山下達郎も西城秀樹も気づかなかった“奇跡”の名曲。世界的シティ・ポップ大ブームを呼んだ「滝沢洋一とマジカル・シティー」48年目の真実【最終回】

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数年前から世界中で大ブームを巻き起こし、今やスタンダードとして定着した感のある音楽ジャンル、シティ・ポップ。音楽業界では山下達郎と大貫妙子の在籍したバンド「シュガー・ベイブ」が“シティ・ポップの先駆け”ということが定説になっています。しかし、シュガー・ベイブとほぼ同時期に活動しながら、最近までその存在さえ知られていなかった幻のバンドが実在していました。その名は、「滝沢洋一とマジカル・シティー」。彼らこそが、昨今の世界的シティ・ポップブームの礎を築いた最も重要なバンドであることが、3年以上に及ぶ関係者たちへの取材によって明らかになりました。

本連載では、今まで日本のポップス史の中で一度も語られることのなかった、彼ら5人による「シティ・ポップの軌跡」を、発見された大量の未発表音源とともに複数回にわたって掲載してきました。今回の第3回が最終回となります。彼らの通った「道」が40年以上の時を経て世界にもたらした「奇跡の軌跡」を追いました。

連載記事アーカイヴ

【Vol.1】奇跡的に発見された大量のデモテープ
● 【Vol.2】デモテープに刻まれていた名曲の数々
【Vol.3】達郎も秀樹も気づかなかった「真実」
(本記事)

アルバムのみに収録された「誰も知らない名曲」

2024年1月、山下達郎 のライヴツアーを終え、自身のバンド「Koki Tetragon」の活動で多忙のベーシスト・伊藤広規の事務所に宛てて一通のメッセージを送付した。

伊藤広規さんに追加で質問がございます。

 

本メッセージに添付いたしました音源について、伊藤広規さんにご確認いただくことは可能でしょうか。

 

この曲はシングルにはなっておらず、1984年に発売されたアルバムにしか収録されていない曲なのですが、滝沢洋一さん作曲、新川博さんアレンジです。

 

この曲のドラムとベースが青山純さんと伊藤広規さんによるものかどうかを調べております。

 

もし、青山・伊藤の“黄金リズム隊”であれば、滝沢洋一作曲、新川博アレンジ、青山・伊藤リズムということで、事実上の「マジカル・シティー再結集」の曲ということが確定いたします。

 

ちなみに、この曲が収録されたアルバムには参加ミュージシャンのクレジット自体がありませんでした。

わずか数時間後、上記メッセージへの返信が届いた。緊張しながら開いてみると、そこにはこう書かれていた。

「伊藤広規に確認してもらいました。この曲のドラムとベースは青山純、伊藤広規コンビに間違いありません

……私は、何度も何度も同じ返信の文字を読み返していた。

シティ・ポップ“奇跡の一枚”『レオニズの彼方に』制作スタート

2015年に初CD化された唯一作『レオニズの彼方に』(1978/東芝EMI)が「シティ・ポップの名盤」「奇跡の一枚」と高く評価されているシンガー・ソングライター、作曲家の滝沢洋一(2006年に56歳で逝去)。

その滝沢のバックバンドマジカル・シティー」として、ミュージシャンのキャリアをスタートさせた以下の4人だが、その豪華な顔ぶれは今まで日本のポップス史の中で語られてこなかったことが不思議なくらいだ。

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東京・市ヶ谷にて。左から滝沢洋一、マジカル・シティーメンバーの牧野元昭(中段上)、青山純(中段下)、新川博(右)  画像提供:滝沢家

Magical City(マジカル・シティー)

ドラム:青山純
ベース:伊藤広規
キーボード:新川博
ギター:牧野元昭

そのマジカル・シティーから76年末に新川博が脱退し、赤い鳥から派生したコーラスグループ「ハイ・ファイ・セット」のバックバンド「ガルボジン」へ移籍した。新しいキーボードには、カシオペアの初期メンバーでのちにビクターでビートたけしや岩崎宏美の担当ディレクターとして活躍することになる小池秀彦を迎え、マジカルのメンバーは77年よりスタジオミュージシャンとして活動をはじめた。

そして同年秋、滝沢のソロアルバム『レオニズの彼方に』の制作が決定。プロデュースはアルファ・ミュージック入社2年目の社員粟野敏和と滝沢が共同でおこなうことになり、粟野がディレクターとしてはじめて担当するアルバムとなった。レオニズとは、毎年11月頃に出現する「しし座流星群」のことである。

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滝沢洋一『レオニズの彼方に』(1978)

当時、アルファは東芝EMIと「原盤供給契約」を結んでおり、年間で4〜5枚のアルバム制作を担うことになっていたという。契約時の制作元は、72年に設立された原盤制作会社「アルファ・アンド・アソシエイツ」名義だった。その年間5枚のうちの1枚として選ばれたのが、滝沢の『レオニズの彼方に』だったという。

粟野「77年当時、アソシエイツに所属するアーティストでアルバムを出せるだけの人は他にいなかったんですよ。滝沢さんには、ロビー和田さんがRCAから持ち込んだ音源と、私が音羽スタジオで録った音源と2種類のデモがあったので、これでいいんじゃないか、これを作り込む形でやろう、という話になりました」

新川が在籍していた当時のマジカルメンバーと滝沢による、あのデモ・テープ群(連載Vol.2参照)が『レオニズ』制作決定の“決め手”となったのだ。

粟野は当時まだディレクターとしてアルバム制作の経験はなかったが、すでに粟野の主導で録り溜めたマジカルとのデモがあったことで、アルファ社内では「だったら粟野にやらせればいい」という話になり、滝沢のソロアルバム制作が決まったという。

実はこの年、ハイ・ファイ・セットへ滝沢が提供した楽曲『メモランダム』が、シングルでスマッシュヒットを飛ばし、東芝EMIヒット賞を受賞している。

ハイ・ファイ・セット『メモランダム』シングル盤(1977)

ハイ・ファイ・セット『メモランダム』シングル盤(1977)

滝沢のソロアルバム制作が決まった背景には、このハイファイの『メモランダム』がヒットしたことも深く関係しているという。この曲を採用したアルファの名物ディレクター有賀恒夫は、のちに滝沢の作品をサーカスブレッド・アンド・バターいしだあゆみ大野方栄などのアルファ所属アーティストに採用することになる。

【関連】ALFA RIGHT NOW 〜ジャパニーズ・シティ・ポップの世界的評価におけるALFAという場所 第六回「滝沢洋一を探して②」 滝沢洋一とは何者なのか(ALFA MUSIC公式note)

佐藤博をアレンジに起用。幻の一曲「日よけ」で覚醒した“黄金リズム隊”

このアルバムのアレンジ担当として白羽の矢がたったのが、新進気鋭のキーボディストとして、山下達郎のアルバム『SPACY』(1977)や細野晴臣率いるスタジオミュージシャン集団「ティン・パン・アレイ」にも参加していた、故・佐藤博だった。佐藤は、細野からYMOへの参加を打診されたが米国進出を理由に断った人物としても知られている。佐藤のアレンジ起用は、アルファ社長の村井邦彦からの指名だったという。

佐藤博(公式HPプロフィールより)

佐藤博(公式HPプロフィールより)

佐藤は、黒澤久雄が参加した「ブロード・サイド」というバンドのアルバム『BIRTH~バース』(1977/ビクター)の中で、滝沢と初めての共同作業を経験している。このとき滝沢が作詞・作曲で提供したのは「星のテラス」というリリカルな一曲で、そのアレンジを佐藤が手がけた。『レオニズ』には、この「星のテラス」の滝沢セルフカバー・バージョンが収録される予定であった。

以下は、滝沢の自宅に保存されていた滝沢版の音源である(スマホの場合は、Listen in browser の文字をクリック、以下同)。

佐藤の起用が決まってからは、粟野が惚れこんだ名曲「最終バス」をはじめ、いくつかのデモがアルファの「スタジオ“A”」や「音羽スタジオ」などで録音された。粟野は当時、佐藤が住んでいた東横線・代官山駅近くの自宅に足繁く通い、滝沢のアルバムに関する打ち合わせを繰り返していたという。デモの録音が続く中、この時に「アルバム未収録」となった楽曲も多数録音されている。

その中で、マジカルメンバーの伊藤が最もお気に入りだったという、青山・牧野も参加したブルースナンバー「日よけ」は、イントロ・間奏ともに佐藤のアレンジ力の高さを伺わせる名曲だ。今となってはアルバム未収録であったことが惜しまれる。その音源も滝沢の自宅からオープンリールの形で発見された。

伊藤「よく覚えているのは、アルバムには入らなかったんだけど“日よけ”っていう曲があって、その曲が俺は一番好きだったんです。かなりカッコイイ曲で、たぶんデモを録っただけだったと思います」

45年も前にデモを録音しただけの一曲を、ここまで長きに渡って覚えていた伊藤にも驚くが、それほど印象深い名曲・名演だったということなのだろう。滝沢のソングライターとしての才能について、伊藤は「日よけ」や「最終バス」を引き合いに出しながら以下のように述べている。

伊藤「これまで散々いろいろな仕事をしてきているのに、これだけ強く印象に残るっていうのは、本当に凄い人なんだなって改めて思いました。今の時代に聴いても“いいなぁ”って思える曲を書く作曲家でしたね」

粟野は当時、この「日よけ」という楽曲を滝沢のアルバムに収録しなかったことを後悔していたという。

粟野「自分のメモに“この曲を収録しなかったのは自分のミスかもしれないと思うほどの佳曲だ”って書いてあったんですね。それくらい今聴いても良い曲だと思います。なんで“日よけ”を入れなかったのか、今さらながら滝沢さんに申し訳ないなと」

かつてのメンバー新川博に「軟弱だ」と責められていた青山のドラムは、志賀高原で伊藤とおこなった“リズム合宿”を経て、まるで別人のように成長していた。のちに、山下達郎のアルバム『RIDE ON TIME』や『FOR YOU』で披露される右手一本のハイハットやキック、印象的なスラップなど、あの“黄金リズム隊”の音がすでにここで完成していたのである。

青山家には、青山純が1977年当時につけていたスケジュール帳が遺されている。表紙に杉真理のデビューアルバム『Mari & Red Stripes』(1977/ビクター)のシールが貼られているのは、青山が当時、杉のバンドにもマジカルと並行して参加していたからである。同アルバムにも参加した青山は、竹内まりや安部恭弘らとともに洋楽センス溢れるポップ・ナンバーを演奏している。

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青山純、1977年当時のスケジュール帳。画像提供:青山家 協力:伊藤広規Office

このスケジュール帳を開いて驚くのは、青山が滝沢のアルバム制作にあたって、かなり頻繁に『レオニズ』のデモテープ録音に参加していたということだ。例えば11月初旬のスケジュールを見てみよう。ほぼ毎日のように録音があり、1日あたり4時間から長い日には7時間もスタジオで録音していたことがわかる。これが同年10月初旬から12月末まで続き、さらに翌78年の初頭までおこなわれていたという。

まだ青山が売れっ子スタジオミュージシャンになる以前、滝沢やマジカルのメンバーとともに「自分たちの音楽」を作るために情熱を燃やしていたことが、このスケジュール帳の生き生きとした文字から垣間見えてくる。

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青山純、1977年当時のスケジュール帳の一部。画像提供:青山家 協力:伊藤広規Office

青山は『レオニズ』のデモテープ録音で数多くの曲に参加していたが、彼のドラムが採用されたのは「ラスト・ストーリー」1曲のみだったという。上記「日よけ」をはじめ、滝沢宅にはアルバム未収録となった青山・伊藤・牧野らが参加する名演の音源が数多く残っている。

集められた豪華な参加ミュージシャン

『レオニズの彼方に』は、滝沢の連れてきたマジカルメンバー以外にも豪華なミュージシャンが多数起用された。その大半は佐藤がチョイスしたメンツだった。もともと自身がギターに手慣れていた粟野は「やるなら思いっ切りやれよ」というアルファの先輩・後藤順一からの声を汲む形で、とりわけギタリストの起用にはかなりこだわったという。その選定には佐藤も協力し、どの曲に誰のギターをという点に関して綿密な打ち合わせがおこなわれていた。

もちろんギタリストだけでなく、他の参加ミュージシャンのメンツを見ただけでも、どれほど贅沢なアルバムであったかがよくわかる。

エレキギター
鈴木茂
杉本喜代志
松木恒秀
松原正樹
牧野元昭
鳥山雄司

アコースティックギター
吉川忠英

12弦ギター
杉本喜代志

ドラム
青山純
林立夫
村上“ポンタ”秀一

ベース
伊藤広規
高水健司

クラシック・ピアノ
松岡直也

キーボード&全曲アレンジ
佐藤博

アルトサックス
ジェイク・H・コンセプション
村岡建

テナーサックス
斎藤清

トランペット
羽鳥幸次
数原晋
吉田憲司

トロンボーン
新井英治
岡田澄雄

パーカッション
浜口茂外也
ラリー寿永
ペッカー(橋田正人)

ストリングス
玉野アンサンブル

二度と揃わぬ最強の布陣で臨んだレコーディングは翌78年春頃まで続き、アルファの本拠地である「スタジオ“A”」をはじめ、「音響ハウス」「サウンドシティ」「メディアスタジオ」の4スタジオで収録がおこなわれた。現在、このアルバムはSpotifyをはじめ、各種サブスクリプションで聴くことが可能だ。ここにはもちろん、20歳の青山純が23歳の伊藤広規と共演した「ラスト・ストーリー」も含まれている。

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『レオニズ』へ光を当てた金澤寿和の先見性

そのコンピは『Light Mellow Wave』という名前で2015年1月に発売された。主にアルファレコードが版権を持つ楽曲を中心にした、シティ・ポップのコンピだった。

金澤監修のコンピ盤『Light Mellow Wave』(2015)

コンピ盤『Light Mellow Wave』(2015)

このアルバムを企画し、滝沢の『レオニズ』へ光をあてたのが、シティ・ポップの名曲を独自の視点で選曲したガイド本「ライトメロウ」シリーズや復刻CDなどを企画・監修し、『レオニズ』の初CD化を実現させた音楽ライターの金澤寿和だ。

このコンピに「マリーナ・ハイウェイ」が収録されたことをきっかけに、『レオニズ』は同年7月に初CD化され、日本のタワーレコードとソニーミュージックショップのオンラインで限定発売されることになった。金澤はCD化までの苦労をこう振り返る。

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金澤寿和氏

金澤「『レオニズ』を紹介したのは、私が企画・監修したディスクガイド『ライトメロウ和モノ 669』(2004)の中で、“職人による知られざる奇跡の名盤その3”と銘打ったのが最初でした。“その1”と“その2”は比較的早くCD化できましたが、『レオニズ』は10年以上を費やしました。業界内の評価は高かったのに、それだけ無名だったんです。CD化が決まった時は感激しました」

こうして、滝沢の唯一作である『レオニズ』は現在、日本の音楽ファンの間で「隠れた名盤」「奇跡の一枚」と高く評価されるようになり、オリジナルのLPレコードは数万円という高値で取引されるまでに至った。しかし、オリジナルのレコード発売当時はほとんど売れず、業界関係者でも存在を知っている人はほぼいなかったようだ。

もしも、金澤がこのアルバムを“発見”していなければ、滝沢やマジカルの歴史は今も「未知」のままであったに違いない。元祖シティ・ポップブーム火付け役である金澤が、日本のシティ・ポップの黎明期を知るための大きな手がかりとなるこのアルバムを発掘した意味は想像以上に大きい。

日本人による“せめてもの抵抗”として

そして、金澤がCD化を実現化させた数年後に海外の音楽好きたちが「」によって彼らの音を見つけ出すことになる。

YouTube上には、アメリカ人男性が滝沢の『レオニズ』の魅力について語る動画もアップされている。ほとんどの日本人が知らないアルバムさえも、耳の肥えた海外の音楽ファンによって、その価値が認められつつあるようだ。

シティ・ポップ関連の執筆を多く手がける音楽ライターの松永良平は、いま海外で起きているシティ・ポップブームによって、日本人も知らない音楽がどんどん発掘され続けていることに危機感を抱きつつ、そのような状況に対して発信者としての“せめてもの抵抗”として、滝沢の『レオニズの彼方に』などの隠れた名盤広く世界に紹介することの大切さを、BSフジ「HIT SONG MAKERS 〜栄光のJ-POP伝説〜」CITY POPスペシャルの中で語った。

松永「つい最近も、Twitter(現X)で“2021年に海外の人がWantsしている日本のレコード”みたいなリストが、バーッといくつか出たんですけど、本当ビックリするぐらい良く聴いていて。メジャーなものから自主制作のものまで。

 

ちょっと敵わないって言うのかな。1億対70億とかそういう戦いになっているとしたら、実はもう敵わない状況に入り始めているんじゃないかなという気もしていて。

 

でも、その中で…たとえば、アルファで70年代に作曲家をやっていた滝沢洋一さん。『レオニズの彼方に』っていう、すごく良いアルバムで。アルファでようやく世界配信が開始されて聴くことができる。

 

そういうのを聴いて欲しいなという、発信する側のせめてもの抵抗っていうか、小さな抵抗を続けていくことがすごく大事なのかもしれないです」※BSフジ「HIT SONG MAKERS 〜栄光のJ-POP伝説〜」CITY POPスペシャル(2022年3月19日放送)より

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滝沢洋一が繋いだ音楽人脈

滝沢とマジカルの歴史を辿ることによって分かったことは、滝沢が多くの後輩ミュージシャンたちに慕われ、そして多くの人脈を繋ぐ役割を果たしていたということだ。新川が振り返る。

新川「この歳になって、当時のいろいろなことをみんながアーカイブし始めたことで、滝沢さんってあの時代を自分と同じように生きてきた人なんだなぁと改めて思いましたね。そして滝沢さんが、村井邦彦さん、ユーミンとかを自分に引き寄せてくれた人だったんだなって」

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ユーミンのバックバンド時代の新川(手前中央)。提供:新川博

滝沢はソングライターとして存在感のある優れた楽曲を作り続け、その作品は40年以上の時代を経てもミュージシャン仲間たちの耳に残り続けている。滝沢サウンドの魅力が詰まった名盤『レオニズ』は、マジカルの仲間たちと過ごした時間や苦楽を共にした経験が折り重なって完成したのだ。

マジカル・シティーのメンバーらとソロアルバムを作り終えた滝沢洋一は、その前後からビートたけしブレッド&バターサーカス須藤薫小泉今日子松本伊代岩崎宏美西城秀樹石川秀美山下久美子富田靖子小室みつ子伊東ゆかり清野由美いしだあゆみなど、多くの歌手やタレント、アイドルたちに楽曲を提供する「作曲家」として、活躍のフィールドを広げてゆくことになる。

近年、謎多き女性歌手AMYやCMソングの女王・大野方栄へ滝沢が提供した楽曲は「シティ・ポップの名曲」として再評価されている。

一方、新川博は移籍したハイ・ファイ・セットのバックバンド「ガルボジン」の縁で、ハイファイのアルバム『Coming Up』(1978)の全楽曲アレンジを担当したことから、プロの編曲家の道へと進んだ。

そして、近年シティ・ポップの名盤として高く評価されている菊池桃子をリードボーカルに擁したバンドRA MU(ラ・ムー)唯一のアルバム『THANKS GIVING』(1988/Vap)ほぼ全楽曲をはじめ、「君は1000%」など1986オメガトライブのほぼ全楽曲、原田知世「時をかける少女」、本田美奈子「1986年のマリリン」、小林麻美「雨音はショパンの調べ」、荻野目洋子「六本木純情派」、中原めいこ「君たちキウイ・パパイヤ・マンゴーだね」など、大ヒット歌謡曲のアレンジを数多く手掛けている。

さて、新生マジカルのメンバー(青山純伊藤広規牧野元昭小池秀彦)4人は、滝沢の『レオニズ』で知り合った佐藤博とともに活動していく。伊藤がその経緯を語った。

伊藤「『レオニズ』の録音が終わった後、78年6月に佐藤さんの31歳の誕生日をお祝いしようって、みんなで<サーティーワン>のアイスクリームケーキを持って佐藤さんの自宅へ行きました。そのとき、佐藤さんから“長い付き合いをしたいんやけど”って言われて、マジカル・シティーはバンド丸ごと佐藤博さんに抱えられて、ギターの鳥山雄司とパーカッションのペッカー(橋田正人)も加えて“佐藤博とハイ・タイムス”が結成されたんです」

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日比谷野音の「佐藤博とハイ・タイムス」ライブの様子。左から、小池、伊藤、佐藤、青山、ペッカー代役で出演したバンド「タスマニア・デビル」のカン、牧野 画像提供:伊藤広規office

マジカルはバンド丸ごと佐藤の元に抱えられ、「佐藤博とハイ・タイムス」と形を変えて存続することになった。バンド名からマジカルは消え、事実上の解散状態となったが、メンバーは減るどころか2人も増え(ペッカー、鳥山雄司)、新たな人脈が繋がったのである。結局、ハイ・タイムスはアルバムを出すことなく自然解消するが、佐藤のソロアルバム『オリエント』(1979/Kitty)には伊藤や青山、小池、鳥山、ペッカーの名前を見ることができる。

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佐藤博『オリエント』(1979) image by: dicogs

たとえ個々の活動がバラバラになっても、目に見えぬ形でマジカルの縁は確実に繋がっていた。そして、その縁の輪が「シティ・ポップ」という形で結実するまでに、あまり時間を必要とはしなかった。

77年から79年にかけて有名アーティストのソロアルバムでそれぞれ名演を残したマジカルの「リズム隊」伊藤と青山は、ついに運命的な出会いを果たすことになる。79年夏にアルファ所属の吉田美奈子と、『レオニズ』録音メンバーだった村上“ポンタ”秀一の二人が、青山純と伊藤広規の二人をとある人物に引き合わせる。

それが、山下達郎だった。

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