日本でも焼肉店に行くと必ずといっていいほどにメニューに載っている冷麺。韓国の伝統的な料理のひとつですが、日本ではどこが最初に冷麺を出し始めたのでしょうか? 今回のメルマガ『宮塚利雄の朝鮮半島ゼミ「中朝国境から朝鮮半島を管見する!」』では北朝鮮研究の第一人者である宮塚利雄さんが、日本での冷麺の歴史と、韓国での冷麺について驚きの事実を紹介しています。
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「焼肉店と冷麺」 冷麺は冬場の料理だった
私は『日本焼肉物語』を執筆した時に、冷麺については一言も言及していなかった。
これは私が冷麺に関心を示さなかったのと、日本における冷麺の歴史を調べる作業を怠ったからであった。「焼肉店と冷麺」よりも「ホルモン焼と冷麺」は、戦前から存在していたのである。
今では「タン塩」は、焼肉メニューの中でも定番中の定番と言われるが、現在のような焼肉店が日本に誕生したのは戦後直後のことである。
当時、タン塩のメニューはなく、大半の焼肉店で提供されていたのは、カルビ、ロース、レバー、ミノぐらいで、ごく一部の焼肉店では牛タンを提供するところがあったが、一般の人に知られているメニューではなかった。逆に焼肉店(ホルモン屋)には古くから冷麺がメニューとしてあったのである。
日本で焼肉店に「冷麺」を屋号に掲げたのは、大阪の食道園というのが定説であるが、看板や暖簾(のれん)に「元祖平壌冷麺」を掲げたのは、食道園よりも、神戸の「元祖平壌冷麺」店であった。
どこの店も元祖平壌冷麺を謳っているが、神戸の元祖平壌冷麺店は1939年の写真が残っており、ここに「ホルモン焼き」と「平壌冷麺」の文字をはっきりと読み取ることができる。
戦前の焼肉店(というよりもホルモン屋)の資料は多いが、どれも、活字(広告など)で、写真として残っているのは神戸の元祖平壌冷?店ぐらいではないだろうか。
我こそ元祖平壌冷麺店と名乗っているのは結構だが、それこそ「元祖たる証拠を示せ」と言えば、ほとんどの店は戦後にできた店の歴史を話さざるを得ない。
その点、神戸の元祖平壌冷麺店は看板に「カルビ焼 平壌冷麺屋 ホルモン料理」、暖簾に「平壌冷麺」の文字が描かれている。もちろん、戦前に創業した他のホルモン屋の中には、店の構えを写真で撮ったものを保存しているかもしれないが、公開されていないので、私は神戸の元祖平壌冷麺店こそが「元祖」と名乗れるのではないかと思う。
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食道園が1946年に創業した時の看板(2つのように見えるが)、上の方の看板には「焼肉 元祖食道園 冷麺」下の大きい看板には「平壌冷麺 食道園」とあるが、「麺」の字が「米面」となっている。
いずれにせよ、日本で初めて冷麺を屋号に掲げたのは、食道園で「平壌冷麺と焼肉の店」との定説は、しばらくは続くのではないだろうか(私は神戸の元祖平壌冷麺店を取材しなければならないのだが、コロナ禍にかこつけていまだに行っていない)。
さらに、食道園では日に3000杯に達する人気店に成長し、この成功を手本に焼肉店が全国に広がったと評価されている。
焼肉店と冷麺は、戦前から存在していたのであるが、私の日本焼肉物語には、このことについてまったく言及しなかったのは、著者の怠慢か勉強不足によるものと今では反省して深く反省している(後日、日本焼肉物語の改訂版が出るようであれば、焼肉店と冷麺を大々的に取り上げる予定)。
さて、冷麺は朝鮮半島に由来するが、冷麺の存在を始めて記したのは、朝鮮半島の文献『東国歳時記』(1849年)で、同書によると「冷麺は11月(新暦で12月)の季節料理として紹介されており、冷麺は夏の料理ではなく、冬の料理だったことがわかる。
朝鮮半島の冬、特に北部は寒さが厳しく、オンドル(床下暖房)で部屋をポカポカに暖め、その中でキンキンに冷えた冷麺を食べると格別においしく、食べた人は、アイゴーシオナダ(ああー、美味い、すっきりした)と言うのである。
本書で言う「北部が美味」の北部とは、平壌を指すと言われるが、山間地帯の北部は、ソバ栽培と発酵食品が豊かであるが、稲作農耕に適さないために、米食よりも粉食が食生活の中心であった。
さらに次号に続く。(宮塚コリア研究所代表 宮塚利雄)
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