シティ・ポップの運命を変えた、新川と青山の邂逅
滝沢のバックバンド「マジカル・シティー」の歴史を語る上で外せないのが、キーボードの新川博とドラムの青山純の出会いである。この二人が滝沢の前に現れるまでに、どのような経緯があったのだろうか。新川が、青山と初めて顔を合わせた日のことを回想する。
新川「高校生の時に付き合ってた彼女が、“うちの高校にもドラムの上手い子がいるよ”って紹介してくれたのが最初。1973年頃かな、俺は世田谷区の瀬田に住んでいて、青山は上野毛に住んでるって言うから会いに行ったわけ。普通、高校生だったら日曜日って家にいないじゃん。でも、青山は日曜なのに家にいてドラムを磨いてるんだよ(笑)。色白の少年でさ」
その後、新川はまだ高校生だった青山を、自身がキーボード奏者として手伝っていた慶應大学の「黒人文化研究会」というサークルのディスコ・バンド「ファライースト」のボーヤとして誘う。
すでに高校の時からヤマハのドラムスクールに通っていた青山は当時「KANN」というジェネシスのコピーバンドを組んでいたが、ファライーストではそのドラミングを披露することはなかった。青山は、のちに新川から誘われた滝沢のバックバンドでようやくオリジナル曲のドラムを叩けることになる。
牧野と新川の邂逅。そしてバックバンド結成へ
75年、滝沢は当時暮らしていた、外交官の家族専用の学生寮である「子弟育英寮」(東京・市ヶ谷)にて、寮の後輩で慶應義塾大学の学生であった有本俊一から、彼のバンド仲間たちを紹介される。そのバンドとは、先に述べた慶應のディスコ・バンド「ファライースト」のことである。有本はファライーストでトランペットを担当していた。
「こちら、寮の先輩でRCAレコードと契約をしている滝沢洋一さんです」
有本が滝沢を紹介したのは、ファライーストのメンバーで日大芸術学部の学生であったキーボードの新川博、ファライーストでボーヤをしている高校を卒業したばかりの青山純、新川の4歳頃からの幼馴染で中古のフェンダー・ジャズ・ベースを持っていた明大生の村上“ムンタ”良人であった。
さらに後日、新川が連れてきたのは、Char在籍のバンド「バッド・シーン」の元ギタリストである牧野元昭。滝沢の初代バックバンドは、この4人で始まった。
牧野が、当時のことを述懐する。
牧野「新川と自分との出会いは、1971年頃だったと思います。私は当時<バッド・シーン>というバンドにおり、新川は<三人バンド>というトリオでベースを弾いていました。まだ今で言うライブハウスがあまりない時代で、学生の有志がお金を出し合ってコンサートを開く事が多かったのですが、新川とはそういった中で知り合いになりました。新川はベースだったので、彼がキーボードを弾くとは知らなかったんです。二人とも、当時やっていた音楽はロックだったと思います」
新川と牧野が知り合ってから4年後の1975年。牧野宅に一本の電話が入る、電話の主は新川だ。牧野は電話でこう告げられたという。
「今度、RCAレコードからデビューする予定の、滝沢洋一というシンガーのバックバンドに入らないか?」
新川は、小学生時代にギタリストのCharと同級生で、11歳から13歳まで同じく同級生の三浦氏とCharとでスリーピースバンド「FOX」を組んでいた。つまり牧野とは「Charとバンドを組んでいた」という浅からぬ縁とも言える共通点があったことになる。
新川、青山、村上、牧野の4人を紹介された滝沢は、自作曲を演奏するバックバンドのメンバーに彼らを誘った。このときはまだバンド名を「マジカル・シティー」とは命名していなかったという。バックバンドの旗振り役は、メンバーを集めた新川だ。
こうして4人は、滝沢と有本が住む市ヶ谷の育英寮へ頻繁に出入りし、寮内などで演奏の練習を繰り返していたという。滝沢の自宅から見つかったテープから推測すると、75年の夏頃からバンドの練習に励んでいたものと思われる。滝沢宅からはこんな音源が見つかった。
正式なタイトルは不明で、音質もテープの劣化が進んでいるため頗る悪いが、「トマトトマトトマト」と連呼するサンバ調の一曲は、歌詞のメタファーもウィットに富んでいて面白い。彼らが連日のように滝沢と会って、バンドの練習に明け暮れていたことがわかる。
名スタジオ「音響ハウス」で収録された4曲のデモ
高校時代に所属のフォーク団体でつながりを持ったロビー和田の計らいで、1974年にRCAレコードと作家契約を結んだ滝沢。彼は75年頃からオリジナル曲の作曲を続け、自身のバックバンドとともにソロデビューの機会をうかがっていた。
その機会は年明けすぐに訪れた。76年1月22日、西城秀樹や角松敏生などを担当したことで知られるRCAレコードのディレクター・岡村右(たすく)が音頭をとる形で、東京・銀座のスタジオ「音響ハウス」にて、滝沢と4人のデモ・テープ録音がおこなわれたのである。その目的は、滝沢をRCAからソロデビューさせるためだ。岡村が当時を振り返る。
岡村「滝沢さんは、最近で言えばキリンジのような音楽を75年頃に志向していました。でも早すぎたのか、当時の日本で流行っていた音楽とは合わなかったんです」
75年といえば、フォーク調の歌謡曲や演歌が全盛の時代である。山下達郎・大貫妙子らのシュガー・ベイブが大瀧詠一の「ナイアガラ」レーベルから船出したこの年、洋楽志向の日本語ポップスは、まだまだメインストリームの音楽ジャンルではなかった。
この音響ハウスでのデモは、たった4曲のみの録音であった。しかし、のちに滝沢の唯一作となるアルバム『レオニズの彼方に』のタイトルナンバー原曲「南の空へ夜の旅」や、かつて滝沢がフォークギター片手に歌っていた「やさしい氷」などの楽曲が滝沢と4人、そしてフルート・サックスを担当した成蹊大生の加部某によって収録された。
では、新川の幼馴染だった村上“ムンタ”良人が、滝沢のバックバンドのベースとして参加した最初で最後のスタジオ録音の4曲をお聴きいただきたい。前回ご紹介した「南の星へ夜の旅」に続いて、「もう泣かないで」「思い出の電話通り」そして、「やさしい氷(RCAテイク)」。
この録音では、青山が18歳とは思えぬ卓越したドラムプレイを全曲に渡って聴かせ、新川の美しいピアノはすでにアレンジャーとしての才能が垣間見えるものとなっている。19歳の牧野は「もう泣かないで」の中で色気あるギターソロを奏で、村上は温かみのあるベースを披露。そして、わずかに聴こえる滝沢のアコースティック・ギターの美しい音色が、聴く者の耳をやさしく包み込んでゆく。
また、新川経由で呼ばれた成蹊大学の学生だった加部という人物が、フルートとアルトサックスの名演を残している。デモ・テープとはいえ、これらの楽曲は本番のレコーディングさながらのハイクオリティーなアレンジに仕上がっていた。
しかし、この収録のあとに滝沢のバックバンドはベーシストが交代する。村上の後任ベースとして加入したのが、のちに青山純とともに山下達郎バンドで長年活躍することになる、あの伊藤広規だった。