西行辞典

  • ¥0

    無料

「西行の京師」の姉妹紙として発行します。内容は西行の歌・詞書、その他を網羅する、西行についての辞典としての発行をしたいと思っています。

著者サイト
 

メールマガジンを登録(無料)

もしくは

※ 各サービスのリンクをクリックすると認証画面に移動します。
※ 各サービスで登録しているメールアドレス宛に届きます。

メールマガジンを解除

もしくは

※ 各サービスのリンクをクリックすると認証画面に移動します。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
 
 
 
メルマガ名
西行辞典
発行周期
不定期
最終発行日
2018年05月18日
 
発行部数
128部
メルマガID
0000165185
形式
PC・携帯向け/テキスト形式
カテゴリ
アート・文芸 > 文芸 > 古典

まぐまぐ!メールマガジンの用語集です。
下記の用語以外の不明な点はこちらをご覧ください。

 
発行周期
週1回、月1回などの発行頻度です。
部数
メルマガの配信数を記しています。
カテゴリ
まぐまぐ!に登録されているカテゴリです。
形式
メルマガには以下の配信形式があります。下部「メルマガ形式」をご参照下さい。
 
最終発行日
最後にメルマガが配信された日付です。
メルマガID
メルマガを特定するIDです。
RSSフィード
RSSを登録すると、更新情報を受け取ることができます。

― メルマガ形式 ―

  • PC向け
    パソコンでの閲覧に最適化したメルマガ
  • 携帯向け
    スマートフォンやフィーチャーフォンでの
  • PC・携帯向け
    PC・携帯どちらでも快適にご購読いただけます。
  • テキスト形式
    文書だけで構成された、一般的なメールです。
  • HTML形式
    ホームページのように文字や画像が装飾されたメールです。
  • テキスト・HTML形式
    号によって形式が変更する場合があります。

閉じる

メールマガジン最新号

************************************************************

      ◆◆◆◆  西行辞典  ◆◆◆◆
                        
                  vol・371(不定期発行)
                   2018年05月18日号

************************************************************

           今号のことば    

         1 深山・みやま 03

************************************************************ 

         ◆ 御山・み山 03 ◆

【御山・み山】

「御=み・お」は美称の接頭語です。言葉の調子を整える意味でも
「み・御」の文字が用いられます。

皇族や特定の人物の陵墓がある場合は、その神聖さのためにも敬って
「御」の文字を前置します。また仏教関係の聖地ともいえる山も
同様に「御」をつける場合が多くあります。

山家集には「み山」と(み)がひらがな表記の場合には、接頭語と
してだけではなく、同時に深山の意を表している歌もあります。

「深山=みやま」と表記されている場合は、奥深い山を言います。
「深山」表記は詞書に4回あるばかりです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

     なき人の跡に一品経供養しけるに、寿量品を
     人にかはりて

13 雲晴るるわしの御山の月かげを心すみてや君ながむらむ
         (岩波文庫山家集211P哀傷歌・新潮890番)

○なき人

亡くなった人ですが、誰か個人名は不明です。

○一品経

法華経は二十八品ありますが、そのうちの一品ということです。
この歌では法華経第十六品の寿量品の教えを和歌にしています。
これとは別に西行には一品経和歌懐紙があります。
一品経和歌懐紙は1180年から1182年頃にかけての成立。国宝です。
法華経二十八品の一品及び述懐を詠じた2首からなる懐紙で、現存
する和歌懐紙では最も古いものと言われます。
作者は西行のほかに頼輔、有家、寂念、寂蓮、勝命、重保などが
います。
この和歌懐紙は西行自筆の歌稿として現存する唯一のものです。
下の二首が西行歌です。

 わたつみの深き誓ひのたのみあれば彼の岸べにも渡らざらめやは
        (岩波文庫山家集283P補遺・一品経和歌懐紙)

 二つなく三つなき法の雨なれど五つのうるひあまねかりけり
        (岩波文庫山家集283P補遺・一品経和歌懐紙)

○人にかはりて

代作をしたということですが、誰に代わっての代作か不明です。

○わしの御山

インドにあって、釈迦が無量寿経、法華経などを説いた山とされて
います。鷲の形をした山で原名「グリゾラ・クーター(鷲の峰)」
と呼ばれていたそうです。そこから、霊鷲山(りょうじゅせん)とも
言われます。標高は高くはなくて、丘という感じでしょうか。
ブッダ(釈迦)が創始した仏教は、インドでは13世紀にほぼ消滅
しました。以来、霊鷲山も風化、荒廃して、その所在地さえも
分からなくなっていました。
1903年に日本の本願寺の大谷探検隊がジャングルに埋もれていた
山を発見して、その山を釈迦が説法していた霊鷲山と同定したもの
だそうです。

○月かげ

仏陀の存在を月になぞらえての言葉。月=仏陀という感覚。

○君ながむらむ

死亡した「君」が月(仏陀)を眺めているということ。

(13番歌の解釈)

「雲が晴れた霊鷲山に照る月―釈迦の姿を、あなたは澄みきった
悟りの境地で眺めていらっしゃることでしょうか。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋) 

――――――――――――――――――ーーーーーーーーーーーー

     高野山を住みうかれてのち、伊勢國二見浦の山寺に侍り
     けるに、太神宮の御山をば神路山と申す、大日の垂跡を
     おもひて、よみ侍りける

14 ふかく入りて神路のおくを尋ぬれば又うへもなき峰の松かぜ
         (岩波文庫山家集124P羇旅歌・新潮欠番・
            御裳濯河歌合・千載集・西行物語) 

○高野山を住みうかれて

「高野」は地名。和歌山県伊都郡にある高野山のこと。
山は単独峰ではなくて、標高1000メートル程度の山々の総称です。
平安時代初期に弘法大師空海が真言密教道場として開きました。
京都・滋賀府県界の比叡山と並ぶ日本仏教の聖地です。
真言宗の総本山として金剛峰寺があります。
金剛峰寺には西行の努力によって建立された蓮華乗院がありまし
たが、現在は「大会堂」となっています。
西行は1148年か1149年(西行31歳か32歳)に、高野山に生活の場を
移しました。1180年には高野山を出て伊勢に移住したと考えられ
ますので、高野山には30年ほどいたことになります。

この間、高野山に閉じこもっていたわけではなくて、京都には
たびたび戻り、さまざまな場所への旅もしていますし、吉野にも
庵を構えて住んでいたことにもなります。

○伊勢國二見浦の山寺

この草庵の位置は二見浦の海岸線からは少し離れていて、安養山
(現在の豆石山)にあったそうです。

○伊勢の二見

三重県伊勢市(旧度会郡)にある地名。伊勢湾に臨んでおり、
古くからの景勝地として著名です。伊勢志摩国立公園の一部で、
あまりにも有名な夫婦岩もあります。日本で最初の公認海水浴場
としても知られています。西行は数年間、二見に住んでいました。

○太神宮の御山

伊勢神宮内宮の周囲の山。神路山のこと。

○神路山

伊勢神宮内宮の神苑から見える山を総称して神路山といいます。
標高は150メートルから400メートル程度。

○大日の垂跡

(垂迹と垂跡は同義で、ともに「すいじゃく」と読みます。)
本地=本来のもの、本当のもの。垂迹=出現するということ。

仏や菩薩のことを本地といい、仏や菩薩が衆生を救うために仮に
日本神道の神の姿をして現れるということが本地垂迹説です。
大日の垂迹とは、神宮の天照大御神が仏教(密教)の大日如来の
垂迹であるという考え方です。

本地垂迹説は仏教側に立った思想であり、最澄や空海もこの思想
に立脚していたことが知られます。仏が主であり、神は仏に従属
しているという思想です。
源氏物語『明石』に「跡を垂れたまふ神・・・」という住吉神社に
ついての記述があり、紫式部の時代では本地垂迹説が広く信じら
れていたものでしょう。
ところがこういう一方に偏った考え方に対して、当然に神が主で
あり仏が従であるという考え方が発生します。伊勢神宮外宮の
渡会氏のとなえた「渡会神道」の神主仏従の思想は、北畠親房の
「神皇正統記」に結実して、多くの人に影響を与えました。
                   (広辞苑から抜粋)

(14番歌の解釈)

「大日如来の本地垂跡のあとを思いつつ、神路山のおく深く
たずね入ると、この上もなく尊い、また微妙な神韻を伝える
峯の松風が吹くよ。」
          (渡部保氏著「山家集全注解」から抜粋)

(二見浦の西行)

西行の二見浦の草庵について興味深い記述があります。荒木田満良
(蓮阿)の「西行上人談抄」から抜粋します。
荒木田満良は伊勢神宮内宮の禰宜の一族であり、240Pに西行との
「こよひしも・・・」の贈答歌のある神主氏良の弟にあたります。
氏良と満良の兄弟を中心にして伊勢における作歌グループがあり、
西行はそのグループの指導的な位置にいたものと思います。

「西行上人二見浦に草庵結びて、浜荻を折敷きたる様にて哀なる
すまひ、見るもいと心すむさま、大精進菩薩の草を座とし給へり
けるもかくやとおぼしき、硯は石の、わざとにはあらず、もとより
水入るゝ所くぼみたるを被置たり。和歌の文台は、花がたみ、扇
ようのものを用ゐき(後略)」

生き生きとしたリアリティのある言葉で草庵の情景が描かれて
います。西行の二見の庵での生活のありようが容易に想像できる
表現です。
この草庵の位置は二見浦の海岸線からは少し離れていて、安養山
(現在の豆石山)にあり、三河の伊良湖岬に近い神島までが見えた
とのことです。
1180年からの伊勢在住時代の多くは、西行はこの庵を拠点にして、
伊勢の国の美しい自然に触れ、そして荒木田氏を中心とする人々
との交流を深める日々をすごしていたことでしよう。

しかし不思議なことに、伊勢在住時代の伊勢の歌が極端に乏しいの
です。伊勢神宮の歌はありますが、二見の歌や島々の歌などの多く
が、1180年からの二見で庵を構えて住む以前の歌と解釈できるの
です。二見に住んでからも島々を巡ったであろうことは容易に推測
できますし、なぜ二見に住んで二見あたりの歌が少ないのか、詠ま
なかったのか、それが謎です。
後世になり書写した人の手によって伊勢二見時代の歌が山家集に
補筆転入されたという可能性も考えられますが、伊勢神宮の多くの
歌が山家集にはないという事実から見ても、その可能性は低いと
みて良いと思います。
西行歌は散逸しているものが多いらしいのですが、もしそれが事実
なら、散逸した歌の中に、この時代の伊勢神宮以外の伊勢の歌も
多いのではなかろうか、と思わせます。

  遠く修行しけるに人々まうで来て餞しけるによみ侍りける

 頼めおかむ君も心やなぐさむと帰らぬことはいつとなくとも
     (岩波文庫山家集280P補遺・西行上人集追而加書・
                  新古今集・西行物語)

280ページにあるこの歌が、歌の配列などからみて、西行が二度目の
奥州行脚に旅立つ前に伊勢の作歌グループとの歌会で詠んだ惜別の
歌と見られています。口語体の分かりやすい歌であり、高齢に
なって長途の旅をする西行の心境が凝縮されています。
           (西行の京師第二部第11号から転載)

―――――――――――――――――ーーーーーーーーーーーーー

      みやだてと申しけるはしたものの、年たかくなりて、
      さまかへなどして、ゆかりにつきて吉野に住み侍り
      けり。思ひかけぬやうなれども、供養をのべむ料に
      とて、くだ物を高野の御山へつかはしたりけるに、
      花と申すくだ物侍りけるを見て、申しつかはしける

15 をりびつに花のくだ物つみてけり吉野の人のみやだてにして
  (西行歌)(岩波文庫山家集133P羈旅歌・新潮1071番・夫木抄)
                    
新潮版では下のように異同があります。

  思ひつつ 花のくだもの つみてけり 吉野の人の みやたてにして

○はしたもの

身分のない女性のこと。雑用係などをしている女性のこと。
平安時代当時は「はしたもの」は、召使い、雑用係の女性の呼称
だったようです。
男性に対しても言うと思いますが、手持ちの古語辞典二冊では女性と
特定しています。(はしため=端女)と言う言葉もあり、(はしたもの)
と対をなす言葉とも考えがちですが、(はしたもの=はしため)で、
同義のようです。
(端童=はしたわらわ)という呼称もあって、この場合は「召使の少女」
と岩波古語辞典にあります。大修館書店の古語林では「召使の子供」
とあり、性別は特定していません。

○さまかへ

年老いてから出家したということ。

○ゆかりにつきて

みやだて個人の縁故が高野山にあったとみなされます。

○花と申すくだ物

「くだ物=餅菓子」の一種だろうと思います。
あるいは花で有名な吉野からの贈り物だから、「花の吉野から
の果物」という意味合いがあるのかもしれません。
花弁状した餅菓子の名前。吉野の蔵王権現では正月に供えていた
餅を二月に砕いて僧俗多数に配ったとのことです。

鎌倉時代のことですが、東寺領の荘園の領民に課している様々な
年貢のうちの一つに「菓子(果物)八十合(80はこ)」とあります。
ですから果物という菓子については、案外、知られていたものと
思います。

○をりびつ

ヒノキなどの薄板を折り曲げて作った箱のこと。菓子、肴などを
盛る。形は四角や六角など、いろいろある。おりうず、ともいう。
                (和歌文学大系21から抜粋)

(15番歌の解釈)

「自分の桜の花を愛する心を知って花という名の菓子を送って
下さったあなたを思いながら、供養の料としての花の菓子を
仏様の前に積みお供えしましたよ。吉野の人であるみやたてに
ふさわしいお供えものとして。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

―――――――――――――――――ーーーーーーーーーーーーー

     小倉をすてて高野の麓に天野と申す山に住まれけり。
     おなじ院の帥の局、都の外の栖とひ申さではいかがとて、
     分けおはしたりける、ありがたくなむ。帰るさに粉河へ
     まゐられけるに、御山よりいであひたりけるを、しるべ
     せよとありければ、ぐし申して粉河へまゐりたりける、
     かかるついでは今はあるまじきことなり、吹上みんと
     いふこと、具せられたりける人々申し出でて、吹上へ
     おはしけり。道より大雨風吹きて、興なくなりにけり。
     さりとてはとて、吹上に行きつきたりけれども、見所
     なきやうにて、社にこしかきすゑて、思ふにも似ざり
     けり。能因が苗代水にせきくだせとよみていひ伝へ
     られたるものをと思ひて、社にかきつけける

16 あまくだる名を吹上の神ならば雲晴れのきて光あらはせ
         (岩波文庫山家集136P羈旅歌・新潮748番)

○小倉をすてて

小倉は京都市右京区の小倉山のことです。二尊院などがあります。
小倉山に待賢門院中納言の局が隠棲していたのですが、そこから
紀州高野山の麓の天野に住家を変えたということです。

○天野と申す山

和歌山県伊都郡かつらぎ町にある地名。丹生都比売神社があります。
高野山の麓に位置し、高野山は女人禁制のため、天野別所に高野山
の僧のゆかりの女性が住んでいたといいます。丹生都比売神社に
隣り合って、西行墓、西行堂、西行妻女墓などがあるとのことです。
                 (和歌文学大系21を参考)

「新潮日本古典集成山家集」など、いくつかの資料は金剛寺の
ある河内長野市天野と混同しています。山家集にある「天野」は
河内ではなくて紀伊の国(和歌山県)の天野です。白州正子氏の
「西行」でも(町石道を往く)で、このことを指摘されています。

○おなじ院

ここは後白河院ではなくて待賢門院のことです。

○御山

高野山のこと。この歌のころには西行はすでに高野山に生活
の場を移していたということになります。

○ぐし申して

「具し」で、共に、一緒にという意味。

○粉川

地名。紀州の粉川(こかわ)のこと。紀ノ川沿いにあり、粉川寺
の門前町として発達しました。
粉川寺は770年創建という古刹。西国三十三所第三番札所です。

○能因

中古三十六歌仙の一人です。生年は988年。没年不詳。俗名は
橘永やす(たちばなのながやす)。
若くして(26歳頃か)出家し、摂津の昆陽(伊丹市)や古曾部
(高槻市)に住んだと伝えられます。古曾部入道とも自称して
いたようです。
「数奇」を目指して諸国を行脚する漂白の歌人として、西行にも
多くの影響を与えました。
家集に「玄玄集」歌学書に「能因歌枕」があります。

「永やす」の(やす)は文字化けするため使用できません。
 
○あまくだる名

天界から降臨した神ということ。

天の川苗代水に堰き下せ天降ります神ならば神
(能因法師 金葉集雑下)

能因法師が伊予の国でこの歌を詠んだところ、雨が降ったという
故事を踏まえての歌です。

瀬戸内海、大三島の「大山祇神社」には、能因が雨乞いをした折に
幣帛を掛けたという楠の老樹があります。残念ながらほぼ枯れて
います。

○末の代

末法の時代ということ。
日本では1052年からだと言われています。時の天皇は第70代
後冷泉天皇、関白は藤原頼道の時代です。

○志いたりぬる

和歌を通して神仏への信仰、崇敬が最大に極まっていること。

○しるしあらたなる

神仏の霊験がはっきりしたこと。御利益のことです。

○若の浦

紀伊の国の歌枕。和歌山市の紀の川河口の和歌の浦のこと。
片男波の砂嘴に囲まれた一帯を指します。
和歌の神と言われる「玉津島明神」が和歌の浦にあります。
和歌に関しての歌で、よく詠まれる歌枕です。

(16番歌の解釈) 

「天くだってここに鎮まります神ではあっても、名を吹上の神と
申しあげるならば、雨雲を吹きはらい、日の光をあらわし給え。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

************************************************************ 

     深山霰

17 杣人のまきのかり屋の下ぶしに音するものは霰なりけり
          (岩波文庫山家集96P冬歌・新潮545番・
              西行上人集追而加書・夫木抄)

 杣人の まきの仮屋の あだ臥に 音するものは 霰なりけり
            (新潮日本古典集成山家集545番)

○杣人

山を生活の場とする人々のこと。樵や木地師などを言います。

○まきのかり屋

檜や杉などで作った仮の小屋の意味ですが、仮小屋というには
用材が立派すぎる気がします。本格的な住居ではないということ。

○下ぶし

新潮版山家集では「あだ臥」となっています。「あだ臥」は
一人で寂しく寝るという意味があります。

○音するもの

霰も激しければ大きい音がします。「音するものはあられなりけり」
の用例歌は和歌にいくつかあり、「音するもの」は「訪れるもの」
を連想させてくれます。

○まき

「真木・槙」という漢字を当てて、スギやヒノキなどのスギ科の
植物を言います。
「まき」とは杉の木も言いますが、これとは別に「杉」の名詞の歌も
6首あります。従ってここにある「まき」は杉以外のヒノキ科の樹
なのかもしれません。歌では「杉」と「真木」の厳密な区別が
なされて詠まれているのかどうかわかりません。
古語辞典によると「真木」とはスギやヒノキ以外の樹も建築用材と
して用いられているなら「真木」と言うようです。

(17番歌の解釈)

「山人が真木の小屋でひとり仮寝をしていても、霰が音を立てる
他は訪れるものとてない。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

************************************************************

  (後記)

本日は5月18日。天気は下り坂になりつつあります。雨が近いです。

京都三大祭の先陣を切って15日に加茂祭がありました。
加茂祭は「葵祭」とも言い、上下の両加茂社のお祭りです。平安
装束に身を包んで、斎王代を中心にして京都御所から両加茂社8キロ
メートル程を巡行します。京都の祭りのうち、最も古趣に富んだ
雅やかなお祭りだと言われています。

15日は暑くもあり、また、加茂祭の路頭の儀である巡行を私は何度も
見ているので行きませんでした。

加茂祭は飛鳥時代の500年代には始まったらしく、平安朝になって
からは官祭として執り行われました。西行にも葵祭のことに触れた
歌が数首あります。

祭りを行うにはたくさんの関係者の相当の尽力が前提条件です。どの
お祭りにしてもそうでしょう。そのご苦労を思う時、単なる傍観者の
一人にすぎない私なのですが、感謝の思いをこの場でお伝えしたい
ものです。

************************************************************

■  登録/解除の方法
  http://www.mag2.com/m/0000165185.htm

 ◎ メールマガジン「西行辞典」 は、
   上記URLよりいつでも登録及び解除が可能です。

■ ご要望、ご意見は下記アドレスまで。
  siokaze308@yahoo.co.jp

==============================

◎ 「西行辞典」第371号 2018年05月18日発行

   「創刊号発行 2005年08月10日」 

◎ 発行責任者 阿部 和雄
   http://sanka11.sakura.ne.jp/

◎ 発行システム インターネットの本屋さん「まぐまぐ」を
 利用させていただいています。
  『まぐまぐ』 URL: http://www.mag2.com/

==============================
メルマガ全文を読む
 

▲ページトップへ

▲ページトップへ