滝沢洋一と「マジカル・シティー」が呼んだ世界的シティ・ポップ大ブーム47年目の真実。【Vol.2】デモ・テープに刻まれていた名曲の数々

2023.09.15
 

ベーシスト伊藤広規の誕生と、青山との出会い

実は、前述の「ファライースト」でベースを弾いていたのが、のちに滝沢のバックバンド二代目ベーシストとなる伊藤広規だ。伊藤は、高校時代の友人と組んだ「ライム」というバンドで初めてギターを担当し、当初はギタリストとしてバンド活動をおこなっていた。

そのライムは、冬季のスキーシーズンの間だけ、長野県の志賀高原にある「志賀ハイランドホテル」の箱バンとして、泊まり込みで働いていたという。その箱バン仕事とは、同ホテルの「モア」というディスコ・ラウンジでおこなわれていたライブでバッキングを担当することだった。“志賀高原用”に組まれていたメンバーは「ブラックリスト」というバンド名で呼ばれていたという。ここでは、内田裕也やカルメンマキ&OZ、渡辺貞夫、日野皓正などの大物ミュージシャンや歌手のライブが連日おこなわれていたというから、今では考えられないほど贅沢なライブ会場だ。伊藤は、この演奏会場「モア」についてこう語る。

伊藤「もう最高に盛り上がっていました。当時、スキー場のディスコは六本木よりもオシャレなアミューズメント・スペースだったんです」

ここで伊藤は、カルメンマキ&OZのドラムとして来ていた長谷川康之(牧野と同じ「バッド・シーン」元メンバー)と知り合い、後日ホテルを再び訪れた長谷川から、ある誘いを受ける。

「ファライーストというディスコ・バンドでドラムをやっているんだけど、ベースとして加入しないか?」

これを機に、伊藤はギタリストからベーシストとしての人生を歩むことになった。伊藤が述懐する。

伊藤「ギタリストだったらベースできるんだろ?っていう感じで、そのファライーストで初めてベースを弾くことになったんです。当時は自分のベースギターを持っていない状態で、人からベースを借りて演奏していました」

こうして誕生した「ベーシスト伊藤広規」は、同じファライーストのメンバーである新川の自宅へ遊びに行った際、まだ高校生だった紅顔の少年・青山を紹介される。新川が部屋で横になっている青山を指差し「こいつ、ドラムの青山純って言うんだよ」と紹介すると、伊藤は「ふーん、そうなんだ」と関心なさげに答えたという。

そんな会話がなされた後、伊藤は青山の口から出た一人称「僕」に衝撃を受ける。東京・足立区生まれで一人称を「俺」で通してきた伊藤は、大田区・世田谷区育ちの青山の「僕」に大変驚いたという。初対面にも関わらず「ボク、だってよぉ!」と笑った伊藤だったが、のちに日本のシティ・ポップを牽引することになる“黄金リズム隊”の二人は、こうして新川邸で運命の出会いを果たすこととなった。

滝沢が命名した「マジカル・シティー」

ファライーストをキッカケに、新川が青山、牧野、村上の3人を誘って滝沢のバックバンドを結成。しかし、村上は音響ハウスでの録音(76年1月22日)が最後の参加となった。村上の後任ベースとして、76年1月以降に伊藤広規が加入。バックバンドに伊藤が入ったことで、ここから「真正マジカル・シティー」の歴史が始まることになる。なぜなら、滝沢から「マジカル・シティー」というバンド名を与えられたからだ。牧野と伊藤が命名当時のことを記憶していた。

牧野「そのマジカル・シティーという名前は、滝沢さんが命名したんだよ」

伊藤「俺は覚えてるよ。六本木にあったデリーっていうカレー屋で名前が決まったんじゃなかったかな。STUDIO BIRDMANの下にあった店。当時マネージャーがいたよね、篠原っていう慶應の学生。いつの間にかいなくなったけど(笑)。“世界のマジカル!”とか言って盛り上がってたんだよ」

かくして、滝沢洋一のバックバンド「マジカル・シティー」は、正規のメンバーである新川、青山、牧野、そして伊藤が揃い、76年初旬に誕生した。

青山と伊藤が初めて共演した伝説のライブ

では、4人が初めてセッションしたのは何時だったのか? 伊藤の記憶では、青山が叩いたドラムを初めて聴いた場所が「志賀ハイランドホテル」だったという。新メンバーの伊藤が、スキー場の箱バン仕事で東京へなかなか帰って来ないので、バンドメンバーみんなで志賀まで迎えに行くことになったらしい。

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志賀ハイランドホテルの初ライブ当日の様子。滝沢家提供

伊藤「初めて青山のドラムを聴いたのは、志賀高原でバンド演奏するっていうことになって、新川と青山と、あと何人かで。その時に初めて何曲か演奏して、結構オカズもしっかり叩けてて、はっきりしたドラムだなという印象でした」※BSフジ「HIT SONG MAKERS 〜栄光のJ-POP伝説〜」青山純追悼SP(2014年12月20日放送)より

この“あと何人か”とは、おそらく滝沢と牧野のことだ。そして伊藤が記憶していたバンド演奏とは、76年初めにおこなわれた「マジカル・シティー」名義による志賀ハイランドホテルでのライブ演奏のことである。つまり、これが青山・伊藤の初セッションということになる。

作詞・作曲の滝沢がボーカルとサイドギター、キーボード新川、リードギター牧野、そしてドラム青山、ベース伊藤の「真正マジカル・シティー」がこの世に誕生した瞬間だった。

このライブの録音テープが滝沢宅に保存されていた。この音源の中で、そのバンド名は司会者の「マジカル・シティーの皆さん」という声でハッキリと記録されていたのである。同ライブでは、音響ハウスで録音された「もう泣かないで」「南の空へ夜の旅」「思い出の電話通り」の3曲と、最後にメンバーによるオリジナル曲「マジカル・シティーのテーマ」の合計4曲が演奏されている。約11分と長めだが、この歴史的な音源をぜひお聴きいただきたい。

ラジオの公開録音で飛び出した「ニューミュージック」発言

牧野が、この時のライブに関して面白いエピソードを語ってくれた。

牧野「俺はよく覚えているんだけど、たしか広規が話を持ってきた、志賀高原の丸池スキー場でのラジオ公開録音の仕事があったの。76年の初め頃かな」

志賀高原の丸池スキー場とは、件の「志賀ハイランドホテル」のことを指す。地元のラジオ局が、同ホテルのディスコ・ラウンジ「モア」でのライブ演奏を公開録音するという話が持ち上がったらしい。箱バンの一人として冬季の間はホテルに常駐していた伊藤が、わざわざ東京から伊藤を迎えにやってきた滝沢、新川、青山、牧野にこのライブ録音の話を持ちかけたようだ。

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同ライブ会場の客席でくつろぐ、新川(左)と青山(右)。滝沢家提供

牧野「ライブ演奏を公開録音したんだけど、みんなで楽屋にいたときに、滝沢さんがラジオの司会者からもらった紙を見て“ウーン”っていろいろ考えてるわけ。何を考えていたのかというと、インタビューに答えて下さいって依頼があって、その質問のひとつに“どんな音楽を目指しますか?”って書いてあるの。どんな音楽って言われてもなぁって困ってて、滝沢さんが“まあ、新しい音楽、とか言うしかねぇだろ”って。そこで、俺がなんとなく“じゃあ、ニューミュージックとか言うの?”って言ったの」

新しい音楽=ニューミュージック。まだ日本で「ニューミュージック」なる音楽ジャンルが一般用語化する前の話だ。

牧野「滝沢さんも“それじゃ、なんか分かんないよ”って言ってたんだよ。で、実際に司会者からインタビューされるときに“滝沢さん、どんな音楽を目指しますか?”って聞かれたら、“そうですね、ニューミュージックですね”って言っちゃったの(笑)。そうしたら、その後でいろいろなレコードのキャッチコピーにニューミュージックという言葉が使用され始めたのよ。だから、ニューミュージックっていう言葉は、滝沢さんがラジオの公開録音で言った言葉がおそらく最初なの。楽屋で“ニューミュージックとか言うの?”って滝沢さんに言っちゃったの俺なんだよ」

ニューミュージック起源説の正否はともかく、彼らが76年の初め頃に「マジカル・シティー」というバンド名で志賀ハイランドホテルにて滝沢の曲をライブ演奏し、伊藤・青山が初めて共演、そして自分たちの音楽を「ニューミュージック」と表現したことだけは確かなようだ。

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楽屋でくつろぐ牧野。 滝沢家提供

なお、前述の「ファライースト」でギターを担当していたアイク植野(植野明)のギターケースには、「MAGICAL city」というステンシルのスプレー落書きが今も残されている。

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アイク植野のギターケース(一部拡大)。提供:アイク植野

マジカルのメンバーの誰かがイタズラで吹きつけたものらしいが、これが今のところ唯一、モノとして残された「マジカル・シティーというバンドが実在した証」である。

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