日本の国技である相撲。今でも横綱と呼ばれる最高位に立つ力士は大きな話題となりますが、江戸時代にも圧倒的な強さを誇る伝説的な力士がいたのだそう。今回のメルマガ『歴史時代作家 早見俊の無料メルマガ』では時代小説の名手として知られる作家の早見さんが、江戸の相撲にまつわるエピソードを何点かご紹介しています。
行司が腰に短刀を刺しているのは「切腹」する為? 江戸の相撲あれこれ
雷電爲右エ門は相撲好きなら誰もが知る伝説的な力士、なんと九割六分二厘という勝率を残しました。活躍したのは江戸時代後期、寛政年間から文化年間です。十一代将軍徳川家斉の治世、天下泰平、江戸文化の花が咲き誇っていました。雷電は大関で終わりましたが、江戸時代は番付の最高位は大関でしたから、横綱に昇進できなかったわけではありません。
あまりにも強いので、雷電には使ってはならない技、つまり禁じ手があったと伝わっています。雷電は出雲国松江藩のお抱え力士でした。江戸時代の力士は大名に召し抱えられていたのです。大名は強い力士、人気のある力士を抱えるのが自慢でした。
参勤交代の際、力士たちは先頭で鑓を持ち、大名行列を飾りました。ちょっと横道にそれますが、大名たちは行列を豪華に見せるために家臣以外に大勢の中間を雇い、品川宿や千住宿という江戸の出入り口まで供に加えていたそうです。品川宿、千住宿を過ぎたら雇われた中間たちは御役御免、手間賃を貰って帰っていったのです。体面を重視した江戸時代らしいエピソードですね。
雷電を抱えたのは出雲国松江藩主、松平治郷で、号の不昧(ふまい)が有名です。松江藩は越前松平家に連なる徳川家親藩大名でした。不昧は文化人として知られ、特に茶道に造詣が深く、不昧流を起こします。
雷電は相撲が強いばかりか、主人不昧同様に教養があり、「諸国相撲控帳」「萬相撲控帳」といった相撲に関係した文書を残し、相撲ばかりか当時の風俗を知る上での貴重な史料となっています。文武両道の人であったのですね。
ところで、行司の最高位である立行司は腰に短刀を差しています。行司差し違いをしたら切腹する為だ、という伝説を聞くことがありますね。興味深い話ですが、これは間違いです。江戸時代までは行司はみな帯刀していました。帯刀していたのは織田信長に由来します。信長は相撲好きで、しばしば相撲興業を催しました。その際、信長の家臣が行司を務め、家臣は武士ですから帯刀しています。その名残として行司は腰に短刀を差すようになった、ということです。
ところが明治時代になり、明治政府が廃刀令を出すと行司たちも帯刀できなくなりました。それでは、行司の威厳が保てないということで、立行司だけ帯刀が許されるようになったのです。
それなのに帯刀しているのは差し違えたら切腹する覚悟を示している、という伝説が生まれたのは大正時代の立行司木村庄之助が結びの一番で行司差し違いを犯し、責任を取って辞職したことが原因でした。
差し違いで辞職したことがいつも間にか、おそらくは帯刀姿から切腹をイメージされるようになったのでしょう。
~中略~
信長が相撲を好んだのは強い力士を家臣に取り立てる、という目的もありました。合戦の際、身辺を守らせたのです。江戸時代の大名が御家の体面、評判を上げる為に力士を召し抱えたのに対し、極めて現実的な目的であったのです。
現代でも力士の後援者、いわゆるタニマチはひとつのステータスです。タニマチにはなれませんが、贔屓力士の奮闘に声援を送りたいですね。
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