現在、民主主義国家として国際的に注目される台湾ですが、その歩みの背後には、長い抑圧の時代と、多くの犠牲がありました。メルマガ『黄文雄の「日本人に教えたい本当の歴史、中国・韓国の真実」』では、台南にある王育徳記念館の再公開に際し、台湾がどのようにして民主主義へとたどり着いたのかを改めて考えています。
【台湾】台湾を民主主義に導いた功労者の一人・王育徳とは
◎台南の王育徳記念館、30日に再開 台湾語研究の先駆者 日本語でも解説(フォーカス台湾)
日本では衆院選が公示され、各党による選挙活動が始まりました。有権者としての我々国民は、各党の政策内容をしっかりと見極め、清き一票を投じる義務があります。
選挙権が国民にあるということは、民主主義国家の根幹です。しかし、それが当たり前になってしまうと、それほど有難さを感じなくなってしまうのが人の性です。そこで、今回は国民主権の意味を改めて考えさせてくれるニュースをご紹介しましょう。
『台湾語研究の先駆者や台湾独立運動家として知られる王育徳(おういくとく)を紹介する南部・台南市の王育徳記念館が30日、公開を再開する。昨年8月から実施していたリニューアルを終えた。
同市政府文化局の黄雅玲局長は26日、報道資料を通じ、同記念館は2018年の開館以来、王の精神を中心として研究や展示、教育普及を結び付けた運営を行っていると説明。リニューアルでは展示設備の改善や資料の修復などの他、王の台南での生活を紹介する展示も新たに加わったと紹介した。
また、言語の平等や人権教育、市民参加を主軸にした取り組みを引き続き進めると言及。開催3年目になる若者を対象にした講座・ワークショップでは、異なる分野のアーティストや活動家を招いて主に台湾語による交流や対話を行っており、母語や公共的な議題に対する社会の関心を深めていると語った。
開館は午前9時から午後5時までで、毎週月、火曜は休館。同局から提供された写真によると、展示には日本語での解説も取り入れられている。』
王育徳という人は、今の日本人、特に若者で知っている人はほとんどいないでしょう。台湾人の若者の間でも、それほど知られている人ではありません。だからこそ、今一度、王育徳という人物はどのような生涯を経てきたのか、なぜ知名度が低いのに記念館が作られているのか、についてぜひ知ってほしいと思います。王育徳の生涯については、記念館が建設された当時、娘の王明理氏によって書かれた記事がありますので、少し長いですが引用します。
『王育徳は1924(大正13)年に台南市本町(現在の民権路二段)の海産物問屋に生まれた。日本統治が始まって30年がたった頃で、日本の行政やインフラ、教育制度が台湾全土に行き届いた時期であった。
親の意向で父の兄弟姉妹は日本人が入る良い学校へ進学することを目指しつつも、一方では自宅に招聘(しょうへい)された漢学者から漢文教育を受けて育った。育徳の父親は家業のほかに社会事業家としても知られ、育徳は敬愛する兄、王育霖と将来台湾社会の役に立つ人間になろうと約束し、兄と同じ台北高等学校、東京大学へ進学した。
しかし、戦況の悪化のため学業途中で台湾に疎開し、そのまま終戦を迎えた。戦後の台湾では日本の作った秩序は脆くも崩れ去り、代わって進攻してきた国民党の下で台湾人全般が重要な社会的ポストからはじき出され、中国人の下で呻吟(しんぎん)することを強いられた。
育徳は台南一中の教師の職を得たが、その傍ら演劇活動にも取り組んだ。子どもの頃から劇に親しみ文学好きだった育徳に演劇は性に合っていたようで、原作、脚本、演出、主役までこなし、一躍時の人となったが、劇中で国民党政権を風刺したことから、政府に目を付けられ、それが後に亡命を余儀なくされる原因となった。
47年の二二八事件で未来を嘱望された多くの台湾人が虐殺されたが、兄の育霖も犠牲者の一人となった。育霖は台湾人で初めて日本の検事になり、戦後は台湾の法曹界を担うつもりで帰国し、新竹市の検察官となったが、正義感が強かったが故に中国人ににらまれ、わずか28歳で命を奪われてしまった。
国民党政権の監視の目は厳しさを増し、育徳の周りでも演劇仲間や同僚教師、教え子が次々と逮捕されていった。このままいれば命が危ないと諭された育徳は、台湾を一時的に離れる決心をし、49年、25歳の時、パスポートもビザも持たずに香港経由で日本へ脱出した。翌年、国際情勢から見て台湾の蒋介石政権は継続しそうだと判断した育徳は帰国を諦め、妻子(筆者の母と姉)を呼び寄せた。そして、53年日本に正式な亡命を認められた。』
● 「王育徳紀念館」:一生を台湾の夜明けにささげた生涯を振り返る
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戦後、日本が去った後に台湾に入って来た蒋介石率いる国民党政府は台湾人を徹底的に弾圧しました。いわゆる二二八事件以後の「白色テロ」の時代です。
日本に亡命した後の王育徳氏は、東京大学大学院に在籍し、「台湾語の辞書『台湾語常用語彙集』を出版し、後に「台湾語音の歴史的研究」により文学博士となった。大学で教える傍ら、台湾文学の研究、台湾独立運動(中華民国体制からの独立)、台湾の歴史書の執筆、台湾人元日本兵士の補償請求運動などに全力を傾けた」、とアカデミックな世界に身を置きながら、台湾人のための努力を惜しみませんでした。
今でこそ、台湾の若者は「天然独」(生まれながらの独立派)と言われるように、民主主義を当然のごとく謳歌していますが、今のような体制になったのは1988年に李登輝総統が誕生してからであり、本当にここ数十年のことです。
王育徳氏が編纂した台湾語の辞書は、今でも台湾語を学ぶ人たちのバイブル的存在です。彼は激動の時代を生きていく中で、諦めず、努力を惜しまず、台湾に人生を捧げた人でした。家族の理解があったことも大きな力となったことでしょう。
記念館の建設の経緯について、娘の王明理氏はこう言っています。
『「王育徳記念館」を作る話は、以前より台南市の文学者や台湾語研究者たちから出ていたが、2016年5月、蔡英文政権が発足した直後、当時の台南市長であった頼清徳氏の英断によって決定した。』
『頼清徳氏の“英断”と書いたのには理由がある。普通、公の機関が建設する個人の記念館は、例えば夏目漱石や森鴎外というような誰もが知っている人物に限られるが、台湾で王育徳の名を知る人はそこまで多くない。
さらに、父は61歳で他界するまで国民党政府のブラックリストに載っていたような人物だった。あえて台南市がそのような人物の記念館を作ることになった背景には、王育徳個人のことだけではなく、台湾の戦後史や王育徳が世に問い続けた台湾アイデンティティーを記そうという思いがあると思われる』
王育徳氏に代表されるような優秀な台湾人の多くが、白色テロで命を落としました。育徳の兄の育霖もそのうちの一人です。今の台湾の繁栄の影には、こうした過去があったことを忘れてはいけません。人権、主権、民主など、当然あるべきものがない国もあるんです。世界中のどこ国も、一度はそうした危機的状況を経験しているのではないでしょうか。または、今まさにそのような状況にある国もあります。
戦後の日本も、荒れ地の中からモーレツ時代を経て立ち上がり、今の社会を創り上げました。人々が渇望して、多大な犠牲を払って手に入れた民主や人権を軽視せず、国民ひとりひとりが積極的に民主主義国家を創り上げている意識を持って、社会に参加して欲しいと思います。少なくとも、選挙権を行使するのは国民の義務であり、責任です。じっくりと考えて、自分にとってベストだと思える候補者に一票を投票しましょう。
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