美濃の守護を担った土岐氏。220年守り続けた美濃を奪われた土岐頼芸は愚鈍な殿様として評価されているのですが、それに異を唱えるのはメルマガ『歴史時代作家 早見俊の無料メルマガ』著者の早見俊さん。早見さんは頼芸をどう見ているのでしょうか?
美濃源氏の名門
斎藤道三は、油売りから身を起こし、美濃を奪い取った梟雄と言われていました。ところが、道三に関する六角氏の文書が発見されて、道三一代ではなく親子二代で美濃の戦国大名に成りあがったという見方が定説になっています。
京都の山崎にあった油座の油商人であった道三の父は美濃にやって来ました。父は京都の妙覚寺で仏道修行をしていたのですが、還俗して油屋の入り婿になったのです。妙覚寺で修行していた頃、仲の良かった僧侶が美濃の常在寺の住職となっており、彼の伝手で守護代斎藤氏の家老で小守護代長井氏に仕えました。
父は長井氏の重臣となったところで死去、以後道三は戦で功を挙げ、更に重用されたところで、長井家の当主、長弘を謀殺して長井家を乗っ取ります。更には斎藤家も乗っ取って美濃の守護代に成り上がりました。
美濃の守護は土岐氏でした。土岐氏の先祖を辿れば摂津源氏の祖、源頼光(よりみつ)に繋がります。頼光は、「らいこう」とも呼ばれ大江山酒呑童子を討伐したことで有名ですね。頼光の子孫が美濃国土岐郡に土着して土岐姓を名乗り、足利尊氏に従って鎌倉幕府打倒に功を挙げ、美濃の守護に任じられたのです。
以来、約二百二十年に亘って美濃の守護を担います。
その間には、美濃ばかりか尾張、伊勢、三カ国の守護を務めた三代守護頼康の華やかな時代もありましたが、家督争いによる内訌が激化、守護代の斎藤氏、小守護代の長井氏が美濃の実権を握ります。
道三が仕えた頼芸(よりのり)も兄頼武と長年に亘って家督争いを続けました。道三は頼芸を守護に就けるべく、謀略を駆使して邪魔者を次々と排除してゆきます。道三の働きで守護に成った頼芸でしたが、用済みとなって追放されてしまい、美濃一国を奪われます。
まんまと美濃を奪われた頼芸は愚鈍な殿さまと評価されてきましたが、様々な史料に当たりますと文武に長けた優れた領主であったのでは、と思えてきます。
先日、岐阜県山県市にある臨済宗妙心寺派の南泉寺(なんせんじ)を訪れました。頼芸の父政房が土岐氏の菩提寺として建立したお寺です。南泉寺には頼芸が描いたと伝わる鷹の絵があり、拝見できました。
眼光の鋭さに頼芸の意志が感じられました。また、境内には頼芸の兄頼武の息子頼純(よりずみ)の墓があります。頼純は道三の娘、帰蝶を妻としましたが、数え二十四歳の若さで急死します。道三に謀殺されたと伝わっています。頼純死後、帰蝶が信長に嫁いだのは有名ですね。
悪謀の限りを尽くし美濃を手に入れた道三は息子の義龍に討たれてしまいました。道三死後、義龍は美濃の守護となって、「一色」姓を名乗ります。一色氏は室町幕府において土岐氏よりも上位の家柄でした。つまり、義龍は土岐氏を凌ごうとしたのです。
道三、信長以前の美濃、戦国動乱の渦中にあった美濃に君臨できなかった美濃源氏の名門土岐氏及び頼芸ですが、研究が進み、再評価のスポットが当たっています。
愚鈍な殿様のイメージを払拭すべく、筆者も及ばずながら頼芸を主人公とした小説を執筆する予定です。
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