは、朝鮮戦争で破壊された戦車をリサイクルした鉄材で建設されたのです。

ですから、日本国民のほとんどが、古代オリンピアードの神話を信じ、クーベルタン男爵の理想を信じ、「平和の祭典」を現実のものとすることに協力を惜しみませんでした。その背景には、消し去ることのできない戦争の記憶と、冷戦の現実があったのです。そして、日本国民の多くが、「平和の祭典」という神話が現実化するように、祈るような気持ちで、世界の国々からアスリートを迎え入れました。

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ところが、今回の「東京オリンピック2020」には、その肝腎な「何か」が存在しません。と言うより、大衆にはその「何か」が見えないのです。4年ごとに「舞台」を移動するだけで、マスメディアが中心となって企画運営されるただの「イベント」では、人々の情熱に火を付けることなどできるはずもないのです。

大衆にとっては、ただの「イベント」に過ぎませんから、それがコロナの感染防止を理由に「無観客」となって、せっかく手に入れたチケットが払い戻しになっても、人々は暴動を起こすこともありません。暴動どころか、怒っている人さえほとんどいないのが現実です。誰にとっても、所詮は、イベントなのです。

とは言うものの、実際にオリンピックの競技が始まり、アスリートの活躍がテレビ中継されるようになると、人々の反応は変わってくるはずです。どのような意図や思惑で巨大ネットワークが放送をするにせよ、中継される競技そのものは「本物」だからです。

つまり、「祭」としてのオリンピックは盛り上がらなくても、個々の競技で繰り広げられるアスリートたちの活躍は紛れもない「本物」であり、テレビというメディアの長所は、世界の何処かで展開している実際の出来事をリアルタイムで個々人のもとへと届けられるという点にあるからです。

そして、アスリートが死力を尽くして闘う「本物」の迫力は、視聴者を釘付けにする魔力を持っています。台本の無いドラマ、即ち、スポーツを通じて得られる「感動」は人々の心を熱く燃やすはずです。

今日、「東日本大震災からの復興」を祝うという「東京オリンピック2020」のスローガンは、ものの見事に忘れ去られてしまいました。それはそれで、いたし方の無いことかもしれません。福島の原発ひとつ見ても、まだまだ「復興」への道程は容易ではありません。10年経った今も、人々の心には、癒しようの無い「傷」が残っています。

ですから、私の偏見を言わせていただけるなら、今回のオリンピックの背後に隠された「何か」とは、実は、1964年当時のスローガンの「影」そのものではないでしょうか。なぜなら、今は、ほんとうに「平和」な時代ではないからです。そして、表向き平和ということになっている現状を少しでも長続きさせるためには、「平和」という言葉はスローガンにふさわしくありません。

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しかし、アメリカに亡命した中共高官の言を待つまでもなく、この新型コロナウイルスは明らかに中共の「生物兵器」です。『超限戦』(中国人民解放軍大佐の喬良と王湘穂による戦略研究書。国際法を無視した手段を選ばぬ戦争が描かれている)にも書かれているような中共の軍事的野心は、多くの高官たちからも繰り返し世界に「公開」されてきたにもかかわらず、善良なる日本国民の多くは、これまで、その現実から目を背けてきました。

チベットへの侵略やウイグル人へのジェノサイドにも眼をつぶってきました。中共の主席が「沖縄は中国の一部だ」と公言しても、耳を塞いできました。武器を積んだ中国船が尖閣列島を連日侵犯し続けても、見て見ぬふりを続けています。

それは、「幻の平和」を信じたいからです。信じてさえいれば、本当に平和が維持されると思いたかったからです。しかし、集団的に共有する無意識の領域では、戦争がすぐそこに迫っている、いや、超限戦的な意味では既に始まっていることを、皆、察してはいるのです。

そんなわけですから、1964年の東京オリンピックが「戦後」の平和の祭典であったのに対して、「東京オリンピック2020」は「戦前」否「戦時下」の平和を祈る祭典であるという事実に人々が気づいた瞬間、単なるイベントだったものが、本当の意味での「魂」の入った「祝祭」へと変貌を遂げるのではないでしょうか。

その瞬間は何時訪れるのでしょう?私は、たとえテレビ画面を通してでも、人々が、アスリートたちの「無心」に競技に没頭する姿に接し、感動を共有することによって、こうしたシャーマニズム的な変容が、日本中の茶の間やオフィスで、次々に起こるのではないかと期待しています。

何しろ、ここ日本には、相撲という格闘技を、神々に奉納する「神事」にまで高めた稀有な伝統文化が息づいているのですから。

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image by:Korkusung / Shutterstock.com

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