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アメリカの「正義」に問う。原爆投下は一体何のためだったのか?

オバマ米大統領は5月27日、アメリカの現職大統領として初めて被爆地である広島を訪問します。しかしながら原爆投下に対する謝罪は行われません。アメリカ国内では今なお「原爆が終戦を早めた」という意見が多数を占めるといいますが、はたしてそれは事実なのでしょうか。無料メルマガ『Japan on the Globe-国際派日本人養成講座』では、専門家の仮説を交えながらその真実を探っています。

不必要だった原爆投下

アイゼンハワー連合軍最高司令官(後の米国大統領)は、スティムソン陸軍長官から、原爆使用の計画を聞かされた時の事を思い出して、次のように述べている。

彼が関連の事実を述べているうちに、自分が憂鬱な気分になっていくのが分かって、大きな不安を口にした。まず、日本の敗色は濃厚で、原爆の使用は全く不必要だという信念を持っていた。…日本はまさにあの時期に、「面目」を極力つぶさない形で降伏しようとしていると、私は信じていた。

当時の米陸海軍の高官たちは、異口同音に原爆使用が不必要だったと述べている。たとえば

アーネスト・J・キング米艦隊最高司令官
(原爆も日本本土への上陸作戦も必要ないとして)なぜなら、じっくり待つつもりさえあれば、海上封鎖によっていずれ石油、米、薬品などの必需品が不足し、日本人は窮乏して降伏せざるをなくなるからだ。

カーティス・E・ルメイ陸軍航空軍少将
(B29の空襲により、日本にはすでにめぼしい爆撃目標がなくなりつつあり)ロシアの参戦がなく、原爆がなくとも、戦争は2週間で終わっていただろう。

同様な見解を漏らした米軍人としては、ウィリアム・D・レイヒ海軍大将・大統領首席補佐官、チェスター・ニミッツ提督、ウィリアム・ハルゼー大将、ヘンリー・H・アーノルド陸軍航空軍司令官、そしてあのダグラス・マッカーサー元帥など枚挙に暇がない。

これら米軍高官たちの意見を無視して、トルーマン大統領は広島長崎に原爆投下を命じた。その狙いは何だったのか?

原爆という切り札

1941年5月6日、英首相チャーチルは、緊急の米英ソ首脳会談をトルーマンに提案した。ソ連は占領下のポーランドで傀儡政権を作り、16人の地下活動家を逮捕していた。このままでは東欧全域がソ連の勢力圏内に入ってしまう、と危惧したのである。

トルーマンの回答は、会談には賛成だが、7月15日以前では出席できないというものだった。「会計年度内に予算教書を作らねばならない」という理由に、チャーチルはあきれ、怒った。何度も早期開催を要求したが、トルーマンの返事は変わらなかった。

トルーマンが、ポツダム近郊でスターリンと会談をしたのは、7月17日正午であった。そのわずか21時間前に、米国ニュー・メキシコ州で世界最初の原爆実験が成功していた。

科学者たちは悪天候のために、実験延期を主張していたが、責任者のグローブス少将は強行させた。「ポツダムの事がそんな具合だったから、…延期できなかった」と後に語っている。トルーマンは、原爆という切り札を手にしてからスターリンと対決しようと考えていたのである。

トルーマンの強気

チャーチルは本会議の始まった瞬間からトルーマンが強気なのに驚いていた。原爆のことを知った後で、彼はスティムソン陸軍長官に語った。

昨日トルーマンに何があったのか、やっと分かった。私には理解不能だった。この(実験成功の)報告を読んだ後で会談にやってきた彼はまったく別人だった。とにかくロシア人に向かってああしろ、こうしろと指図し、初めから終わりまで会議を取り仕切っていた。

一方、スターリンも、スパイによって原爆の情報をつかんでいた。宿舎に帰ってから、モロトフ外相に言った。「クルチャトフに、すぐに連絡して、仕事を早めろといっておこう」。クルチャトフとは、ソ連の核開発の責任者である。

これが米ソの核軍拡競争の始まりであった。

ロシア参戦の前に片をつけたい

米国は45年4月半ば位までは、日本を降伏させるために、ソ連の参戦は必要不可欠だと考えていた。本土侵攻のためには、関東軍を満州に釘付けにしておかねばならず、そのためにソ連の北からの攻撃が必須であった。またソ連の参戦自体が、日本を降伏に追い込む大きな衝撃になりうると考えていた。

しかし、その後、米海軍が制海権を握ったことにより、関東軍の帰国を阻止できる見通しがついた。またB29による絨毯爆撃で、日本本土侵攻自体ももはや不要という見方が広がっていた。

さらにソ連を参戦させることは東ヨーロッパのような厄介な問題を極東に持ち込む恐れがある。「ロシアが参戦する前に何としても日本問題に片をつけたい」(バーンズ国務長官)というのが、当時のアメリカの本音だった。

スターリンは5月7日のドイツ降伏から3ヶ月たてば、対日参戦すると約束していた。8月の初旬である。後のニキタ・フルシチョフ首相は次のように回想している。

スターリンは軍の幹部に、できるだけ早く軍事行動を始めるよう圧力をかけた。…参戦する前に日本が降伏すればどうなるか。ソ連にはまったく借りがないとアメリカは主張するだろう。

日本は降伏しようとしている

冒頭で引用した「日本は降伏しようとしている」とのアイゼンハワー司令官の言葉は、まさに当時の米国首脳部に共通の認識であった。

日本の暗号はすべて解読されており、日本政府内のやりとりは筒抜けになっていた。7月12日には、東郷外相がモスクワの佐藤大使にあてた電報が傍受されている。

天皇陛下は、現今の戦争が日々、すべての当事国の国民により大きな災いと犠牲をもたらしていることに配慮され、心より早期終戦を望んでおられる。

そして戦争終結に向けてソ連の支援を要望する親書を携えた天皇の特使をソ連政府が受け入れるように要請していた。

日本の降伏を阻んでいた「無条件降伏要求」

日本の降伏に最大の障害となっていたのは、ルーズベルト前大統領が言い出した「無条件降伏」であった。無条件降伏ともなれば、占領、賠償金、領土割譲、戦争指導者の処刑など、戦勝国に何をされても文句は言えないわけで、国政に対して責任を持つ政府が受諾できるものではない。無条件降伏を求める事は、「全滅するまで戦うしかない」と相手を追い詰めることに他ならない。

降伏条件を明確にすることで、日本が望む降伏への道を早く開き、連合国側の犠牲を食い止める事ができる、というのが、当時の米国首脳部の一致した意見であった。

トルーマン大統領に対して、「降伏条件の明確化」を訴えていたのは、グルー国務長官代行、フーバー元大統領、レイヒ大統領首席補佐官、スティムソン陸軍長官、バード海軍次官、統合参謀本部など、米国指導者のほとんどであり、チャーチル首相と英軍トップの指導者全員がこれを支持していた。

さらに米国のマスコミも、ワシントン・ポスト、ニューヨーク・タイムズ、タイム、ニューズウィークなどが条件明示による早期戦争終結を主張していた。

削除された「天皇制容認」条項

日本側が受諾可能な降伏条件として、天皇制の存続を認めることが不可欠だという点は、米政府内の一致した見解であった。また国内外に残る数百万の日本軍に降伏を受け入れさせるためにも、天皇の命令が必要だと米軍トップは認識していた。

このような主張をもとに、米国務省、陸軍、海軍三省の合同委員会によってまとめられたポツダムでの声明案第12項には、次のように、天皇制の存続を認める一節が含まれていた

これらの目的が達成され、日本国民の総意を代表する平和志向で責任ある政府が疑いの余地なく樹立されるのと同時に、連合国の占領軍部隊は日本から引き揚げる。

 

そのような政府が将来の日本において侵略的な軍国主義の台頭を許さないという決意で平和の政策を実施すると、平和を愛好する国々(連合国)が確信をもてれば、現在の皇室の下で立憲君主制ということもありうる。

しかし、7月26日に発せられたポツダム宣言では、この後半部分がトルーマン大統領とバーンズ国務長官により削除された。

日本政府はそのために、ポツダム宣言をいったんは黙殺」したが、8月6、9日の広島長崎への原爆攻撃、および、8日のソ連の宣戦布告の後の10日、「国家統治の天皇の大権にいかなる変更も加えるものではないという了解のもとに」受諾した。翌11日、連合国側から日本の降伏を受け入れる回答がなされた。

日本側の条件は、まさにポツダム宣言から削除されていた天皇制容認条項と合致している。トルーマンはこの条項を一旦削除した上で、日本側から要求されると、すぐに了承したのである。

マッカーサーは「アメリカが後に実際にそうしたように、天皇制の維持に同意していれば戦争は何週間も早く終わっていたかもしれなかった」と述べている。

冷戦の最初の犠牲者

となると、問題なのは、なぜトルーマンが一時、ポツダム宣言から天皇制容認の条項を削除したかである。大統領の7月25日の日誌にはこうある。

われわれはジャップに降伏して命を救うように要請する警告の声明を発表する。だが、やつらは降伏しないであろう。

トルーマンは日本が受諾しないだろうと知りつつ、ポツダム宣言から天皇制容認条項を削除し、戦争を長引かせるような措置を意図的にとった事になる。

そして、同じくこの25日早朝には、ポツダムからワシントンの国防総省に、「8月3日以降なるべくすみやかに原爆を落とせ」という命令が届けらた。原爆投下はポツダム宣言発表の前日にすでに命令されていたのである。

トルーマンの意図について、歴史家のハーバート・ファイスはこう述べている。

原爆の威力を実際の戦闘で実証すれば、ソ連と対立していた問題の解決でアメリカ政府の威信を効果的に増大できるだろうと考えられていたことは大いにありうる。

 

そして、彼らは誇示する力が強力であることを望み、また、それは原爆の威力がおびただしい数の死傷者によって示されて初めて可能だと考えられたと、さらに推論することができる。

トルーマンは、ソ連を威圧し極東での発言権を封じるために、原爆の威力を実戦で見せつけ、原爆が「ソ連参戦でなく」日本を降伏に追い込んだという形を狙った。そのためには、原爆投下前の日本降伏は避けねばならずポツダム宣言を日本がすぐには受諾できないように改変した。これが、『原爆投下決断の内幕』の著者アルペロピッツが唯一成り立ち得る仮説として述べているものである。

原爆投下は第2次大戦最後の軍事行動というより、ロシアとの外交上の冷戦における最初の主要な作戦だった。

(イギリスのノーベル賞物理学者P・M・S・ブラケット)

とするならば、広島の20万人以上、長崎の7万人以上の死者は、米ソ冷戦の最初の犠牲者だったということになる。黙祷。

文責:伊勢雅臣

image by: Francesco Dazzi / Shutterstock.com

 

Japan on the Globe-国際派日本人養成講座
著者/伊勢雅臣
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