45年前、北朝鮮に拉致されたとされる横田めぐみさん。その事件から半世紀近くもの歳月が流れた現在も、拉致被害者家族の皆さんは懸命に活動しています。今回のメルマガ『致知出版社の「人間力メルマガ」』では、拉致問題という国家間の重い扉を開いた横田滋さん、そしてめぐみさん自身について、弟である横田拓也さんが語ったインタビューを引用しています。
拉致問題の重い扉を開いた父・横田滋さんの決断
横田めぐみさんの拉致事件から45年もの歳月が流れましたが、日朝関係は依然、膠着状態が続いています。
『致知』1月号(最新号)では、めぐみさんの弟で「家族会」代表の横田拓也さんと、拉致被害者家族を一貫して支援してきた「救う会」会長の西岡力さんに、これまでの取り組みと、予想される今後の展開などについてお話し合いいただきました。
一刻も早い解決と被害者の皆様の帰国を祈らずにはおれません。
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西岡 「めぐみさんが13歳で新潟の海岸から拉致された時、拓也さんは9歳だったそうですね。
横田 「はい。いろいろなところでお話ししていますが、双子の弟である私と哲也から見た目線でも、親からの目線でも、めぐみはいつも明るくて朗らかで快活で、食卓を囲む時はいつも中心にいて場を和ませていました。
勉強も読書も大好きで、学校の中で一番よく本を借りていたということを後に先生から聞いたことがあります。いなくなる直前は中学校のバドミントン部に入っていて、練習は辛いけれども頑張ると言って通学していたのを覚えていますね。
当時、プロレスが流は行やっていたこともあって、私と哲也はよく取っ組み合いの喧嘩をしたんです。だけど、双子でも少し体が大きい私のほうがいつも悪役で(笑)、めぐみからも『拓也、やめなさい』とよく注意されました。
ある時、めぐみとも喧嘩をしてしまい、めぐみが大事にしていた人形を怒りに任せてぶん投げて壊してしまったことがあります。
でも、そこは姉の貫禄というのか、涙を流しながらも歯を食いしばって私を怒らないんですね」
西岡 「そうでしたか」
横田 「新潟に引っ越す前、広島にいた頃にはいろいろなところに家族旅行をしていて、父・滋は写真が趣味でしたから、家族が楽しむ多くの場面を撮影してくれました。そのようにどこにでもある平和な家庭の一枚一枚の写真が、後に救出運動のシンボルとして使われるようになったのはとても皮肉だと感じますし、逆に言えば、父が撮った写真から家族の幸せが伝わってくるからこそ、問題を動かす原動力になったのかもしれません。
実は、めぐみが拉致されたことが濃厚になって、実名を出すか出さないかという話になった時、新潟県のYさんやMさんでは誰の関心も呼ばないから、リスクを覚悟してでも「横田めぐみ」という名前を出そうと決断したのは父なんですね。
当時、北朝鮮は拉致を否定していましたから、そんなことをしたらめぐみが殺されるかもしれないと父以外の家族三人は強く反対したんですけど、いや出すべきだと。
父が本当にめぐみを可愛いがっていたことを私はよく知っていましたし、その決断に男親として父の姿を見る思いがしました」
西岡 「『家族会』が結成される頃から、私も横田さんご家族のご苦労の一端を目の当たりにしてきましたが、誰の理解も得られない本当に長く辛い期間を過ごされてきましたね」
横田 「子供だった私も小学生から中学生にかけて、友達に指を差されて『横田めぐみ、いないいない』と揶揄され、嫌な思いをしたことが何度もあります。家庭の中でも昨日までの明るい食卓は灯が消えたようになって、子供ながらにめぐみの名前を出してはいけないと思うようになりました。
めぐみがいつ帰ってきてもいいように、両親は毎晩玄関灯をつけたままにしていて、そのことはいま思い出しても涙が出てきます。
しかし、そういう中にあっても両親は……」
(無料メルマガ『致知出版社の「人間力メルマガ」』2022年12月8日号より一部抜粋)
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