「これは嫌い」「これはやりたくない」という子どもに、どうすれば理解してもらえるか、悩んでいる親や先生は多いのではないでしょうか。そんな多くの方が抱えている悩みに、現役小学校教諭で無料メルマガ『「二十代で身につけたい!」教育観と仕事術』の著者である松尾英明さんが、目からウロコの回答を記しています。
〇〇をしない子どもにどう教えたらよいか
多くの先生の悩みの共通点は「〇〇をしない子どもにどう教えたらよいか」である。
結論から言うと、求めない相手に対しては何もしない、教えないことである。
子どもにとっては、その努力自体が余計なお世話ということがよくある。
学校の教師の辛いところは「学習指導要領に定められた内容を全員に身に付けさせる」という使命である。ここには、集団生活の様式も含まれる。
そしてここには、個人差などというものへの配慮はない。「私は図工だけやりたい」「体育はやりたくない」とかは原則認められない。給食のアレルギー対応の除去食のようなものの提供はできるが、学びの内容については除去による提供はできない。
だから、当然、それを欲しくない子どももいる。
なるべく何とか多くの子どもに興味をもたせるようにする工夫は必要である。しかしながら、最終的にそれを嫌いという子どもがいても仕方がない。
大切なのは、それを喜んで楽しんで享受する子どもへの提供である。それを嫌がる子どもがいるからといって、提供を止めてしまっては本末転倒である。「嫌い」に照準を合わせてしまっては、せっかくの興味の芽もしぼんでしまう。それぞれの分野における「好き」「得意」「もっとやりたい」に照準を合わせるのが基本である。
特別な支援を必要とする子どもたちがいる。ここへ支援するにも、必要な視点は「自立」である。あくまで、自立に向けた支援である。それは特別支援学校や特別支援学級だけの話ではなく、全ての子どもへ対する支援の在り方の基本である。
だから「つきっきりでないとやらない」という子どもにつきっきりになり続けることは意味がない。一生自分がつきっきりになることができるならいいが、そんなことできるはずがない。つかないとやらない子どもに、ついて無理にやらせても意味がないのである。
算数などでも同じである。一緒にやれば解けるという子ども。それは「なぞり」学習ができているだけである。「なぞり」を外した状態でできるようになることを目指す。具体的には、テスト段階で自力で解けるようにすることである。
だから、なぞりでできたからといって安心しない。友達に教えてもらった場合も同様である。なぞりや教えてもらってできたら、次に自力での演習を必ず求める。
そこで「自力がさっぱりついてない」ことを本人が自覚する。寄りかかってできていただけだとわかる。そこからが本当のスタートである。
基本的に、手厚くすればするほど、子どもは育たなくなる。成長の勝負の分かれ目はいかに「自分でやる」「自分の責任」と自覚する方向にもっていけるかどうかである。手放せるかどうかである。
可愛い子には旅をさせよ。
教育の基本中の基本である。
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