ある日の電車内で、騒いでいる子供の傍に母親はおらず、父親か祖父母しかいないことに気づいたという無料メルマガ『「二十代で身につけたい!」教育観と仕事術』の著者・松尾英明さん。松尾さんは今回、しっかり子供を叱れる大人の必要性を実例を挙げながら解説しています。
ある日曜日の、電車の中での気付き
その日は、マナーの悪い子どもに何人か出くわした。電車で通路を挟んで向かい合って、大声でしゃべり騒ぐ兄弟。車内で騒ぎ駆け回る子ども。座席の上に立ち上がって遊ぶ子ども。
親は何をしているか。横で、にこにこと「可愛いね」という笑顔で見ている。
騒ぐ子どもを連れる大人の共通項を見出だした。母親不在である。日曜日で、気をきかせて父親あるいは祖父母が連れて歩いているのかもしれない。
多分、母親がいたら、大方は「静かにしないさい」のピシャリで終わりである(それ以前に、座席の上に立ち上がったりしない)。
甘いのである。父親は、接する時間が短い。嫌われたくないのかもしれない。だから、悪いことやマナー違反を、叱らない。じじばばに至っては、ここに輪をかけてひどい。「孫を見る温かい目」である。
しかし、車内は、家じゃない。車内は社会である。周りの人と形成されている社会である。
ルールは、場にある。人にはない。場がルールを規定する。社会において、個人の教育方針は、優先順位が低いのである(だから、電車への「遅刻」は認められない。さようなら、次の電車をご利用ください、である)。
いい顔をするのは楽である。甘やかせば、子どもは「パパ、大好き!」となる。モノを存分に買ってやれば「じじばば、大好き!」となる。この割を食うのは、母親である。
子どもの「大好き!」に惑わされてはいけない。それは、「組み易し」という意味の可能性がある。要は、普段接する厳しい母親と違って「チョロい」のである。
しかしである。厳しさと本当の大好きは、両立する。ジャイ○ンと母ちゃんの関係である。クラス一の悪ガキをしつける母ちゃんは、誰よりも大変である。
子どものマナー違反は、ほぼ100%その場に一緒にいる大人の責任である。普段の学校なら、教師である。休日なら、親である。習い事なら、そこのコーチである。
ダメなことはダメと教えられる大人。誰にでもそう言われる、という認識が大切である。人を見て態度を変える子どもを育てているのは、周りの甘い大人である。
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