夏本番を迎える前のこの時期ですら、すでに一部でエアコンなしでは寝苦しい日々が続く我が国。就寝時に冷房を使わない夜を記憶している50代以上の方も多いと思われますが、なぜ今、それは叶わなくなってしまったのでしょうか。今回のメルマガ『富田隆のお気楽心理学』では著者で心理学者の富田さんが、その原因を深堀り。さらに寝苦しさを訴えながらベッドにスマホを持ち込むことの愚かさを説いています。
※本記事のタイトルはMAG2NEWS編集部によるものです/原題:寝苦しい
「寝苦しい夜」に思う。昔は一体どうしていたんだろう?
夏至は過ぎましたが初夏の夜明けは早く、相変わらず元気なガビチョウの声に急かされて雨戸を開けると、梅雨のはずが、雲間から射す朝日は存外に強く、あまりの眩しさに思わず目を細める今日この頃です。
皮肉なことに、入梅が宣言されるや否や、急に雨が少なくなり、たまに降れば土砂降りで、梅雨時に特有なしっとりとした風情はありません。
こういう亜熱帯じみた天気が続く時には、ここ関東地方の梅雨明けは早く、およそ「空梅雨(からつゆ)」と決まっています。
年寄りの老婆心(老爺心?)も手伝って、今から水不足を心配しています。
それにしても、蒸し暑いですね。
そのような昨今、あなた様におかれましては、お元気にお過ごしでしょうか。
熱帯夜の寝苦しさで睡眠不足、などということが無ければよろしいのですが。
寝苦しい夜を乗り切るために、ついついエアコンのお世話になる人も少なくないと存じます。
私なども、エアコンで室温を25度以下に下げておいて、軽い毛布をかけて寝るのが夏の習慣になってしまいました。
そして、時々不思議に思うのです。「昔は一体どうしていたんだろう?」
つくづく、人間というのは習慣の動物で、何年かかけて特定の行動パターンを積み重ね習慣化してしまうと、あたかもそれが生まれつき備わった自然な習性であるかのように錯覚してしまうのですから、困ったものです。
しかし、イマジネーションを活性化し、考古学者よろしく、習慣化された堆積物を掘り進めていくと、ふと、昔の記憶が蘇って来ます。
1950年代、まだ、東京タワーが立っていない頃の東京の夜。
エアコンの無い真夏の夜です。
人々は、窓を開け放って寝ていました。
網戸も普及しつつありましたが、まだ、緑色の蚊帳(かや)を吊って寝ている家が多かったはずです。
今から思えば、不用心この上ないのですが、そこそこ治安も良かったので、窓を開け放していてもめったに事件は起きませんでした。
まあ、隣近所、皆、開けっ広げの状態ですから、音は筒抜けで、何か起こればすぐに町内全体で情報共有?できるのです。
それに、東京の夜は、今とは比べ物にならないくらい静かでした。
午後8時を過ぎても賑やかなのは、銀座や新宿などの盛り場くらいのもので、住宅街は通る車も珍しく、ラジオの音も控え目で、逆に、遠くを走るの電車の音やラーメン屋台のチャルメラがはっきり聞こえるほど、街を静寂が支配していました。
そんな静寂の街を夜風が吹き抜けて行きます。
開け放された窓から窓へと涼しい風が流れ込み、人々の肌を優しく撫でては通り過ぎて行きました。
街路や民家の庭も、今のようにアスファルトやコンクリートで覆われてはおらず、むき出しの土は草で覆われ、あちこちから虫の声が聞こえていました。
それらの奏でる自然のシンフォニーは、疲れた人々への子守歌であり、街の静寂をさらに際立たせていたのです。
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