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聖徳太子は、やはりいる。縁の四天王寺を訪ねて聞いた菩薩の声

私達が歴史の授業で習うことは、果たしてその全てが「真実」なのでしょうか。歴史とは誰が作ったものなのか、そこに焦点をあてることで新たなロマンが生まれてくることもあるかもしれません。今回の無料メルマガ『おやじのための自炊講座』では著者のジミヘンさんが、聖徳太子ゆかりの「四天王寺」にて、蘇我氏と聖徳太子が活躍した古代の日本に思いを馳せ、その実像に迫ります。

大阪・四王寺

皆さん、お元気ですか。ジミヘンです。

結論を先に言ってしまえば、いわゆる「聖徳太子」とは、藤原氏が蘇我氏の業績を横取りし、蘇我氏を悪役に仕立てるために蘇我氏の業績をすべて「ひとりの聖者」のものに仕立て上げるために用意した偶像にほかならなかった、ということであろう。

(関裕二著:「蘇我氏の正体」より)

数年前から蘇我氏への興味が尽きない。飛鳥の地を地盤に権勢を振るっていた蘇我入鹿を、中大兄皇子と中臣鎌足一派が襲い、惨殺した。このクーデターを「乙巳の変」(645年)という。

「大化の改新」については、日本書紀によると「蘇我入鹿が律令制度導入に抵抗する等、専横を極めたため暗殺された」とされているが、これは後に日本書紀の編纂を行なった藤原不比等による捏造の可能性があると言われている。つまり、「歴史」というものは、権力者によって都合が良いように書き換えられる、ということだ。時の権力者は平気で公文書を”改ざん”するのである。

聖徳太子はいなかったいたのは厩戸王だ」という学者が現れて、小中学校の教科書では、厩戸王(うまやどのおう)を採用すると聞く。聖徳太子というのは後世の尊称だとの理由からである。

日本最古の寺のひとつとされる「飛鳥寺」(蘇我氏の氏寺)へ行ってみたいが、如何せん遠すぎる。そこで、ほぼ同時期に建立された大阪・四天王寺へ行くことにした。

用明2年(587)7月、仏教導入をめぐる物部守屋と蘇我馬子の政争は、ついに武力によって雌雄を決するときが来た。河内国渋河(大阪府八尾市)の物部守屋の館を、蘇我馬子率いる朝廷軍が取り囲んだのである。 (略) 聖徳太子はこのとき13歳で参戦していたが、戦況を冷静に分析していた。「これでは守屋を破ることはできないだろう。願掛けをしないとなしがたいだろう」といい、霊木を切り、四天王を彫り上げると、髪をたぐりあげ、誓いを立てた。「今もし我をして敵に勝たしめたまわば、かならず護世四王のために寺を興しましょうぞ」 (略) このように誓いを立てて兵を押し出すと、守屋勢はみずから崩れていったという。

(同上)

今から約1,400年前、593年に聖徳太子によって建立された四天王寺の前に私は立っている。澄み渡った青空に建つ五重塔が凛として見事である。

四天王寺は幾たびかの天災や空襲によって焼失し、現在見られるのは昭和時代に再建されたものだ。金堂に入り、ご本尊である救世観音菩薩」と対峙する。思ったより大きい菩薩半跏像は、周囲を圧倒し、私に語り掛けてくる。

いつもカリカリしてばかりで、疲れるだろう。気持ちを穏やかにして和を学びなさい。

民の苦しみを救うと言われるそのお顔は実に穏やかだ。前に向いた大きな手の平からはまばゆい光が溢れているようだった。

美しい回廊を巡り、仁王門を経て太子殿(聖霊院)を訪れた。ここには聖徳太子四十九才摂政像が安置されている。厩戸王は推古天皇の摂政として、冠位十二階・十七条憲法を制定し、国史の編纂、遣隋使の派遣を行い、中央集権国家の確立を図った。そして、仏教興隆に尽力した。それはすべて蘇我馬子と協調して行った政治であり蘇我氏の業績でもあった

西門を出る時、奇異なものを目にした。それは石造りの大鳥居である。寺院の入り口に鳥居がある。かつてわが国では、神仏混交が当たり前であったが、その名残がここにもあった。日本人って不思議だな。

image by: Shutterstock.com

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【著者】 ジミヘン 【発行周期】 週刊

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