平和の火「感慨深い」 被爆者の聖火ランナー―広島

2020.08.05
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by 時事通信


東京五輪・パラリンピックの聖火ランナーに内定している被爆者の梶矢文昭さん=6月11日、広島市安佐南区

東京五輪・パラリンピックの聖火ランナーに内定している被爆者の梶矢文昭さん=6月11日、広島市安佐南区

 「感慨深い」。被爆者の梶矢文昭さん(81)は、来夏に延期された東京五輪の聖火リレーにランナーとして挑む。「原爆の時は火から追われながら一生懸命逃げた。今度は平和、喜びの中で火を持って走れる。同じ火で走るのでも大違いだ」と語る。
 梶矢さんは6歳の時、爆心地から1.8キロの広島市大須賀町で被爆した。1945年8月6日朝、授業を受けるため民家の玄関で拭き掃除をしていたところ、突然閃光(せんこう)に覆われ、崩れてきた天井や柱の下敷きになった。
 「誰か助けに来てくれるじゃろう」。しばらく待ったが助けは来ず、漏れてくる光に向かって柱の下をくぐり、自力ではい上がった。抜け出すと道端には皮膚が焼けただれていたり、全身が血だらけになったりした人が長い列をつくって逃げていた。「とにかく逃げなきゃ」と列に加わった。
 燃え盛る民家のそばを通った時、火が窓ガラスを突き破り道に噴き出してきた。その瞬間、大けがをした被爆者が走りだした。梶矢さんも列について懸命に走り抜けた。「少しでも時間が遅かったら逃げることはできなかった」と振り返る。夜になって姉が柱の下敷きとなり、亡くなっていたことが分かった。
 戦後、梶矢さんは小学校の教諭や校長として勤務した後、「ヒロシマを語り継ぐ教師の会」を結成。幼稚園や小学校などを訪問し、年50回の証言を行っている。原爆投下から75年の今年からは、広島平和記念資料館の被爆体験証言者としても活動を始めた。
 「当時は小さかったが、生きることを脅かされる経験をした。広島と長崎で原爆がいかに脅威かを(世界中が)知った。平和より尊いものはない」と話す梶矢さん。「核兵器を三たびは許すまじ。絶対に使わせちゃいかん」と訴え続けている。
 聖火リレーに向け、毎日朝夕の約30分間、歩いたり走ったりして準備を進めている。昨年12月にランナーに内定すると、知り合いや教え子から喜びや応援の声が届いた。「この年になってまた生きる喜びをもらえた」と笑顔を見せる。
 リレーの区間は200メートル。「短いけれどもちゃんと走れたら」と話す。「世界平和と、広島と長崎で亡くなっていった被爆者に対する慰霊の気持ちを込めたい」。そう願いながら走るつもりだ。(2020/08/05-20:32)

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