「挨拶をしなさい」「履物をそろえなさい」子供の頃、誰もが一度は言われた言葉ではないでしょうか?しかし、なぜそれをするのか考えたことはありますか?自己改革小説の第一人者である喜多川泰さんは、自身のメルマガ『喜多川泰のメルマガ「Leader’s Village」』の中で、挨拶をし、丁寧に生きることの意味について探っています。
『いただきます』言ってる?
そもそもどうして
「挨拶をしなさい」
「履き物を揃えなさい」
「掃除・片付けをしなさい」
「凡事徹底」
ということを教えるのか。
今の時代(昔も少なからずそうだったかもしれないが)親の子どもに対する教育はほとんどすべてが「子どもの幸せのために」に紐づいている。
つまり、そういうことを守れる人の方が将来幸せになれるから、親はそれをやらそうと思うし、子どもは「それなら」とそれをやろうとなる。
ところが、例えば履き物を揃えるとか、掃除をするといった習慣は、続ければわかるが、そう言った習慣を持っている人の方が「損をしている」と感じる場面が結構多い。みんなは全くそういうことを気にしていないのに、自分だけが時間と労力を費やして、真面目に生きている。それによって報われることがたくさんあればいいのだけれどもそうでもない。
挨拶もしない、履き物も揃えない、掃除・片付けをしないで逆にゴミのポイ捨てなんて平気で行うそんな人の方がむしろ自分よりも自由気ままに人生を楽しんでいるように見えることすらある。そうなると自分ばかり真面目に生きるのがバカらしくなる。
そういう経験をしたことがあなたにもあるかもしれない。
つまり「幸せになるため」や「損得勘定」でこれらを自分の人生に取り入れようとしてもそれを身につけ、一生それを続けるのは難しいということだ。
人生の幸せや、欲しいものを手に入れること、損得といった価値観と、これらの凡事徹底は関係性が近いようには見えない。
では、やらない人になるのか。
とりわけ子どもの頃はやっていたけど、大人になったらもうやらなくていいのか、ということになる。
大事なのはそれをすることでどんな得があるかじゃない。
得することがあろうがなかろうが「自分はそんな人でありたい」と思える人になることだと思う。
そう思い生きる人は、家族の、地域の、国の、人類の宝だ。
この記事の著者・喜多川泰さんのメルマガ
先日宮崎で行われた講演会で、日本講演新聞の水谷もりひと編集長がおすすめしていた、三浦綾子さんの「泥流地帯」という本がある。ネタバレに触れるので、読もうと思う人はこのメルマガを読むのはここまでにして、作品を読んでから続きを読んでほしい。
時代は大正。北海道に移住してきた村でのお話。何も育たなかった不毛の地を三十年かけて開拓しながらなんとか生活を続ける人々。その生活は極度に貧しく入口が莚戸の家もある。そんな村のある家族の物語。真面目に丁寧に働き続けるが生活は苦しくなるばかり。一方で誰かの弱みにつけ込んで金儲けをするものがどんどん暮らしが豊かになる。
それでも真面目に丁寧に生き続けた主人公の家庭では、子どもたちが大人になりそれぞれ仕事を持ち、十数年かけてようやくほんの少しだけ未来に明るい兆しが見え始めた。がその瞬間、山津波が起こり、開拓したすべての土地と増築したばかりの家、優しく真面目に生きてきた人々の命を奪っていく。
狡猾で、人の弱みにつけ込むような人が、豊かになり生き残る一方で、優しく、真面目で、親切な人たちが、ささやかな幸せを手にすることなく、何の報いも受けずに亡くなってしまう。
主人公は、亡くなった祖父と妹の亡骸を前に理不尽さと悔しさに打ち震える。
「どうして、優しくて親切な人たちばかりが何の報いも得ることなく悲惨な目に遭い続けなければならないのか」
そのときに、祖父が生きていたらどういうだろうかということを考えるんですね。
そして結論は、それでも優しく、真面目に、丁寧に生きるだろうというもの。
何を手にしたのか、夢を実現したのか、人生の中でどれほど思い通りいったのか、儲かったのか、得をしたのか…そういったことが重要ではなく、「私はこうありたい」という人間像を、周りはどうであれ、運命がどうであれ、変えずに生き続ける。
そういう生き方に人としての美しさをたまらなく感じる。そんな作品なんです。
挨拶をするのが大事なのは、それをする人が幸せになれるからでもなければ、いい思いができるからでも、その方が得をするからでもないーーー(『喜多川泰のメルマガ「Leader’s Village」』 2025年8月22日号より一部抜粋、続きはご登録の上お楽しみください。初月無料です)
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