8月31日の自民党会合でも「憲法改正は立党以来の党是である」とまで言い切る、総裁選前の安倍首相。その強固な自信はどこから来るのでしょうか。元全国紙社会部記者の新 恭さんは自身のメルマガ『国家権力&メディア一刀両断』で、歴代総理が憲法改正への言及を巧みに交わしてきた事実や、自民党立党当時のエピソードなどを紹介した上で、安倍首相も関わった2005年の「自民党新綱領」から憲法改正の文字が盛り込まれ始めたという「真実」を明らかにしています。
本当に憲法改正は立党以来の「党是」なのか
次の国会にでも党の憲法改正案を提出したいと意欲を燃やす安倍首相。呪文のごとく繰り返すフレーズが「憲法改正は自民党立党以来の党是」である。つい先ごろの8月31日、自民党の会合でも、同じような趣旨の話をしたらしい。
首相は、1955年に自由党と民主党の保守合同で自民党が誕生した目的について、「占領下で憲法や教育基本法、様々な基本的な枠組みができた。この枠組みを自分たちの手で見直していこうと新たにスタートした」などと説明。そのうえで、「目的は後回しにされ、60年経ってしまった。自民党総裁を6年間務めた私には、憲法改正に取り組んでいく責任がある」と訴えた。(朝日新聞)
筆者はずっとこうしたたぐいの首相発言に違和感を覚えてきた。保守合同、すなわち自民党結党時に、憲法を見直すことを目標の一つとして掲げたのは確かであろう。しかし、結党の「目的」が憲法改正であり、それが「党是」だと言われると、いつからそうなったのかと問いたくなる。
戦後、自民党から選出された歴代総理には、改憲派もいれば護憲派もいたが、国会の議事録を見る限り、憲法改正が自民党の「党是」と明言した総理大臣は小泉純一郎氏が最初であり、党是だから実行すると主張する総理大臣は安倍晋三氏が唯一の人である。むしろ、自民党の「党是」か、「立党の精神か」と、総理の憲法観を追及する形で発言してきたのは野党議員だ。
昭和39年3月5日の参議院予算委員会。亀田得治議員(社会党)は同年1月の自民党大会運動方針に「結党と共に制定した政綱に、現行憲法の自主的改正を重要施策の一つとして公約してきた」と記述されていることに関し、次のように池田勇人首相の考えをただした。
「自民党は結党の際に立党の精神として憲法改正というものを取り上げたと解釈しておるこの文書、これは間違いですか、どうなんでしょう。総理、答えてください」
たしかに、結党時の「政綱」には「平和主義、民主主義、基本的人権尊重の原則を堅持しつつ、現行憲法の自主的改正をはかり」とある。しかし、最上位文書である「綱領」に「憲法改正」の文字はない。
「綱領」には
▽民主主義の理念を基調とする
▽平和と自由を希求する人類普遍の正義に立脚する
▽公共の福祉を規範とする
ーと国家づくりの三項目が記されているだけである。
池田首相の答弁は、つまるところこうだ。
「わが党の憲法に対する態度は、本年の大会で確認したとおり、憲法調査会の報告を待ちまして国民とともに考えていこうということでございます」
池田首相は憲法調査会の報告を待ちたいと答え「党是」だとは認めなかった。
しぶしぶ認めたのは次の佐藤栄作首相だ。昭和39年12月10日の参議院予算委員会。
稲葉誠一議員(社会党)「憲法を改正するということは自民党の党是だと認められるのでしょうか」
佐藤首相「そういう意味でいままで私自身が発言したことがありますから、それは間違いはございません」
それでも佐藤首相自ら「党是」であると明確に言ったわけではなく、憲法調査会を持ち出してこの議論をかわそうとしたのは池田と同じだった。現行憲法を守る姿勢を強調したほうが有利だという政治的思惑も絡んで歴代首相は「憲法改正」を封印する傾向が強かったのだろう。平和、自由、民主の観点から現行憲法を賛美する首相発言が通常のパターンだった。
たとえば、田中角栄首相の所信表明演説(1972年10月28日)。
「戦後四半世紀にわたりわが国は、平和憲法のもとに、一貫して平和国家としてのあり方を堅持し、国際社会との協調融和のなかで、発展の道を求めてまいりました」
タカ派の中曽根康弘首相でさえ施政方針演説(83年1月24日)でこう述べた。
「わが国の戦後の発展は、何よりも新憲法のもたらした民主主義と自由主義によって、日本国民の自由闊達な進取の個性が開放され、経済社会のあらゆる面に発揮されたことによるものであります」
先述したように、自民党の総理大臣として初めて憲法改正を「党是」と明言したのは、おそらく小泉純一郎氏であろう。平成13年5月21日の参議院予算委員会における発言。
小泉首相「自主憲法制定というのは自民党の党是であります。…憲法改正を言うと、右翼だとかタカ派だという、とり方が今まであった。そうではない」
それでは実際のところ、保守合同を成し遂げた中心人物たちは憲法改正にどのような思いでいたのだろうか。「自民党政治の変容」(中北浩爾著)には、「保守合同の最大の立役者は岸信介であった」と書いてある。
保守合同の4ヶ月前に発表された岸の論文の一節に以下の記述がある。
昨今における左翼勢力の進出については真剣にこれに対決する方法を講じなければならない段階に来ている。
結党時の文書「党の使命」には、現行憲法についてこう書かれている。
階級闘争は益々熾烈となりつつある。思うに、ここに至った一半の原因は、敗戦の初期の占領政策の過誤にある。占領下強調された民主主義、自由主義は新しい日本の指導理念として尊重し擁護すべきであるが、初期の占領政策の方向が、主としてわが国の弱体化に置かれていたため、憲法を始め教育制度その他の諸制度の改革に当り、不当に国家観念と愛国心を抑圧し、また国権を過度に分裂弱化させたものが少なくない。
これは岸信介氏の考えそのものであろう。
米ソ冷戦下における共産主義勢力に対抗するため、米国の支援で作られた側面も否定できないのが自民党である。岸信介氏は米国の期待を一身に集めた。
米国の占領政策を否定する復古的な内容を許容してでも反共の砦としての強い保守政党を米国は望んだ。その意向を受け、イデオロギー的な分野をリードしたのは岸氏だったといえる。
しかし当時の鳩山一郎首相はどうだったか。改憲派と見られながらも、憲法改正に積極的だったとはいいがたい。鳩山家に記者として出入りしていた渡辺恒雄氏によると、当時、鳩山首相が憲法改正を演説で唱えたことはなかったという。
「鳩山一郎回顧録」には、保守合同にいたった経緯がくわしく書かれている。
左右両派の社会党だけでなく、ワンマン吉田茂が批判を浴びて選挙に敗れた自由党までもが日本民主党の鳩山内閣に対して厳しい国会対応をしてきたという当時の政治状況があった。
「これではとてもたまらない」と政界の大立者、三木武吉氏(日本民主党)は1955年4月に突然、保守の大合同が必要だと言い出し、党内に波乱を巻き起こした。岸信介氏は諸手を挙げて賛成したが、三木武夫氏らは「いまさら何で自由党と手をつなぐのだ」と反発した。鳩山首相自身は「是が非でも保守合同という気持ちは持っていなかった」という。
鳩山首相は、保守合同については三木武吉、河野一郎両氏に任せていた。三木氏は保守合同にむけて工作を進め、目をつけたのが自由党の大野伴睦氏だった。
「自由党に人多しといえども国家のためとあらば、自分の利害も考えずに、裸になってぶつかることのできる男は君をおいてほかにいない」と情ですり寄る三木氏の迫力に、直情径行の大野氏がほだされ、それまで犬猿の仲だった二人の実力者が急接近した。
こうした工作が実を結ばなければ、自由民主党が誕生したかどうか、わからない。二人はそれぞれの党内に横たわる難題、意見の違いを、ひとつひとつ解決し、11月に保守合同を実現させた。その前月、両派社会党が統一されたが、そのもたらす危機感が、自由、民主両党内の合同反対論を鎮静化させた面もあるだろう。
こうしてみると、自民党結党には、さまざまな考えがからんでおり、憲法改正が立党の目的だとか、党是であるとかいうのは、今の政権の都合に合わせた一面的な見方に過ぎない。
自民党の「綱領」に憲法改正が盛り込まれたのは結党から50年を経た2005年11月22日のことだ。これを「新綱領」と称している。
ちなみに安倍晋三氏が自民党幹事長になったのが2003年9月、内閣官房長官に就任したのが2005年10月31日である。安倍氏が新綱領作成に深く関わっていたのは言うまでもない。
image by: 首相官邸