映画は、娯楽であると同時に、過去の出来事を後世に伝え、歴史を考えるきっかけにもなる。映画『開戦前夜』は、日米開戦前に「日本必敗」と予測した総力戦研究所を題材に、戦争を回避できなかった責任を問いかける作品です。しかし、その核心部分で史実と異なる人物像を描いたことから、遺族から名誉毀損で訴えられています。今回のメルマガ『有田芳生の「酔醒漫録」』では著者で衆院議員の有田芳生さんが、『開戦前夜』が用いた「歴史フィクション」という手法について、史実を伝える映画としてどこまで許されるのかを考えます。
映画『開戦前夜』の手法は許されるのか
映画は何のためにあるのか。山田洋次監督はかつてこんな趣旨の発言をしていた。労働者が毎日働いて、休日にお金を握りしめて映画館に行く。束の間の余暇を楽しみ、面白かったなと思ってもらうため、映画はあると。『男はつらいよ』シリーズなどを制作した気持ちだろう。一方で社会派映画もある。五味川純平原作の『人間の条件』もあれば、松本清張の『砂の器』もその系統だ。毎年、毎年、何本も制作されるヒトラーを題材にした映画も世界史を材にした作品だ。それに比べて日本映画で戦争を描き、告発するものは大岡昇平の『野火』を原作としたものがあるが、日本映画全体の中での比重は少ないのではないか。
『開戦前夜』を観た。台風の夜に若い世代も目についた。人気タレントや俳優陣で話題になっていることもあるだろう。そうであってもどんな映画として記憶に残るのだろうか。舞台はアメリカとの戦いをはじめる「前夜」。1941年12月8日の真珠湾攻撃から4か月前だ。政府が官僚、軍人、民間人の若きエリートを選抜して、アメリカと戦った場合の予測を研究させた。「総力戦研究所」だ。結論は「日本必敗」。それでも東條英機総理たちは天皇の裁可を受けてアメリカとの無謀な戦争へと向かっていった。310万人の死者を生んだのは誰の責任なのか。あの戦争は避けることができた。歴史への責任を問う映画であることは否定できない。こんな事実があったことを若い世代に伝える意味は大きい。
映画がはじまって「おやっ」と思った。すぐ小さな字で何か書いてある。急いで追うと、実在ではないフィクションとしての人物がいるとあった。調べると「架空の人物で登場する人物には特定のモデルは存在しません」という断り書きだ。これは映画が上映禁止の仮処分で訴えられていることを知らない観客には意味がわからない。そんなに気にもならなかっただろう。そしてストーリーが展開する。近衛文麿も東條英機も実名で登場し、それぞれの役割を演じる。歴史上の写真によく似ている。好演だ。架空の総理大臣として合理的判断を下した「宇治田洋一」は、実際には窪田角一という実在の人物だった。その家族構成などと名前はフィクションでも歴史上の役割に齟齬はなかった。つまりアメリカとの戦争は必ず負けて日本は悲惨な結果を被るというものだった。広島、長崎への原爆投下以外、日本の若きエリートたちの実証的研究と予測は、じつに的確だった。
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だが「総力戦研究所」の所長役は國村隼が演じた「板倉大道」は実在しないこととされた人物だ。若きエリートたちの判断をしばしば脅かす横暴で陰険な軍人だ。東條英機や昭和天皇がアメリカとの戦争を逡巡する人物像と描かれたのとは対照的に描かれている。ここに大問題がある。実在した研究所所長は飯村譲陸軍中将で、若きエリートたちに自由に研究をさせたからだ。この映画の核心をフィクションとして歪めたことは許されるものではない。あえて書けば歴史の捏造だ。この映画は昨年夏にNHKでドラマとして放送された内容を40分ほど長くして映画化している。
総力戦研究所の初代所長だった飯村穣中将の孫(元外交官の飯村豊さん)が、ドラマでの所長像が史実と異なり、開戦を容認するような人物として描かれたとして名誉毀損を主張。NHKや関係者を相手に損害賠償訴訟を起こし、映画の上映差し止めも求めている。製作側は「架空の人物で特定個人の名誉を毀損する意図はない」「歴史フィクションとして一般的な手法」と反論し、公開を続けている。「総力戦研究所」の所長については、フィクションの域を超えた捏造であることは言い訳できない。
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