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急死の李克強元首相は本当に「日本への理解があるリーダー」だったのか?

10月27日、滞在先の上海で心臓発作により急死したとされる李克強元首相。李氏と言えば日本では「習近平国家主席のライバル」と位置づけられてきましたが、事実、彼は権力の掌握を目論んでいたのでしょうか。今回のメルマガ『富坂聰の「目からうろこの中国解説」』では、著者で多くの中国関連書籍を執筆している拓殖大学教授の富坂聰さんが、李克強氏の人となりを詳しく紹介。その上で、李氏を「与えられた職務を実直にこなす実務家」と評価しています。

「習近平のライバル」は本当か。李克強元総理とはどんな人物だったか

日本が中国をどう考えてきたか。

このテーマは日本の中国研究者にとって常に大きな関心の的であった。

一衣帯水と表現される両国の地理的な近さや漢字や箸を使うという文化や習慣を共有しながら、一方ではいかにも埋めがたい深い溝が存在してきたからだ。

単に政治体制の違いというだけでは納得しがたい深い「溝」だ。

李克強元総理の突然の訃報に接し、やはり真っ先に考えたのが、この日中間に横たわる「溝」についてだった。

もし同じタイミングで朱鎔基元国務院総理が世を去ったとしても、同じような発想をしたのではないだろうか。

李克強と朱鎔基に共通するのは、「日本への理解があるリーダー」と多くの日本人(とくに中国の関わりのある日本人)が考えてきたことだ。反日教育を推進した(これも誤解だが)江沢民に対する朱鎔基。強権政治の習近平に対する李克強という単純な比較がメディアでも定着している。李と朱は、「経済の分かるリーダー」として日本人ビジネスマンとの親和性を持つ。

こうした対比は、日本人の判官贔屓とも相まってか、「政治を誤る王」と「それを諫める宰相」という構図にも落とし込まれるのが一般的だ。

日本の紙誌で原稿を書くのであればそれも正解だが、現実の中国政治の実態を正確に表現しているのか、と問われれば首をかしげざるを得ない。

90年代、北京で数人の官僚たちと話していたとき、筆者が「朱鎔基は日本に理解がある」と発言した瞬間、彼らが一斉に凍り付いたことがあった。そして互いに不思議そうに顔を見合わせた後、一人の官僚が、「朱鎔基は中国人だ。しかも中国共産党(共産党)の党員で、組織の大幹部だ」と、少し憐れむようにつぶやいたことが忘れられない。

朱鎔基にせよ李克強にせよ、西側のメディアは常にその時代の体制に「抗う人」として彼らを位置付け、期待してきた。習近平国家主席の独裁的なやり方に疑問を持って対峙する人物として。

面白いのは、外国で暮らす多くの中国人も、これと同じ感覚を持つことだ。

中国で官僚や政治家への取材が困難になるなか、外国にいる中国人はより手軽な取材対象となり、この傾向は加速し、日本の報道の実態との乖離は顕著になっている。

また中国国内では、不動産不況やコロナ禍後の経済の回復が思わしくないなどの問題があり、その不満のはけ口として李克強元総理の急死を利用しようとする動きもあるが、これも発想は同じだ。

主にネット上での話だが、かつての胡耀邦元総書記の逝去と重ね、亡くなったリーダーへの思慕が天安門事件に結び付いたような、大きなムーブメントを李の死にも期待するような声が散見された。

だが、現状を見る限りそうした試みは不発に終わったようだ。

その理由は複数あるが、第一に習近平と李の確執がどのようなものだったのか、いま一つはっきりしない点が挙げられる。

李が晩年不遇であったのは間違いない。出身母体の共産主義青年団は習政権下で冷や飯を食わされ、凋落した。また総理がリーダーシップを発揮すべき経済分野で李の出番も少なくなった。経済政策をめぐる意見の対立も度々漏れ伝わってきた。

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李克強の経歴のなかで特に強調された功績

だが、二人の反目が党中央での合意形成が困難になるほど激しいものだったのか。また共産主義という価値観の枠を保てなくなるほど深刻だったかといえば、恐らくそうではなかったのだろう。

また実績という点でも、アンチ習政権の旗を背負わせられるほど際立ったものはなく、胡耀邦とは比較にならなかったこともある。

だが、それ以前の問題として、そもそも李本人は習と対決する人物として位置付けられることを望んだのだろうか。また習の方も李を徹底的に排除しようとしたのだろうか。疑問は残る。

少なくとも李の訃報を伝えたメディアの報道を見る限り、李の評価は高く、その名誉は党史に刻まれることになるのは明らかだ。

日本では昨年11月30日に死去した江沢民元中国共産党中央総書記のケースと比較されることが多いようだが、長い入院生活の後に世を去った江と、予定稿もないなか心臓発作で急死した李とではメディア(正確には党中央宣伝部だが)の対応が異なるのは当然だ。

李が心臓発作で亡くなった日は、たまたま政治局会議が北京で予定されていた。そのため早期の対応が可能だったが、そうでなければ第一報と訃報との間に時間差が生じていても不思議ではなかった。

結果、国民が注目する午後7時の中国中央テレビ(CCTV)『新聞聯播』は、「党中央、全国人民代表大会常務委員会、国務院、全国政治協商会議による李克強同志の訃報」(訃報)が12分14秒間にわたって流されたのである。

李が死に際して与えられたのは、「中国共産党の優秀な党員であり、長い試練に耐え忠誠を認められた共産主義の戦士であり、傑出したプロレタリアートの革命家であり、政治家、党と国家の卓越した領導者」という肩書だった。

江沢民は、「わが党、軍、各民族、人民が認める崇高な威光、人望のある卓越した領導者、偉大なマルクス主義者、傑出したプロレタリアートの革命家、政治家、軍事家、外交家、長い試練に耐えた共産主義の戦士、中国の特色ある社会主義の偉大な事業の傑出した領導者、党の第三世代の中央領導集団の核心、『三つの代表』重要思想の主要な創立者」である。

党中央総書記と党序列ナンバーツーという重みの差を考慮しても、決して李の扱いが低いわけではない。「新聞聯播」の番組の最後に流れる曲が、江沢民のときには流れず、李の場合にはいつも通りであった点を併せても、李を丁重に扱っていることは否定できない。

「訃報」の最後には、「李克強同志の逝去は、党と国家にとっての重大な損失である」と記述されている。

興味深かったのは、長々と紹介された李の経歴のなかで、多くの貧困層の就業問題や福祉を解決したなど、民生方面での功績が強調されていたことだ。

これは李が習と決定的な対立を望まなかったと考えられる点にも通じる話だが、これは「中国人で共産主義者」の李という以上に、現政権において価値のある評価なのだ。

李は貧しかった学生時代から現実的な考え方をする人物だったと評される。2008年に出版された『北大の精神』(中国出発集団出版)のなかで、1977年の大学受験に臨んだ当時の李が、志望校を書く欄に、地元の師範大学を最初に、二番目に北京大学を書いたというエピソードがあるが、結局、高校の恩師に強く推されて北京大学を受験したという話は象徴的だ。

つまり李は、与えられた職務を実直にこなす実務家であり、習の権力をうかがう野心家の役割を演じさせるには、少々無理がある人物だったのではないだろうか──(『富坂聰の「目からうろこの中国解説」』2023年10月29日号より一部抜粋、続きはご登録の上お楽しみください。初月無料です)

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image by: Celso Pupo / Shutterstock.com

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1964年、愛知県生まれ。拓殖大学海外事情研究所教授。ジャーナリスト。北京大学中文系中退。『週刊ポスト』、『週刊文春』記者を経て独立。1994年、第一回21世紀国際ノンフィクション大賞(現在の小学館ノンフィクション大賞)優秀作を「龍の『伝人』たち」で受賞。著書には「中国の地下経済」「中国人民解放軍の内幕」(ともに文春新書)、「中国マネーの正体」(PHPビジネス新書)、「習近平と中国の終焉」(角川SSC新書)、「間違いだらけの対中国戦略」(新人物往来社)、「中国という大難」(新潮文庫)、「中国の論点」(角川Oneテーマ21)、「トランプVS習近平」(角川書店)、「中国がいつまでたっても崩壊しない7つの理由」や「反中亡国論」(ビジネス社)がある。

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【著者】 富坂聰 【月額】 ¥990/月(税込) 初月無料 【発行周期】 毎週 日曜日

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