海外のほとんどの国では、学校の掃除を生徒たちがすることはないことをご存知でしょうか。では、なぜ日本では生徒が毎日のように校内を掃除しなくてはならないのでしょうか? 今回の無料メルマガ『「二十代で身につけたい!」教育観と仕事術』では、著者で現役教師の松尾英明さんが「思わず納得」の回答を示しています。
学校の掃除は「当たり前」か
以前にも書いたことだが、ほとんどの国では、学校で子どもが掃除をすることはない。他国における掃除は「学習内容」ではなく、「作業」であり「職業」だからである。
しかし掃除は、気付きの宝庫である。日本においては、学校で掃除をするのはいわゆる「普通」のことである。
ところで、掃除という内容は、法的にはどこに位置付けられているのか。2017年改訂の学習指導要領の「特別活動」には、その内容がある。「学級活動」の中の
(3)一人一人のキャリア形成と自己実現
の中の一つに
イ 社会参画意識の醸成や働くことの意義の理解
清掃などの当番活動や係活動等の自己の役割を自覚して協働することの意義を理解し、社会の一員として役割を果たすために必要なことについて主体的に考えて行動すること。
とある。つまり、キャリア教育の一環としてある。当番活動の中の一例である。ちなみに、学習指導要領解説の「生活編」の方には「掃除」の記述がある。
・手や体、道具を使って掃除ができる。
という内容例が示されている。逆にいうと、これだけなのである。「毎日掃除する法的根拠はない」という説があるが、これは正しい。法的には、毎日やる必要はないといえる。
しかしながら、掃除には教育的意義がある。教育的意義があるから毎日やるべきかどうかというのは、部活動と同じ話になってくる。ここには色々な考え方があり、ややこしくなるのでここでは論じない。
何がいいたいかというと、掃除は気付きの場として大切だというとらえである。掃除をするから、汚れに気付く。
一年生は、トイレ掃除をしない。だから、汚しても平気である。六年生が掃除をしてくれる。だから、六年生は、一年生に少しでもきれいに使って欲しいと願う。ただしこれは、真面目に掃除をしている六年生にしかない気付きである。
次の本から、引用する。
●『スペシャリスト直伝! 小1担任の指導の極意』宇野弘恵 著/明治図書
雑巾の役目は、汚れを雑巾に移すことです。これがわかっていないと、雑巾を滑らすだけで「拭いた」つもりになります。
こんな一見「当たり前」のことが、わかっていることが大切である。自分自身を汚すことで、他をきれいにする。それが雑巾。こういうことを、一年生段階で教えるべきだということである。六年生がやってくれるから、トイレのことも、教えないと気付かないのである。
自分自身が大変な思いをすることで、他を輝かせることができる。汚れない訳にはいかない。自分だけがきれいなものを使いたいというのは「きれいなもの好き」の人間の考え方である。「きれい好き」の人間は、自分が汚れても周りをきれいにする。そして、無駄に周りを汚さない。掃除は、そういうことも気付かせてくれる。
法的には毎日やる必要がない。しかし、やはり、意味がある。日誌を書かせるのと同じで、大変でも継続的にやらせたいのである。大変なことには「大きく変わる」可能性がある。
「掃除は当たり前」という考えに一石を投じてみたく、書いてみた。
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