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【産経新聞】撤回では済まない曾野綾子氏の差別発言

「差別発言」を生むメカニズムを考える

『冷泉彰彦のプリンストン通信』第51号より一部抜粋

曾野綾子氏がサンケイ新聞のコラムで、「人種隔離施策」を肯定していたとして問題になっています。実際に問題となったコラムの全文を確認してみましたが、現代の国際社会の常識に照らしたら全く認められない内容としか言いようがありません。

曾野氏は「南アフリカ共和国の実情」として「以前には白人だけが住んでいた集合住宅」が「人種差別の廃止以来、黒人も住むようになった」結果、「大家族主義」の黒人が「一族を呼び寄せ」で「1区画に20人から30人が住みだした」というエピソードを紹介しています。

そのマンションは十分な水量が確保できなくなる中で、「白人は逃げ出し」てしまい、黒人だけが住むマンションになってしまったというのです。曾野氏は、そこから「人種によって居住は別にすべきだ」という結論を導いています。

そもそもどうして、サンケイ新聞のデスクがこんな原稿を通したのかが疑問ですが、このコラムに関しては「撤回」では済まないと思います。曾野氏との間で十分に議論をした上で、曾野氏には自分の意見が誤っていたことを納得してもらい、その上で同じコラムで「自身の真意と反省」を述べることが求められます。

そうは言っても、往年の学生運動のように、曾野氏に「自己批判」を強要しようとは思いません。強要した結果「自己批判」をさせるというのは、単なる権力による言論の弾圧であり、本当に「自己から出た」批判ではないからです。そうした「強制の茶番劇」では問題は解決しません。

一方で、もしかすると、曾野氏は沈黙してしまうかもしれませんが、その場合は以降はメディアの世界からは静かに退場することになると思います。それでは、この才気あふれた作家の「晩節」としては何とも寂しいことになりますし、また誠実に議論に参加して正直な葛藤と自身の反省を「茶番」ではない形で示してもらわなくては、ドラマとして完結しないと思います。

その「議論」の論点ですが、一つ強く感じるのは曾野氏の主旨の中に「日本人には異民族との共生などという高度なことを期待するのは酷だ」という諦め、あるいは「弱さへの肯定」があるということです。その裏返しとして「移民を受け入れた場合に、共生のできない人間は劣等だという左派的な視線にある差別性」への「義侠心的な反発」も感じられます。

曾野氏の場合は、この辺に関して相当な「確信犯」的な部分があり、そのために決して無視できない影響力を持っているわけですが、この機会にこの問題についてキチンと考えておく必要があると思うのです。

「弱さ」を無制限に認めるという間違い

三段階に分けて考えたいと思います。

まず一つ目は「弱さを認める」という考え方を疑うということです。この思想は最近の日本では左右を問わずトレンドであり、例えば「弱さ」を認めるのが正義だというような話が幅広く存在しています。うつ病の人には「頑張れと言ってはいけない」とか「弱さに正直に生きるべきだ」というような言い方です。

ですが、この「弱さ」を無制限に認めるというのは間違いだと思うのです。何故ならば、今回の曾野氏の発言が正にそうだからです。確かに異民族や異文化に対して、日本人は欧州の人びとよりは経験が足りないと思います。ですから、「自分は移民が隣に住んだら上手くやっていけるだろうか?」と考えた時に「難しい」と正直に答える「弱さ」を持っている人はあると思います。

それを肯定してしまうと、結果的に「差別はしないが、面倒だから隔離はして欲しい」という意見を認めることになってしまいます。心のあり方として「弱さを認める」という態度の限界がそこにはあります。例えば、慣れない異文化を持った隣人と快適に共存するのは「大変」かもしれませんが、そのことを「イヤだ」と思ってそう主張してしまう「弱さ」は社会として認めるわけには行かないのです。

そう考えると、人間が生きていく上で「必要な強さ」ということ、もっと言えば「与えられたい」という弱さではなく、「与える側に回りたい」という強さというのは、異なる存在が共存する社会を構成する上で不可欠なものだということが分かります。

言い換えれば、現代のように「ほぼ無制限に」この「弱さ」を肯定するのではなく、必要な「強さ」を育てていくという方向に、時代の流れ、あるいは教育のあり方を変えていく必要があると思います。この「強さ」と「弱さ」の論議がまず必要です。

「いつか来た道」の危険性よりも大きい国論の分裂

第二の問題は、「異文化との共存に自信のある」ような「強者」が「自信のない」ような「弱者」を侮蔑して良いのかという問題です。この点に関しては、過去に曾野氏がずいぶん色々な批判をしており、的外れなことも多いのですが、いわゆるリベラルの側にも反省点はあると思います。

例えばナショナリズムの論争がそうです。日本の場合は、右派には「自国が危険に晒されるのは自分の恐怖である」という感覚があるわけですが、左派の場合は「そのように自己を国家に投影してナショナリズムに走る人間は劣等である」という侮蔑の感覚を持っているわけです。

常識的に考えると「自分が正しくて相手は間違っている」というイデオロギー対立に関しては「お互い様」であるはずです。ですが、どう考えても「右派が左派を反日だとか自虐だとして非難する場合の態度」と比較して「左派が右派を劣等だと侮蔑する場合の態度」のほうが激しいように思います。

そう申し上げると「いつか来た道だからどんなに批判しても批判し過ぎることはない」というような答えが返ってきますし、例えば今回の曾野氏の発言のような場合には、それこそ「言語能力の全力を挙げて叩く」ということになるわけです。

私はその結果として国論が分裂することの弊害は、「いつか来た道」の危険性よりも大きいし、もしかしたらこのような分裂こそ「いつか来た道」ではないかと考え始めている者です。その点において、曾野氏を肯定する気持ちはゼロですが、曾野氏のように誤った考えの人が、誤った義侠心から乱暴な言動に至るプロセスに「追い詰めてしまう側」にも修正すべき点はあるのではないかと思うのです。

三点目は、この問題は、要するに異なるものが共存するというのは、具体的なノウハウの問題だということです。政策であり、コミュニケーションの技術であり、制度であるわけで、そうした問題に関して、例えば移民を前提としたアメリカやEUにはノウハウがあり、本格的な意味で受け入れをしていない日本は未経験であるわけです。

問題はそのような実務的な話であり、共生の初期段階で反発から「隔離」の声が出た場合に、そのコミュニティとして、どんな和解をするかということも、先行する社会には膨大なノウハウがあるわけです。

曾野氏の発言の最大の問題は、そのような実務的な問題に関して感情論、印象論を持ち込んで対立を煽ったことにあると言えます。いずれにしても、取り消しだけで済むと考えたら大間違いでしょう。

 

『冷泉彰彦のプリンストン通信』第51号より一部抜粋

著者/冷泉彰彦(作家)
東京都生まれ。東京大学文学部卒業、コロンビア大学大学院卒。1993年より米国在住。メールマガジンJMM(村上龍編集長)に「FROM911、USAレポート」を寄稿。米国と日本を行き来する冷泉さんだからこその鋭い記事が人気のメルマガは毎月第1~第4火曜日配信。
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