豊臣秀吉といえば、天下統一を果たした戦国武将ですよね。歴史の授業でも必ず出てくる彼の功績や統一事業ですが、メルマガ『歴史時代作家 早見俊の無料メルマガ』著者の早見俊さんは、秀吉の「授業では絶対に習わないもう一つの統一事業」について暴露しています。
授業では習わない秀吉の統一事業
ご存じ、天下統一を果たした豊臣秀吉は大規模な検地をおこないました。有名な、「太閤検地」です。今日、江戸時代の大名ばかりか戦国大名の領国の大きさも、「石」で表されます。加賀百万石前田家とか仙台六十万石伊達家などと言いますね。
当たり前のように何万石と言いますが、領国を石高で表すようになったのは、「太閤検地」からでした。それ以前は、「石」で表す領主もいたのですが、「貫」が多かったのです。「貫」は銭の単位です。千文で一貫でした。江戸幕府が通貨を鋳造、発行するまで日本は中国から渡来する銭が流通していました。
ところで、秀吉は何故、「貫」から「石」に領国表記を統一したのでしょう。
それは、銭の流通量が日本各地で差があったからです。畿内や東海地方は流通量が多く、一貫で米二石しか買えませんでした。しかし、関東や奥羽は流通量が少ない為、銭の価値が高く、一貫で四石から十二石の米が買えたのです。また、流通する銭の種類も地方で異なりました。
秀吉はこれでは不便だと、「貫」から、「石」に統一したのです。統一に当たって、耕作地の面積、米の収穫高、所有者、耕作者を明白にして名簿にしました。また、米の容量を計る枡を統一しました。当時は地方によって一合枡、一升枡の大きさが異なっていたのです。秀吉は京都で使われていた京枡に統一します。この京枡が今日でも使用されていますね。
秀吉は、「太閤検地」を通じて日本全国の耕作地面積、米の収穫高を把握、年貢を確実にとれるようにしました。そして、全国の大名の力を把握したのです。
何の為でしょう。
もちろん、「唐入り」つまり明国制覇の賦役を石高に応じて課す為でした。秀吉は全国を平定し、豊臣政権の下に一つにまとめると共に日本中の国を石高表記に統一したのです。
と、上記のことは歴史の時間に習う秀吉の天下統一事業です。
わざわざ筆者が記すまでもないことでした。では、授業では習わない秀吉の統一事業を記します。
秀吉は史上稀に見る好色な男でした。男はみな好色と言ってもいいのですが、秀吉が並み外れた好色であったのは、側室を含め肉体関係を持った女性の数の多さだけではありません。えてしてプレイボーイはいかに自分がモテルかを自慢し、モテナイ男のことなど気にもかけないものですが、秀吉は違いました。
秀吉はモテナイ男にも好みの女性と楽しむことができる、しかも身分の上下を問わず悦楽を味わうことができる場を設けたのです。
すなわち遊郭です。
もちろん、秀吉以前にも遊女屋は存在しました。なにせ、遊女、売春婦は人類史上最古の職業といわれているくらいです。日本史上でも、「万葉集」に遊女が作った歌が載っています。従って、遊女屋自体は珍しくなかったのですが、秀吉が作った遊郭はそれまでにはない画期的なものでした。
日本史上初の遊郭は京都の二条柳町に作られました。柳町という名が示すように柳の原を切り開いて形成されたのです。柳町遊郭以前、遊女屋は京都のあちらこちらに点在しており、町を形成していたわけではありません。秀吉は町になるくらいの数の遊女屋を集めたのです。
遊女屋町である遊郭には大きな特徴がありました。入口には大門(おおもん)、遊郭内には並木が設けられ、遊女屋は格子窓が義務づけられたのです。
大門を潜れば別世界、浮世のうさを晴らすことができます。賑やかな音曲が流れ、並木通りの両側には遊女屋が軒を連ね、格子の隙間から遊女を鑑賞できる。男たちは自分好みの女性を物色し、束の間の快楽を貪るというわけです。
柳町遊郭は江戸時代になってから下京に移され、「島原遊郭」と呼ばれるようになりますが、秀吉が定めた、大門、並木、格子窓という三点セットは忠実に守られました。江戸の「吉原」大坂の「新町」をはじめ、全国の遊郭は島原遊郭をお手本にして作られていきます。ちなみに吉原の大門を、「だいもん」ではなく、「おおもん」と呼ぶのは島原に倣ってのことです。
遊郭は類希なる好色な天下人によって誕生したのでした。
豊臣秀吉は遊郭も統一したのです。
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