【中島聡×辻野晃一郎】日本の技術者を殺す「ノリと雰囲気」とは? Google日本元社長とWindows95の父が語るAI革命と2025年のゲームチェンジ

2023.07.11
by gyouza(まぐまぐ編集部)
対談記事画像 (2)
 

2022年11月30日、米OpenAI社がリリースを公表して以来、日本中で「AIブーム」を巻き起こしている「ChatGPT」。今年4月には同社のCEOサム・アルトマン氏が来日、岸田首相と電撃面会したというニュースが報じられ、日本中に衝撃を与えました。あれから3ヶ月、耳にしない日はない「ChatGPT」によって日本および世界の未来はどのように変わっていくのでしょうか。マイクロソフトでWindowsやインターネットエクスプローラーの開発を指揮した伝説のプログラマーでメルマガ「週刊 Life is beautiful」の著者・中島聡さんと、「メルマガ『グーグル日本法人元社長 辻野晃一郎のアタマの中』~時代の本質を知る力を身につけよう~」の著者・辻野晃一郎さんのお二人に、この「AI革命」によって日本企業は生き残れるのか、そして、これからの私たちの働き方と生活がどう変わるのかについて語っていただきました。 (この対談をYouTubeで見る

技術を軽視しエンジニアを冷遇する日本のAI革命は成功するのか?

叶内文子(以下:叶内):『まぐまぐ!』のメルマガクリエイター対談スペシャル、本日は、メルマガ「週刊 Life is beautiful」の著者・中島聡さんと、「メルマガ『グーグル日本法人元社長 辻野晃一郎のアタマの中』~時代の本質を知る力を身につけよう~」の著者・辻野晃一郎さんにご参加いただきました。

今、ChatGPTが引き起こしたAIブームで日本中が大騒ぎになっておりますが、お二方はAIの中心プレーヤーであるMicrosoftとGoogleを牽引してきたリーダーでもあります。そんな貴重な経験をされてきた二人に、このAI革命で日本企業は生き残ることができるのか?また、私たちの働き方や生活はどのように変わっていくのかについてもお聞きしていきたいと思います。中島さん、辻野さん、どうぞよろしくお願いいたします。

辻野・中島:よろしくお願いします。

叶内:早速ですが、お二方は、お知り合いだとか?

辻野:さっきもちょっとお話ししていたんですけど、一度だけお会いしたことがあります。

叶内:一度だけなんですか?

辻野:そうなんですよ。ただ、それももう結構、前なんです。ちょうど2011年の3.11の直前に、私は当時、六本木にオフィスを持っていたんだけど、そこに中島さんに来ていただいた。その後、近くのミッドタウンのイタリアンレストランでランチをしました。

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中島聡氏

中島:そうですね。たしかミッドタウンができてちょっと経ったくらいでしたね。

叶内:何がきっかけで会うことになったんですか?

中島:あまりよく覚えていないんですけど、多分、いろいろ勉強したくて、お話を伺いに行ったんだと思います。

辻野:対談前に、メールのやりとりを遡って見てきたんですけど、僕が2010年末に最初の著作を出したんです。それを中島さんが読んでくださったそうで、それでコンタクトをいただき、お目にかかったんだと思います。

中島:そうなんです。その時に、意気投合して話し合いました。ただ、結果的にはそれっきり交流が切れてしまって。本来だったら、その後も交流が続けばよかったんですけど。ですから、辻野さんに会うのは、今日が2回目なんですよね。

叶内:そうなんですね。それでは、今日は貴重な対談ですね。

辻野:久しぶりに中島さんにお目にかかれて、とても嬉しいです。

中島:お久しぶりです。お元気そうで良かったです。

辻野氏「ソニーを辞め、ハローワーク通いからGoogleへ」

叶内:それでは最初に、お二人のご経歴をご紹介ください。辻野さんは最初ソニーに入社されて、その後、長らくソニーにお勤めになり、それからGoogleに転職されていらっしゃいますが、その経緯を教えていただけますか?

辻野:話し始めると長くなりますよ(笑)。僕は、Googleに転職したんじゃないんです。馬鹿みたいな話に聞こえるかもしれないけど、ソニーを辞める時は、転職先も何も決めず、ただ辞めたんです。自分の生き方に対する美学というか、つまらないこだわりみたいなのがあって、世話になったソニーに対するけじめとして、転職先を決めてから辞めるのは潔くない気がしたので、ただ辞めたんですよ。辞めた翌日から全くの無職です(笑)。

辞めてしまったら何もやることがなくて、失業給付の手続きで、それこそハローワークに行ったりしていたんですよ。ソニーで働いていた時には、もちろんハローワークになんて行ったことがないし、世の中の失業者のことをまともに考えたことすらもなかった。それで、興味本位もあって、ハローワークへ行きました。最初は入口に入るのにちょっと勇気が必要だったんですけど、思い切って入ってみたら、職員の皆さんがすごく親切でした。失業給付をもらうために、しばらくハローワークに通っていたのですが、そこでいろいろ職探しをしてみても、なかなか自分がやれるような仕事……というか、やりたい仕事なんか見つからないもんだな、と思いました。

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辻野晃一郎氏

そうこうしているうちに、ちょうど会社法が改正された年でもあり、自分で今の会社とは別の個人事務所みたいな会社を作って仕事を再開しました。その後、すぐにGoogleからお声掛けがあったんですが、何回も断ったんですよ。僕がソニーを辞めたのは48歳の時だったんですけど「今さらこの歳でGoogleへ行ってもなー」とか、大きい企業から抜けたばかりで、自分で独立して生きようと、いろんなプランも考えていたので、何度も断ったんです。しかし、結構しつこくお誘いいただいて。

それで、Googleの米国本社から、グローバルの製品担当責任者の役員が来日するので「会うだけでも会ってみませんか」と誘われて、アダム・フリードっていう人だったんですけど、会ってみたらすごく意気投合して、彼と話をしているうちに、「Googleって、昔のソニーみたいな会社なのかな」と感じました。それで、Googleへの興味が一気に高まって、Googleの採用プロセスにチャレンジすることにして、翌年からGoogleに行くことになったんです。

中島:それって、2007年ぐらいですか?

辻野:2007年4月にGoogleに入りました。2006年3月にソニーを辞めて、1年後の2007年4月からGoogleに入ったっていう経緯なんですよね。

叶内:「日系から外資に行きたい」とか考えていたわけでなく、ソニーひとつで完結していた話なんですね。

辻野:古い話になるんですけど、僕が就活してた頃に、日本の産業史に残る「IBM産業スパイ事件」というのが起きたんですよ。IBMの大型計算機の機密情報を盗んだということで、IBMとFBIが組んでおとり捜査をやったんです。そこで、IBM互換機を開発していた日立とか三菱電機とか、日本のまじめな技術者が何人か逮捕されたのですが、それが大きく報道されて、日本人としてものすごく屈辱的な気がしました。だから、その時に、単純ですが、「外資にだけは絶対に行かない!」と誓いました。だけど、グローバルに活躍したかったので、ソニーを選びました。それが、皮肉なもんですよね、それから二十年後に、Googleで働くことになったわけですからね。

なぜ日本のソニーはAppleになれなかったのか?

中島:ソニーを辞めた時は、出井伸之さんの時代ですか?

辻野:出井さんたちが一斉に退陣した後ですね。ハワード・ストリンガーとか、中鉢さんがトップになった時期で、もうソニーとしては、最悪の大混迷時代でしたね。

中島:その話だけでも1時間ぐらい話せそうですね(笑)。

辻野:もうたっぷり話せます(笑)。

中島:僕は、出井さんと2004年ぐらいに会っているんですよ。

辻野:そうでしたか。

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中島:Microsoftの成毛眞さんの紹介で食事に行って。なぜかわからないけど「ソニーはAppleを買うべきだ」って話を、一生懸命に出井さんに説得したんだけど、いい返事がもらえなくて。でも、僕は心の中で実は、本人も考えていたんじゃないかなとちょっと思うんですよね。

辻野:そうですね。出井さんは、実はAppleにかなり興味を持っていて、おっしゃるように、ソニーの内部では、当時、ちょうどスティーブ・ジョブズがAppleを追い出された後で、マイケル・スピンドラーとか、ギル・アメリオとかがいた頃ですが、Appleを買収するっていう話を真剣に検討していたんですよ。

だけど、まだ盛田昭夫さんとかが健在な時代だったんですけど、AppleじゃなくてColumbia Picturesを買う方向に行っちゃったんですよね。

叶内:そんな話があったんですか!

中島:これは大きな話だと思いますよ。会社の方向性の話で、ソニーは結局、メディアを買ったし、あと、出井さんはファイナンスの方向に出たじゃないですか。

僕の心の中では、ソニーはやっぱりエレキの会社だから、そんなよそ見をしていたら、求心力がなくなってしまうと思った。本来のソニーのビジョンから外れているじゃないですか。会社は変わるもんだから、それでいいと言えばいいけど、ちょっと残念でしたね、外のファンから見ていると。

一人のファンとして見ていても、ひょっとしてソニーの内部に軋轢があるんじゃないかなと感じていました。僕は久夛良木健さんともお会いしたことがあるんですけど、久夛良木さんは面白いことに「文官と技官」という言葉を使っていた。文官っていうのは、エンジニアじゃない人たち。つまり出井さんを代表とした文官たちに会社を乗っ取られちゃったみたいなことをおっしゃっていた。そういうことも、少しあったのかなと思いましたね。

辻野:この辺の話をし始めると、本当に止まらなくなりますけど(笑)、今だから言える当時のいろんな話があるんです。

中島さんも感じていたように、ソニーとAppleってすごく親和性がいいんですよ。スティーブ・ジョブズも「Appleをいつの日かソニーみたいな会社にしたい」と本気で思っていたとも言われていた。日本に来るたびに、スティーブ・ジョブズはソニーに遊びに来ていたんですよ。とくに盛田さんとは個人的にも仲が良くて。

だから彼は、日本の伝統文化や日本的な侘び寂びとか、シンプルさとか、そういうのにすごくこだわりが強いでしょう。製品はシンプルじゃなきゃいけないとか、そういうところで盛田さんからのアドバイスがいろいろあったようにも聞いています。

その頃の話で面白いことをもう一つ話すと、出井さんは社長になった時に全く無名だったんですよ。社長交代のニュースが出た時、僕はちょうどMicrosoftのイベントがあって、香港にいたんです。Microsoftのイベントだったから、古川 享さんも来ていたのですが、古川さんから、「出井さんって誰?」って聞かれました。「Idei Who?」っていう感じで、当時は全然知られていない存在でした。

だから、出井さんが着任したときに、Microsoftに行く機会があったようですが、ビル・ゲイツは出井さんを玄関で30分ぐらい待たせたんですって。それぐらい、知られていなかった。

でも、その後、ソニーのアメリカ法人を任せていたマイケル・シュルホフという、ちょっといろいろと問題のある人物を巡る処遇で、世間の出井さんを見る目が変わりました。マイケル・シュルホフは、出井さんの前任の社長だった大賀さんと仲が良かったので、なかなか彼を諫めることのできる人がいなかった。だけど、出井さんが「俺を取るか、マイケル・シュルホフを取るか、どっちかにしてください」と大賀さんに迫り、結局マイケル・シュルホフはソニーを辞めたんです。それで俄然、世の中の出井さんに対する評価が上がって、その後に出井さんが再びMicrosoftに行った時には、今度はビル・ゲイツが先に玄関で待っていて出迎えたそうです(笑)。

中島氏「下請けに丸投げのNTTから、技術者天国のMicrosoftへ」

叶内:今度は中島さんの経歴についてですが、NTTに入社されてMicrosoftに転身。でも、大学入学前にアスキーでアルバイトをされていたとか。

中島:そうですね。高校2年ぐらいからです。アスキーは最初は雑誌社だったので、自分で書いたパソコン、当時はマイコンと呼んでいましたけど、そのプログラムを載せてほしくて、原稿を書いて持ち込みで直接オフィスに押しかけたんです。高校生だったからかわいがってもらえて、「来なよ」って言われて、学校の帰りは、ほとんど部活のように南青山のオフィスに行って、何かプログラム書いたりしていて、いろいろと勉強させてもらって、すごく良かったですよ。大学も一応行きましたけど、大学よりもアスキーで学んだことのほうが多かったですね。

叶内:その頃から、バリバリの技術少年だったんですね。

中島:そうですね。バリバリの技術少年です。その時はすごくタイミングが良かったんですよ。まだほとんどプログラミングができる人が世の中にいなかったので。やっぱり高校生ぐらいだと吸収力が激しいし、あと他にやることが何もなかったんです。僕は、早稲田の付属に通っていたので、高校でもあまり勉強する必要がなかったし、もうずっとプログラムをやっていたので、あっという間に得意になっちゃった。

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当時のアスキーは、NECとかとも付き合っていたんです。そのNECが作ったソフトウェアが、僕から見るとどうしようもなくて、全部直すみたいなことを高校生でしていました。だから、すごく重宝されていましたね。とってもいいタイミングでプログラミングというものに出会えたと思いますよね。

叶内:その技術を生かしたお仕事をされようと思って、NTTに行って、Microsoftに入ったのですか?

中島:本当は、プログラミングはずっと趣味だったので、趣味に留めておこうと思っていたんです。

僕は大学院の修士まで行ったんですけど、ドクターも取りたくて。でも、ドクターだと論文を書かなきゃいけない。その時は、ソフトウェアじゃなくて、実はチップを僕は作りたかったんですよ。CPUの設計もして、論文を書いて、ドクターを取るという発想でNTTに入ったんですよ。

その頃はIntelのCPUがちょうど16ビットから32に変わろうとしていたぐらいかな。いろいろと面白いことが起きていて、特に僕はアセンブラまで書いていたタイプなので、ハードに近いところを知っていたから「ここはこうすれば速くなるな」みたいなアイデアをいっぱい持っていたので。それでチップを作らせてもらおうと思って、研究所に入りました。

でも、NTTに入ったら全然イメージと違っていたんです。やっぱり日本の会社だから、研究者が実際に手を動かさないんですよ。今でも多分、そうだと思いますけど。

叶内:手を動かさない?

中島:まずは企画書を書くとか、予算を取るのに莫大な時間をかける。それで予算が取れたら大きな仕様書を書く。そのあとは下請けに投げるんですよ。

叶内:自社ではなくて?

中島:そうです。そうすると、下請けの人がハードも設計もソフトも全部作ってくれるような会社だったので、ちょっとがっかりしちゃって。NTTに入社して1年ちょっと経った頃に、Microsoftが日本法人を作ったという新聞記事を読んだんです。そうしたら、アスキーから15人ぐらい引き抜いたと書かれている。その15人全員が僕が知っている人だったんです。それで突然、押しかけるようにMicrosoftに行った。

叶内:「僕も!」って?

中島:はい。勝手に電話をかけて「行きます!」って言って。その場で古川さんからOKをもらって、すぐに辞表を書いたら、NTT側でまた大騒ぎになっちゃって。私の場合は、仁義を切ることも考えていなかったので。いきなりNTTを辞めて名も何も知らないベンチャー企業に行くなんて、もう前代未聞のことで大変だったらしいです。危うくクビになるところだったっていう。よく分からないですよね。辞表を出しているのに。でも、教授は怒られるし、僕も怒られるし、本当に大変でしたよ。

叶内:NTTからMicrosoftに移られて、そこは技術者としてはとても居心地のいい場所だったんですか?

中島:そうですね。少なくとも技術者としては居心地のいい場所でした。でも、やっぱり日本法人だったので、やれることが限られているわけですよ。本社から来たものを日本語化するとか、漢字入力を作るとか。あと、日本でいうOEMメーカーさん、ソニーさんもそうでしたけど、日立とかNECとか、そういう人たちにMS-DOSとかを売っていたので、そのサポートをする。僕はWindowsだったけど。

そういう業務で、エンジニアとしては楽しかったけど、もうちょっと本格的にソフトを作りたくなって「本社に行きたい!」って、ずっと言っていて、3年経って89年に、やっとアメリカに転籍させてもらったという感じです。

自由闊達の伝統を支えたソニーのエンジニアたち

叶内:なるほど。辻野さんの場合も、最初のソニーの環境は良かったんですか?

辻野:もちろんです。もう憧れの会社でもあったし、日本の起業家が、本当にワンジェネレーションで世界企業にした、そういう意味ですごい企業だと思っていたので、他の日本企業にはほとんど目もくれず、最初からソニー決め打ちみたいな感じで入社したんで、ずっとハッピーでしたよ。

叶内:ソニーの伝統といえば「自由闊達」というふうに伺っていますが、そんな雰囲気だったんですか?

辻野:そうです。

叶内:でもその雰囲気がだんだんと失われてしまったのですか?

辻野:ソニーに限らず、会社というものは、どんどん成長していくと、いわゆる大企業病っていうものに罹ってしまうんですよ。Googleもそうだし、Microsoftもそうだった。だから、その大企業病を克服して、もう1回成長期を築き上げて、さらに飛躍できればいいんだけど。

MicrosoftにしてもAppleにしてもソニーにしても、そういう意味ではみんなどん底を味わっていて、そこからもう1回復活しているから、そこは3社ともすごいと思います。でも、基本的に企業っていうのは、社歴と共に徐々に大企業病に蝕まれて硬直化していき、効果的な手を打てないでいると、最後はリタイアしていく。

今の日本の産業構造は、経団連系の古い大企業がセンターに居座る構図になっていて、それが日本の活力を落としている要因の一つでもあると思っています。

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話はずれましたけど、いずれにしてもソニーはいろんなことを任せてくれて、とても自由闊達にやらせてくれました。

さっきもちょっと言ったけど、僕がGoogleに入る前に、向こうの役員と会う機会があって、「ソニースピリッツとGoogleスピリッツって、実はすごく似ているな」というのがGoogleの第一印象だったんです。「なんだ、Googleって昔のソニーみたいな会社なのか」と思った。

自由闊達という意味では、Googleもよくエンジニア天国と言われていますけど、もともと自律走行型の人たちが自分のアジェンダをGoogleに持ち込んできて、やりたい事をGoogleの経営資源を使ってどんどんやっていくみたいなイメージでした。

昔のソニーにも、本業は本業でしっかりやるんだけど、「本当は自分が作りたいものは、こういうものなんだ」というようなエンジニアがいっぱいいたんです。僕らはよく「放課後」って言い方をしていたんですけれど、就業時間が終わったら、作業台で会社の試作部品を勝手に使いながら、自分でプロトタイプを作っているような人が結構いたんですよね。上司もそれを見て見ないふりをして黙認してくれていて、面白い商品になりそうであれば、積極的にサポートして商品化を手伝ってくれました。でも、あんまりうまくいきそうもなければ、本人が傷つかないように、上手に闇に葬るみたいな、懐の深いマネジメントをしていましたね。

叶内:「放課後」活動いいですね。

辻野:ええ。本当に古き良き時代の話ですね。

中島氏がMicrosoftで体験した「作った者勝ち」の幸福

叶内:Microsoftはいかがでしたか?

中島:僕はちょうどトランジションの時期で、日本でMicrosoftに入ったのが86年。アメリカに転籍したのが89年ですけど、もうその時期はすごく元気な会社で、それぞれのエンジニアが好き勝手なことをしながら、そこでいいものができてきたら拾い上げてもらえるみたいな環境はありましたね。

僕の場合は会社が少し変化している時期でした。89年に最初に入ったMicrosoftはすごくちっちゃかったんですけど、いつの間にかものすごく大きくなって、400人ぐらいのグループになっちゃった。それで次世代OSを作るんだっていうことになった途端に、そのグループを僕は嫌になっちゃったんですよ。400人もいたし、10人もソフトアーキテクトがいて、僕はそのうちの1人です。10人もいると、船頭が10人いるような状況で、どこにも進めないんですよ。それで私はそのグループを辞めてWindows 3.1を作っていたグループに行きました。

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これは後からさんざん怒られたんですけど、前の大きなグループでプロトタイプを作っていたので、これをWindows3.1の上に載せちゃうよって言って、勝手に載せてできたのがWindows95なんですよ。なので、最初にいたグループにはものすごく恨まれています。でも、そういう僕のある意味、掟破りな行動も、会社としては許す感じだったんですよ。だから、すごく楽しくてやりやすかったです。

叶内:いいものを出すためには、掟破りもありですよね。

中島:もう作っちゃった者が勝ちみたいな会社だったので、動いていたら勝ちなんですよ。

叶内:動くことが勝ち?

中島:はい。

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