数年前から世界中で大ブームを巻き起こし、今やスタンダードとして定着した感のある音楽ジャンル、シティ・ポップ。音楽業界では山下達郎と大貫妙子の在籍したバンド「シュガー・ベイブ」が“シティ・ポップの先駆け”ということになっていますが、シュガー・ベイブとほぼ同時期に活動しながら、最近までその存在さえ知られていなかった幻のバンド、滝沢洋一と「マジカル・シティー」をご存じでしょうか? 彼らこそが、昨今の世界的シティ・ポップブームの礎を築いた重要なバンドであることが、約3年近くに及ぶ関係者たちへの取材によって明らかになりました。本連載では、今まで日本のポップス史の中で一度も語られることのなかった、彼ら5人による「シティ・ポップの軌跡」を、発見された大量の未発表音源とともに複数回にわたって掲載いたします。
連載記事アーカイヴ
● 【Vol.1】奇跡的に発見された大量のデモテープ
● 【Vol.2】デモテープに刻まれていた名曲の数々 (本記事)
● 【Vol.3】達郎も秀樹も気づかなかった「真実」
マジカル・シティーの名付け親「滝沢洋一」の生い立ちと数奇な運命
(Vol.1からの続き)2015年に初CD化された唯一作『レオニズの彼方に』(1978/東芝EMI)が「シティ・ポップの名盤」「奇跡の一枚」と高く評価されているシンガー・ソングライター、作曲家の滝沢洋一(2006年に56歳で逝去)。
滝沢のバックバンド「マジカル・シティー」として、ミュージシャンのキャリアをスタートさせた以下の4人だが、その豪華な顔ぶれは今まで日本のポップス史の中で語られてこなかったことが不思議なくらいだ。
マジカル・シティー
ドラム:青山純
ベース:伊藤広規
キーボード:新川博
ギター:牧野元昭
彼らにとっての「キーマン」は、バンド名の名付け親であり、彼らが演奏したオリジナル曲のソングライターの滝沢洋一である。彼の音楽活動と生い立ちを辿ることで見えてきたのは、この世界的「シティ・ポップ」ブームを呼んだ“奇跡的な出会い”の数々であった。
滝沢洋一は、外務省の外交官だった父の長男として1950年3月9日に東京で生まれ、生後まもなく父の赴任先であるアメリカ・オレゴン州ポートランドで3歳までを過ごす。
帰国後は小学2年生まで日本で過ごし、今度は中東イランの首都テヘランへ。そして11歳となった小学5年生でようやく日本に定住した。幼少期の海外生活が長かったことで、日本語の、とりわけ漢字の読み書きに対する劣等感は大人になった後にも残っていたという。
海外生活の中で洋楽に慣れ親しんでいたことが、彼の音楽性に大きな影響を及ぼしたことは想像に難くない。事実、滝沢は後に発売するシングル『マイアミ・ドリーミング』(1980・RCA)のプロフィール欄に、
「ポピュラー好きの父親についての海外生活の体験で得た洋楽センス溢れた曲作りと、さわやかなVocalが特長」
と記している。
ビートルズ、フォークギター、そして「ロビー和田」との出会い
そんな滝沢は、中学生のときにXmasプレゼントとして買ってもらった3000円のギターで、日本でも社会現象を巻き起こしていたザ・ビートルズのコピーを始める。玉川学園高等部に入学してからは、友人らとともに、あのマイク眞木を世に送り出した「MRA」(道徳再武装運動)というフォーク団体に加入した。
そこで出会ったのが、眞木の後継の地位を獲得していたフォーク歌手で、のちに日本初のフリー音楽プロデューサーとして和田アキ子や西城秀樹、松崎しげるらの大ヒット曲を手がけることになる、ロビー和田(和田良知)であった。
和田は66年、MRAのフォークグループを糾合し、500人を超える大グループ「レッツ・ゴー・66」を創設して、伝説の武道館ライブを敢行した人物として知られている。その和田に才能を認められていたのが、高校時代の滝沢であった。この和田との出会いが、のちに滝沢らの運命を大きく変えることになる。
そんな滝沢が若き日に録音したと思われる音源がオープン・リールの形で発見された(前回記事参照)。ギター弾き語りによる宅録曲「やさしい氷」は、まだ10代とおぼしき滝沢の美しい声で歌われている(スマホで楽曲を再生する場合はListen in browser の文字をクリック。以下同)。
そして、グループ・サウンズの影響が色濃く出ている、バンド演奏による「僕が愛したその人を」は今聴いても新鮮だ。
滝沢はMRAの活動と並行して、玉川学園の音楽好きを集めたTLMS(玉川・ライト・ミュージック・ソサエティー)を結成。このTLMSの活動の中で、滝沢は「フォークでもロックでもジャズでもない」独自の音楽を創り上げていった。この前後に作曲した楽曲の一部が、滝沢宅から発見されたオープンリール・テープに残されていたのである。
こんな曲もある、「ステーションエレジー」。録音年は不明だが、おそらく60年代後半から70年代初頭にレコーディングされたと思われる。サイケデリックな曲調にジャズ風のアレンジを施した、この時代ならではの重厚なサウンドが耳に心地よい。
スキーにハマり音楽活動を休止も、入院で再び音楽の道へ
ところが、滝沢は玉川大学へ進学した頃にスキーにハマり、1級の免許を取得してからスキーのインストラクターとして山小屋でアルバイトを始めるようになった。スキーに夢中になるあまり、音楽活動からは足が遠のいてしまったのである。
しかし、ここで予期せぬ転機が訪れる。滝沢の持病である「B型肝炎」が悪化してしまい、体調不良のために長期入院を余儀なくされ、スキーのプロとして生活する夢を断念せざるを得なくなってしまったからだ。
入院生活を送る中で、滝沢は病室に置いたラジオから流れる音楽を聴きながら、洋楽の美しい旋律に魅せられて、再び音楽と向き合うようになった。そして、病室のベッドの上で作曲を始め、退院後に作った曲をデモ・テープに吹き込むようになっていたという。
退院した滝沢は、父親の勧めでコンピュータ・プログラミングを学ぶ学校へ通ったり、アルバイトをしながら作曲を続け、デモ・テープ作りに励んでいた。そして、MRAで知己を得ていたロビー和田を久しぶりに訪ね、書き溜めていた楽曲のデモを持参して聴かせる。
その頃、和田はビクター音楽産業の事業部である「RCAレコード」の契約ディレクターとして、和田アキ子『笑って許して』(1970)やヘドバとダビデ『ナオミの夢』(1971)、西城秀樹『傷だらけのローラ』(1974)などのヒット曲を次々と世に送り出したヒット・ソング・メイカーだった。
そして当時、あのチャールズ・ブロンソンの出演した「うーん、マンダム」でお馴染みのCMソング『マンダム〜男の世界』(1970。ジェリー・ウォレス歌唱)を別名義で作詞・作曲し大ヒットさせている。和田は歌手として自身が前に出るよりも、裏方の「作る側」に回っていたのである。
滝沢が宅録で吹き込んだ一曲「一人ぼっちの君」を聴いた和田は、その曲をいたく気に入り、RCAが売り出していたアイドルグループ「チャコとヘルス・エンジェル」のシングル『嘆きの指輪』(1974)のB面に採用。これが滝沢の「作曲家デビュー」となった。滝沢はこれを機にRCAと作家契約を結ぶことになる。
そんな滝沢が宅録で吹き込んだ自身の歌唱による「一人ぼっちの君」の音源は、同じオープン・リールテープに収録されていた。このデビュー曲は、詞・曲ともに滝沢だ。
肝臓の持病により3度目の入院となった頃、滝沢は同じ病院に入院していた8歳年下の女子高校生と恋に落ちる。その高校生こそが、後の滝沢の妻である。1974年秋のことであった。その頃、すでに「一人ぼっちの君」のシングル発売が決まっていた滝沢は、病院内の庭のベンチで彼女にビートルズのほか、ギルバート・オサリバンの曲をよく弾いて聴かせていたという。
その当時の自作曲の音源が1本のカセットテープの中に残っていた。
女性の言葉で綴られた美しく静かな名曲「凍った時計」。滝沢の透き通るような歌声は、50年近くを経た今聴いても色褪せない魅力を放っている。