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これが中国政治だ。日米貿易摩擦の影に見え隠れする隣国の「裏工作」とは?

この10年で24倍に成長した中国経済。この裏には「政治」としての工作活動があったようです。その裏工作について語るのは、作家でユーチューバーの顔も持つ、ねずさんこと小名木善行さん。小名木さんは自身のメルマガ『ねずさんのひとりごとメールマガジン』の中で、中国の「政治」について、そして同じことを日本ができない理由について明かしています。

なぜ日米貿易摩擦は起きたのか

みなさんがもし、70年代の貧しい国の首相だったら、自国を豊かにするためにどうするでしょうか。実際にこれを行った人がいます。それが中国の「鄧小平」です。個人的には大嫌いな政治家ですが、政治家としての手腕は認めざるを得ない人物です。

鄧小平が首相を務めた時代は、政治的復権を願った毛沢東による文化大革命の傷跡の癒えない中国でした。文化大革命は、中学生たちを扇動して、あらゆる中国文化を徹底破壊することで(つまり破壊活動によって)毛沢東が政治的復権を射止めようとした、とんでもない事件です。

この文革によって、あらゆる文化を破壊された中国は、もはや経済的成長どころではない。ほとんど食うや食わずの状況にまで成り下がっていたわけです。

ところが、そんな中国のすぐ横には、日本という豊かな国がありました。その頃の日本は、ちょうど高度経済成長のまっただなかです。先の大戦によって、あらゆる文化が破壊されたはずの日本が、どういうわけか世界の超一流国の仲間入りをしている。日本人の所得は、年々成長し、1億の民みんなが豊かさを享受した生活を送っています。

すくなくとも、終戦の時点では、中国のほうがはるかに豊かであったはずなのに、あらゆるインフラを破壊されていた日本の方が、70年代にはすでに経済的復興どころか成長を果たしている。

そこで鄧小平が選んだ道が「改革開放路線」です。この伏線として、1978年には、日中平和友好条約が締結され、さらに1979年には米国との国交を正式に樹立させました。

そしてここから政治活動が行われました。すでに米国に大きなシェアを築いていた日本企業の製品に対し、ボイコット運動が仕掛けられるのです。火種は1970年代からありました。けれど、日本製品の米国への輸出は、米国民の就労を奪うものではなく、むしろ米国民の楽しさや幸せを築くものであったし、また販売網の確立と修理場の設置のために、米国民にも新たな就労機会、所得機会を与えるものでした。つまり、日米関係は、winwinの関係にあったのです。

ところが1980年代に入ると、米国内である特定の勢力が、米国の経常収支の赤字の拡大と日本の黒字拡大を、問題にし始めました。同じ状況は、西ドイツと米国との間にもあったし、ヨーロッパ諸国との間にもあったことなのに、なぜか日本との貿易だけが政治的に問題視されるようになったのです。

これはつまり裏工作があった、ということです。

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80年代後半になると、この排日運動は全米に広がり、日本車の新車や、ソニーやパナソニックなどの新品の製品が広場に大量に持ち込まれて、大勢の前で火をつけて焼かれるといった報道も行われるようになりました。米国民が、日本対して、また日本製品に対してたいへんな怒りをあらわにしているとされるようになり、これが日米間の大きな問題になりました。

けれど、ちょっと考えていただきたいのです。日本車の新車や、ソニーやパナソニックなどの新品の製品は、わざわざ箱から出して燃やされるのです。当然、それらの品物は、自動車を含め、新たに買ってきたものです。しかもこの当時、広場に集まった群衆には、日当が払われていたという話もあります。

要する誰かが、そのデモに資金を与えていたのです。

90年代になると、日本企業が米国内で財力を持つようになる一方で、日米貿易摩擦が深刻化しました。全米では、たとえばハリウッド映画に日本企業はずいぶんと出資していましたが、米国内では「ハリウッド映画はアメリカの魂だ。魂を日本に売り渡すな」といった、見当違いな主張が幅を利かせるようになりました。

おもしろいことに、米国市民の間には日本製品も日本企業も日本人も、信用があり、信頼され、東洋のどこの国の人間よりも日本人は信用されていました。この頃のハリウッド映画は、アクション映画その他で日本人の役柄の俳優が登場するものが数多く作られていますが、本物の日本人もしくは日系アメリカ人がその役を演ずることは少なく、どういうわけか、中国人が日本人役で登場するようになりました(これはいまでも続いています)。

もともと白人には、東洋人の見分けが付きにくいところへもってきて、中国人顔を日本人顔として刷り込むことで、日本人が米国内で築いた信用を、容易に奪いやすくなるという、実はこれもまた工作です。

こうして、およそ25年の歳月をかけて行われた中国の工作活動によって、2000年当時には日本の8分の1しかなかった中国経済は、そのわずか10年後の2010年には日本の3倍に成長することとなりました。

理由は簡単で、日米貿易摩擦が演出された結果、日本が直接米国に製品輸出することが規制され、日本企業は対策として、中国に工場を作り、日本からは原材料を提供して中国製品として米国への輸出が行われるようになったことです。

中国経済は、この10年で24倍に成長しましたが、それは別な言い方をするならば、日本経済が、本当は成長したはずの利益を、中国が奪った、という言い方もできるわけです。

これが「政治」です。

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では、なぜそのような「政治」が中国にできて、我が国にできないのか。その理由は、政治の仕組みにあります。中国は、中国の政治機構の上に、共産党があるのです。

日本が日本の構造を大きく変え、経済的に極めて大きな発展ができた時代が、近現代に二度あります。ひとつが明治維新直後の日本です。この時代の日本は、黄金を米国に奪われ、明治新政府は超貧乏政権としての発足でした。だからこそ富国強兵政策がとられることになったのですが、これを行ったのは、日本の頂点に天皇があり、その直下に枢密院が置かれたことによります。司法立法行政の三権は、その下に置かれました。そしてもっというと、初期の頃の大改革を実現した明治初期には、明治新政府よりも上位に枢密院が置かれるとともに、枢密院の下に軍が置かれていました。

終戦直後の日本も同じです。日本にはGHQが置かれました。GHQは「General Headquarters」の略ですが、GHQのすぐ下に、ミリタリーポリス(MP)が置かれ、日本の三権はその下に置かれました。

戦後教育は、三権分立は理想の政治形態と教えますが、実は三権分立は、三すくみ状態を生む政治体制です。それだけでは何もできないのです。その上が必要なのです。

もしかすると、日本はいま、日本が大きく生まれ変わるために、日本版GHQ、すなわち「Japan Headquarters」(通称JHQ)の設置が必要なのかもしれません。そしてJHQが強制力を持つには、JHQの下に軍と警察が置かれること。

これだけでは、アフリカの不安定な独裁政権と同じになってしまうのですが、日本には幸い天皇がおわします。JHQの上に天皇があり、領土領民のすべては、天皇の「おほみたから」とする。この形を置くことで、独裁政権性は否定されます。

日本の再構築には、そういうところまで、深く入り込んでの検討が必要であると思います。

日本をかっこよく
日本を豊かに

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静岡県出身。国史研究家。倭塾塾長。日本の心をつたえる会代表。日本史検定講座講師&教務。インターネットでブログ「ねずさんのひとりごと」を毎日配信。 著書に「ねずさんの昔も今もすごいぞ日本人」第1巻~第3巻。「ねずさんの日本の心で読み解く百人一首」がある。

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