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現役小学校教師が明かす、凸凹があることで成立する「良いクラス」とは?

小学校の「クラス内の環境」を良くするためには何をすれば良いのか?担任を持つ教師であればよく分かる悩みではないでしょうか。メルマガ『「二十代で身につけたい!」教育観と仕事術』の著者で現役小学校教師の松尾英明さんは今回、「信・敬・慕」という3つの大切な条件について語っています。

なぜ学級の子どもたちの言葉遣いがよくなるのか

半年前、小学館のスタッフとEDUPEDIAの学生スタッフの方々が教室参観に来て取材をしてくれた。その時のEDUPEDIAの記事が2本、本日アップされた。

【教員の働き方】不親切からの働き方改革

【レポート取材】リアルな教員の1日に密着

この記事は半年前だが、既に学級の素地はできている。今はこの記事でやっていることをやっていなかったり、別のことをやっていたりしている。しかし、根幹の部分は変わっていない。子どもが個としても集団としてもレベルアップしているのが最も大きな違いである。

先月も参観があり、今月の頭にも他市からの初任者の参観があった。最近よく学級参観をしてもらっているせいで、子どもたちも慣れたものである。参観者とすぐに仲良くなってしまう。子どもたちのコミュニケーション能力の高さが見られる。

今回は参観したのが初任者ということもあり、放課後には教育の成立条件である「信・敬・慕」の話をした。私が師と仰ぐ野口芳宏先生の御言葉であり、過去に何度も紹介しているが、大切なことなので改めて書く。

子どもと年齢の近い、若い先生たちは「慕」については獲得しやすい。一緒に動けるという身体的にも、心理的にも近いのである。

「信」は、一生懸命さが伝わることで、ある程度獲得できる。本気でやるほど、言葉とその人の行動が一致していくからである。「口ばっかり」と思われると、ここが崩れる。特に、子どもの悩みに寄り添い、共に解決できるかということは大きい。

「敬」は、なかなか難しい。尊敬するというのは、相手を仰ぎ見る状態である。自分自身でどういう時に尊敬の念を抱くかを考えればわかるが、相手が自分よりも上だ、ためになる、すごいと感じる時である。(上とは年齢のことではなく、子どもに対して尊敬の念を抱くことも十分に有り得る。)

「敬」については授業で力をつけるのが最もよい方法だが、ここは経験がものを言う上に、なかなか忙しくて時間が割けない。結果、土日等を費やして、かつ私費を投じて修行することになる。一見「働き方改革」の流れには沿っていないようで、特に経験の浅い内は恐らくその方がよい。非能率で無駄とも思える小さな一歩の積み重ねが、結果的によりよい仕事に繋がっていく。若い時分の無駄とも思えるほどの地道な苦労は、将来の大きなリターンが期待できる有益な「投資」である。

他には「得意の相互提供」の話に時間を割いた。参観した皆さんが口を揃えて言うのは「子どもたちの言葉がよい」「雰囲気が温かい」という点である。実はここのベースに「得意の相互提供」がある。また、これは子ども同士の「敬」にも繋がる。

簡単に言うと、学級のあれこれは、集団内の誰かの得意で埋めていけばよいという考え方である。得意を提供できるのは、不得意な人がいてくれてこそである。

今回も例に出したのが

「もし、自分のクラスの子どもが全員完璧で、自分に教えられること、できることが何もなかったら、どう感じるか」

ということである。

それは、かなり寂しい。担任である自分の存在する意義や価値を感じにくいことは間違いない。

逆にいえば、不完全な者同士だからこそ、助け合えるのである。それは、社会の構造そのものである。

例えば、私は小学校教員という仕事で糧を得ている。しかし実際の「糧」である具体物は何一つ生み出していない。昼食の給食一つとっても、安価な給食費を払っているだけである。食材の生産や獲得はもちろん、流通も調理も片付けまで全部人任せである。全く「自給自足」ではない。(もっというと、その根源を育んでくれている大自然の恵みの力には、逆立ちしても及ばない。)

しかし、社会というのはそういう分業で成り立っている。給食の食材を日々生産してくれている方々、そこに携わる方々は、当然だが小学校での担任の仕事をする時間はない。社会は、得意の相互提供による、お互い様である。

学級集団もそれを基盤とする。全員が全てを得意である必要はなく、むしろそうでない方がよい。得意な者が苦手な者をカバーし、教え支えればよい。

これは、個々に凹凸があるからこそ成立する。助けてもらった側は、当然恩義に感じるし、別の場面で自分の得意を喜んで提供したくなる。また、助けた側は、助けてもらいたい側の存在のお陰で、自分の得意を活用し磨いていくことができる。いわゆる「Win-Win」の関係である。誰も一切傷つかないし、ここには得する人しか存在しない。

さて、こういうことをしていると、副次効果が出る。自分が助けている相手、あるいは助けてくれている相手を、馬鹿にするのは難しい。お互いが自然と尊敬の念、感謝の念を抱く。「お互い様」の文字通り、お互いを敬う。言葉遣いも、自ずからそのようになっていく。

またここには、「才能」と呼んでいいのかわからないが、個に与えられた能力についても改めて見直す必要がある。私は常々、「100点を褒めなくていい」と言い続けている。

【参考】プレジデントオンライン 「100点答案」を褒めると勉強嫌いになる 2017.6.4

100点は、結果でしかない。努力を認めること自体はいいし、「よかったね」とは思うが、特段褒めることではない。褒められるべき行為というのは、「他に利する」時の行為である。

その能力を、周囲の人々、他者に生かしているか。例えば100点を取れるその能力を使って、友達に教えてあげたり支えたりしたのか。もしそうであれば、それこそが褒め称えられる行為である。

つまり、100点が取れる能力自体は、まだ玉を磨いただけである。それを活用してこそ意義がある。玉を磨く行為自体は、いつまでも自分自身のためであり、それを眺めて自己満足しているだけなら、単なる飾り物である。しかし、それを他者のために用いることで、初めてその価値が出る。

算数が得意なら、困っている友達に教えたり一緒に悩んであげればよい。体育が得意なら、手本を見せたり一緒に運動して励ましたりしてやればよい。それは掃除でも歌でもあいさつでも、何でもいい。

周囲が明るくなる行為は、全て他に利する行為である。「一隅を照らす」という言葉もあるが、この精神こそが大切である。自分が出せるのはほんの小さな光かもしれないが、そこに救われる人が一人でもいれば、そこに価値がある。

そう考えると、100点を取ろうと勉学に励み努力することの意義が変わる。つまり、自分自身を磨いて、社会の役に立つ人間になるための行為である。そこを大いに磨くことが、結果的に社会を明るく照らすことに資する。

だから、勉学に励もうとする子どもに対しては、大いに推奨するのがよい。「あなたが磨いた才能が、将来誰かを幸せにする」ということを伝え、励ます。必ずしもそれが得意でない者も存在する社会において、共に向上しようという精神を幼い頃から教えていくことが、学級担任にできる仕事である。逆に、多少できるぐらいで他を見下すような人間に育ってしまうのが最も避けるべき事態である。

長くなったが、参観してくれた方々には、これらの話が「実感」として伝わるはずである。「百聞は一見に如かず」というが、実際に見るということは非常に大切である。

image by: Shutterstock.com

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【著者】 松尾英明 【発行周期】 2日に1回ずつ発行します。

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