台湾には、日本と台湾の歴史的なつながりを今に伝える場所が数多く残されています。メルマガ『宮塚利雄の朝鮮半島ゼミ「中朝国境から朝鮮半島を管見する!」』では、著者で宮塚コリア研究所代表の宮塚利雄さんが、「飛虎将軍」として祀られている杉浦茂峰氏の最期と、その後、台湾の人々によって廟が建立されるまでの経緯を紹介します。
台湾で日本人軍人の神社を知る
2026年9月19日から23日まで、「台湾好き」グループの仲間と旅行に行ってきた。
このグループとは2年前から3回にわたって台湾に行っているが、今回はいつも行っているコースのほかに、日月潭や八田與一の「烏山頭水庫風景区」、安倍元首相の銅像がある「赤毛港保安堂」、その他を見てきた。その中で、台南市にある「鎮安堂・飛虎将軍」という日本の軍人を祀っている廟を訪ねた。
「赤毛港保安堂」も「台湾で唯一、日本海軍の将兵と軍艦を祀る寺廟」として知られているが、台南市の「鎮安堂・飛虎将軍」のことは知らなかった。同所の案内パンフレットから、ここに祀られている「飛虎将軍」と呼ばれる日本の軍人について説明する。
台南市から北西5キロの郊外に、今も日本からの参拝者が絶えない「鎮安堂・飛虎将軍」がある。祀られているのは、太平洋戦争中、台南上空の空中戦で壮烈な戦死を遂げた大日本帝国海軍航空隊少尉「杉浦茂峰」(当時兵曹長)である。
なぜ、日本軍人が神として祀られ、「飛虎将軍」として尊敬されているのか。その悲話は……。
話は1944年10月12日に遡る。太平洋戦争も末期に近く、アメリカ軍はフィリピン攻略作戦の前哨戦として、台湾各地に空襲を行った。
その日の午前7時19分、アメリカ軍が台南に来襲。日本の「零戦」はこれを迎撃。20分には戦闘が開始された。日本軍は勇敢に戦ったが、数に勝るアメリカ機群に衆寡敵せず、一機また一機と撃墜されていった。中には体当たりを敢行した者もあった。
この空中戦を目撃した者の話によれば、一機の零戦も敢闘よく敵を制したが、いつの間にか無念にも敵弾を受け、尾翼より発火し、爆発が寸時に迫る危機に瀕した。
飛行士は部落を目がけて急降下の最中、何気なく地上を見たら、何と下は「海尾寮」という大部落。ハッと身も凍る思いに襲われた。
今飛び降りたら自分は助かるかもしれない。けれども、何百戸という家屋は焼かれるだろう。竹や木と土で造られた家屋は、いったん火が着くとすぐに焼かれるだろう。
こう判断した飛行士は、すぐに機首を上げて、上昇の姿勢に移った。上昇すると、部落の東側(同安路一帯。当時は畑と養殖池)に向かって飛び去った。
戦闘機は空中で爆発したが、飛行士は落下傘で脱出した。しかし、不幸にもグラマンの機銃掃射を浴び、落下傘は破れ、飛行士は高空から速いスピードで地面に叩き落とされ、仰向けの状態で畑の中(飛虎将軍廟付近)に落ちて戦死した。
軍靴には「杉浦」と書かれていた。その後、元第201海軍航空隊分隊長・森山敏夫大尉の協力により、「杉浦茂峰」と判明した。
終戦(1945年)後、何年か経ち、部落の人が白い帽子を被り、白い服を着た人物が常に養殖池付近を徘徊するのを目撃した。最初は闇夜に紛れ、魚を盗みに来た者と思い、追いかけていくが姿を消し、これは尋常なことではないと気付いた。
その後、この怪奇現象を見た者が増え、ある者は夢に出てきたと話し、このような話が至る所で起こり、人々は恐怖に慄いた。海尾朝皇宮の神「保生大帝」にお尋ねしたところ、戦時中の戦死者の亡霊だということであった。
その後、部落の人たちは、この亡霊は戦時中、部落を戦火から救うために自分の身命を犠牲にした飛行士ではないかと判断し、部落の恩人に感謝の念を捧げる方法を討論した。そして、台湾人の謝恩の最高の表現として祠を建て、永久に海軍航空隊杉浦茂峰少尉の恩を顕彰することに決定した。
1971年、祠が建てられた。祠は小さいながらも(敷地は4坪ほど)、部落の尊崇を集め、毎日遠近から多くの参拝者が訪れ、特に日本からの参詣者も年中絶えない。
1993年、朝皇宮管理委員会の提案で、4坪の小さい祠を再建することになる。
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