ビジネスの現場であれプライベートであれ、近年富にその重要性が語られるタスク管理。しかしながらそこには思いもよらない大きな罠が存在しているようです。今回のメルマガ『Weekly R-style Magazine ~読む・書く・考えるの探求~』では文筆家の倉下忠憲さんが、自ら名づけた「タスク管理の呪い」について解説。その上で、「管理の行き過ぎ」に対して注意を呼びかけています。
タスク管理の呪い。管理すること、されること
タスク管理はタスクを管理することで、一般的には自己管理の集合に位置づけられています。セルフマネジメントです。
ところで英語の「マネジメント」と日本語の「管理」には結構違いがあって、それがうまく受容されていないな感覚が私にはあります。「マネジメント」と呼ばれていても、その実体は「コントロール」が意味されていることが多いのです。そのギャップが弊害を起こします。
基本的に「管理」=コントロールは、物に対して行うものです。非人間的存在を対象に取る、と言い換えてもいいでしょう。“資材”とか”記録”であればそれでも問題はありませんが、対象が人間になってくると途端に問題が生じはじめます。
ここでややこしいのが「タスク管理」という名前です。それをそのまま受け取れば「タスク」を対象にしているように思えます。タスクは“情報”であって“人間”ではありません。だから特に問題ないように感じるのですが、その実体は結局そのタスクを実行する「人間」を管理することになるのです。
■自分による自分の管理
さて、管理という行為の対象が「人」であることが問題だ、という話はイメージしやすいかと思います。横暴な上司を思い浮かべれば一発ですし、より過激に印象づけたければ歴代の独裁者を持ち出せばよいでしょう。
一方で、タスク管理→自己管理は「自分が自分を管理すること」であって、特に問題ないように思えます。少なくとも独裁者が好き勝手にやるのとはあまりにも距離があるように感じられます。
しかしながら、“タスク管理”において生じるしんどさはやっぱりそうした「管理」にあるのです。むしろきちんと「管理」しようとすればするほど、そこで生じるしんどさは増大していきます。
考えてみてください。ある人が「これからは、ちゃんとやろう」と自己管理を志したとします。その人は「管理したい」という気持ちに動かされて自己管理を始めるわけです。そりゃそうですよね。
そこで予定を決めて、プロジェクトを整理し、タスクを列挙します。完璧なリストの完成です。非常にうまく「管理」できている気分がします。
では、その後どうなるでしょうか。
その人はすでに決まっている予定の通りに行動し、すでに決まっているタスクを一つずつこなしていきます。まさにそうするために管理を始めたのですし、それができてはじめて「管理」していると言えるからです。
でもきっと苦しい思いをするでしょう。なぜならば、行動しているそのときの自分は「管理されている」からです。自分の思い通りにやることはできず、すでに決められたリストをただなぞるだけの存在になっています。
もう一度思い出してみてください。その人は「管理しよう」と思って一連の行動をスタートさせたのでした。何もかもを自分の思い通りに進めるためにさまざまなリストを作ったわけです。これを管理欲求と呼ぶことにしましょう。対象を自分の意志の支配下に置こうとする欲求。それが管理欲求です。
一方で、そうしたリストの作成を終えて実行の段階に移ったその人は、すでに決まっていることをやるしかない状況に追い込まれています。その決定を下したのが「自分」であることはここでは問題になりません。選択の自由を奪われている時点でそれは「管理されている」ことになります。その状態は管理欲求に激しく衝突するものでしょう。
これが苦しくないとしたらまったくの嘘です。
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■タスク管理の呪い
もしこうした状況に名前をつけるとしたら「タスク管理の呪い」と呼べるでしょう。管理欲求に突き動かされて行動すればするほど、その後の自分を「管理された状態」に置くことになります。人をのろわば穴二つではありませんが、自分で自分を苦しめているのです。
もしそうした苦しみを解消するために「もっと管理をしなければ」と求めたらどうなるでしょうか。もちろん、より自分の首を絞めるわけです。ここでは切実にアンビバレントな解決策が求められます。タスク管理によって生じる苦しさは、まず最初の「管理しなければ」という気持ちを低減させることでしか解消できないのです。
もちろん、管理されたくて仕方がないという人であれば自己管理は最高の娯楽となるでしょう。管理することそれ自身が目的となる、つまり「遊び」として行われる自己管理です。そうした管理はある種本末転倒ではあるのですが、実行者を苦しめることはありません。
一方で、対象を自分の意のままにしたいという気持ちで行われる自己管理は、自分で自分を苦しめるという結果を引き寄せます。ある時点Xの自分が、それ移行の時点Yの自分を拘束してしまうのです。
『Re:vision』という本で示したのは、そうした拘束からの脱却でした。ある時点で何かを決めることはする。でも、それを絶対的で固定的なものとして受け取らず、その時点の自分によって書き換えても構わないものとすること。そのような姿勢は「首尾一貫」や「初志貫徹」が尊ばれる文化では眉をひそめられるかもしれませんが、そんなことは気にしても仕方がありません。望まない苦しみにわざわざ飛び込むことを肯定するよりははるかにマシなことです。
もちろん、管理的な行為がまったく不要だというような自己管理アナーキズムを肯定しているのではありません。予定やタスクを管理することは大切です。でもその対象はあくまで情報に留めるのであって、人そのものまでに手を伸ばしてよいものではないでしょう。
別の言い方をすれば、「タスク管理」とはあくまで「タスク」を管理するのであってそれ以外は管轄外とする、というぐるっと一周回って自宅に帰ってきたようなスタンスがおそらくは好ましいのでしょう。
ともあれ、対象が自分であっても他人であっても、行きすぎた管理は弊害を多くもたらします。他人であれば抗議の声が上がってきて気がつける可能性があるのに対して、対象が自分の場合はそうした弊害に気がつかないまま長い間過ごしてしまう可能性があります。だからこそ重々気をつけたいところです。
(メルマガ『Weekly R-style Magazine ~読む・書く・考えるの探求~』2022年5月8日号の一部抜粋です。ご興味をお持ちの方はぜひこの機会に初月無料のお試し購読をご登録下さい。
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