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なぜ、学校はコンクール作品を「芸術」として評価できないのか?

学校で出品する各種コンクールへの作品。それについて学校教育として「芸術」としての評価をどうつけるべきか、メルマガ『「二十代で身につけたい!」教育観と仕事術』。著者で現役小学校教師の松尾英明さんが、岡本太郎の名著を紹介しながら持論を語っています。

学校教育で「芸術作品」を評価できるのか

「学級づくり修養会HOPE」で話題に出した本。

今日の芸術 時代を創造するものは誰か 新装版』岡本太郎 著 光文社文庫

かなり前に読んだ本だが、改めて読むとまた発見があり、話題に出した。

この理由は、夏休みの「宿題」の在り方、各種コンクールへの出品について、再考していたからである。また、学校現場が10月前後、「図工作品展(造形展)」の真っ只中だからである。

芸術というものを、教育においてどういう位置付けにすべきかである。大学においても「リベラルアーツ」が重視される時代である。教育においてアート(芸術)をどう扱えばいいのか、悩んだ次第である。

著者である岡本太郎氏は「芸術は絶対に教えられるものではないのです」と断然喝破する。芸術に一生を燃やし尽くした人が断言するのだから、説得力がある。

教えられるような絵は、単なる固定観念と先入観であるという。本文中の言葉では「符丁」と表現されている。それは「記号」のような、多くの人に共通理解されて約束されたものである。

例えば、子どもに「太陽を書きましょう」と伝える(これは「お花」でもよい)。どうなるか。実際に2つの低学年の学級でやってみたが、見事に「赤系の〇」&「周りに放射線状のちょんちょん」である。「太陽が本当にそう見えてるの?」と問うと、困る子どもたち。そんなこと、考えたこともないはずである。大人たちだって同じ表現をしているのだから、当然である。

つまりそれは、自己表現としての絵ではなく、単なる知識としての記号なのである。「やじるし」や、トイレの表示や非常口に使われる「ピクトグラム」などと同じである。固定化された記号である。

ただ、一度記号化されたものだから芸術ではない、という単純なことでもない。文字のように形式が定められたものでも、芸術としての表現に高めることもできる。例えばお手本そっくりに写す「書写」と、芸術的表現としての「書道」との違いである。また「フォント」という技術が開発されたことは、独創的であり芸術である。

兎にも角にも、小学生の時点で、かなり記号化された表現が侵食してしまっている。どこにその根源があるのかは断定できないが、「幼児向け」のアニメ的表現に多くふれている以上、当然ともいえる。

さて、それでも子どもたちは全力で作品に表現をする。問題は、学校教育において、それを「評価」するという過程を経なくてはならない宿命の方である。

それを「芸術」と捉えるならば、「評価不能」が誠実な評価である。芸術(アート)とは、創造と破壊を繰り返す世界だから、評価基準は存在し得ないのである。

つまり学校教育においては「芸術作品」としてではなく、特定の指導の成果物として見ることになる。学習指導要領の指導内容に沿った「一定の基準」に照らして作品への評価を下すことになる。そうでなければコンクールの出品なぞできようがない。芸術には点数も順位もつけられないのだから、当然である。

ここに苦しむ人は多いが、現状では割り切るしかない。芸術は、その定義上、そもそも教えることができない。教えられるのは、既定の知識や技術の方である。

例えば算数において、筆算は教えるべきことである。漢字もそうである。科学的事象も歴史的事実(と思われるもの)もそうである。ここにアートはない。だから、堂々と教えればよい。

その点で、子どもの作品について、あれこれ指導することはあり得る。それは、子どもの作品を、アートとして捉えない限りにおける。「水彩絵の具の一技法」を身に付けることをねらいとしているならば、そこは指導できる。しかし、作品にあれこれ口出しをして改変させたものは、指導の成果物ではあるが、子どもの芸術的作品ではなくなる。

つまり、図画工作の指導においては、芸術は捨てて「教えている」と割り切る。体育の跳び箱指導や家庭科の調理実習における指導などに近いといえる。それは「正解」に近づける作業である。

芸術(アート)の要素は、教えられたそのずっと先にある。学んだ先に、自分で創造し表現することはあるが、それは決して誰かに教えられたものではない。やれと言われてやるものではないのである。評価されるためにやるものでもないのである。

各種コンクールにおいて指導者の一番の悩みポイントは、作品への「改善」提案である。「もっとこうした方がいい」という、識者からのアドバイスがある。確かに、そうした方が見栄えが断然よくなる。コンクールで高い評価を得る確率も、大いに高まるだろう。

しかしこれらを繰り返すと、作品が「誰のもの」なのかわからなくなる。いくら指導の成果物とはいえ、作品はあくまでも子どものものだからである。どこで「折り合い」をつけるかである(部活動指導などにもいえるかもしれない。厳しく指導して短期間で強くするか、生徒の自主性を重んじて待つかのジレンマである)。

そもそも「評価」は、何のためにあるのだろうか。ゴッホのように、後に「優れた芸術家」と大絶賛される人であっても、生きている内には評価されていない場合もある。それで、当人が好きな表現を続けて不幸だったのかどうかは、当の本人にしか知り得ないところである。もしかしたら、時の有力者の助言の通り描いたら、生きている内に高く評価されていたかもしれないが、それでは芸術家として死んでいるともいえる。

もっと言うと、我々は本当にゴッホやピカソの絵を見て「素晴らしい」と感じているのか。ゴッホが生きていた時代に「大画家」であることを知らずに絵を見て、そう感じそうか。先日、海外でソムリエに酷評された安ワインが大きな賞をとったことが話題になったが、さもありなんというところである。

自分がわからないことは、そもそも教えられない。ごくごく、当たり前のことである。

image by: Shutterstock.com

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【著者】 松尾英明 【発行周期】 2日に1回ずつ発行します。

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