先日掲載の記事で「脱Evernote」を宣言し、その後は同ツールからの退避を進めていたという文筆家の倉下忠憲さん。しかしここに来て、1年間の有料サブスクリプション契約を結んだといいます。なぜこのタイミングでEvernoteとの「再契約」に踏み切ったのでしょうか。倉下さんはその理由をメルマガ『Weekly R-style Magazine ~読む・書く・考えるの探求~』で明かしています。
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※本記事のタイトルはMAG2NEWS編集部によるものです/原題:Evernoteを懐かしむ
Evernoteを懐かしむ
Evernoteを触っていると、「どうです、有料にしませんか?」というプロモーションが何度も表示されるのにはもはや慣れっこになっていたのですが、一度「60%オフ」というオファーがあり、それだったら年間で4,000円くらいだからまあいいか、と思って再度契約してみることにしました。
旧アカウントで。
一時期7万を超えるまでノートを膨れ上がらせ、それで動作も遅くなり、検索の使い勝手も悪くなってしまったので、新しいアカウントを作ったのでした。
以降、新しいアカウントでEvernoteを使っており、よほどのことがない限りは旧アカウントは放置していたのですが、どうせサブスクリプションを契約するならば、ノートの数が少ない新しいアカウントではなく、溜まりに溜まった旧アカウントにしようと思ったのです。
それにEvernote10以降のバージョンアップで、アプリの動作はかなり快適になりました。これだったら7万ノートでも耐えられるのではないかと予想した次第です。
■再出発のための
とは言え、今後もEvernoteと長く付き合っていくことが前提の再契約ではありません。むしろ逆です。サブスクリプションを契約したこの1年間で、旧アカウントのノートを「整理」し、今後のデジタルノート生活に役立てていこう、という目論見があります。
その整理作業の際、いちいちプロモーションが表示されるのは鬱陶しいだろうというのが課金理由の一つで、「まあ、最近開発がんばっているみたいだし、お布施として支払っておこう」がもう一つの理由です。
というわけで、ひさしぶりに旧アカウントを開いてみました。ほんとうにめちゃくちゃたくさんのノートがあります。ノートブックの数も片手どころか両手の指でも数えられません。50個近くあります。
● 旧アカウントのEvernoteのノートブック | 倉下忠憲の発想工房
このノートブック群を分析し、自分がどんな情報を保存してきて、それをどのように使ってきたのかを明らかにした上で、じゃあ現状の環境においてそれをどう実装しようか、と考えるのがEvernoteエグゾダス計画の全容です。
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■度量の大きさ
その計画の進行は、このメルマガかニュースレターでお送りする予定ですが、それはそれとしてふと思いました。
「よくまあ、これだけのノートを集めたな」と。
脱Evernoteして以来、いろいろなデジタルノートツールを触ってきました。どれも独自の特徴を備えた素晴らしいツールたちです。しかし、それらのツールを使っていてもEvernoteのようにはノートが増えていきません。
一つには、私自身の「反省」があります。むやみやたらにノートを増やし過ぎてしまったがゆえに、Evernoteが混乱してしまった。その“失敗”を糧に、以降のノートツールではある程度厳選して情報を保存する使い方になっています。
もう一つには、ツールそのものの傾向があります。最近のツールは、単なる情報保存装置ではなく、PKMなどの知的活動をサポートする意図が強く出ています。Heptabaseなどはその好例でしょう。そうしたツールを使っていると、むやみやたらには情報は増えていきません。極言すれば、知的活動に「役立つ」情報しか保存しないのです。
その点を考えてみると、Evernoteは雑多でした。
アイデアメモやWebクリップなど、知的活動に役立つ情報も保存してはいましたが、それと並行して、日記、作業記録、プロジェクトノート、食事の記録などのライフログ、ツイートのログ、思いつきでとった写真、議事録メモ、引用ノート、勉強ノート……。
考えつく限りのものをEvernoteで保存していたように思います。「すべてをEvernoteに集めるぞ」という気概がその当時はあったのでしょう。そして、その気概を受け止めてくれる度量が──当時の──Evernoteにはありました。情報を保存するための経路が多く、AppleScriptにも対応していたので、工夫次第で自由自在に情報を保存できたのです。
だからこそ7万のオーバーのノートにつながった。
そういう歴史があったのだと思います。
■雑多さも踏まえて
考えてみたいのは、そうした雑多なノートは不要なのか、という点です。
たしかに、知的活動を進めていく上では選別は必要でしょう。なんでもかんでも集めていたのでは、情報に「作用」を与えることができず、そのまま死蔵させてしまうことは2008年からの10年間で学んできました。
一方で、いま旧アカウントを開いて「そうそう、こういうノートを作っていたよな」と振り返ることには純粋な楽しみがあります。この楽しみは、集まっている情報が雑多であればあるほど増強されるのではないか。そんな予想もあります。
とすれば、知的活動に向けたナレッジベースとなるデジタルノートツールと、生的活動(略して生活)に向けたライフベースとなるデジタルツールを切り分けて考えるのがいいのかもしれません。
実際、Obsidianを使いながらDayOneを使っている、という方もちらほら見かけます。それぞれに適した機能があるということと共に、情報を保存している場所が異なっている=文脈を分けている、という点が大切なのかもしれません。
「必要なものに絞る」「雑多に集めていく」
今後はこの二つの原理性を束ねて、デジタルツール環境を整えていこうと考えています。
(メルマガ『Weekly R-style Magazine ~読む・書く・考えるの探求~』2024年6月10日号の一部抜粋です。ご興味をお持ちの方はぜひこの機会に初月無料のお試し購読をご登録ください)
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